『いつもの所にいるよ』
 メールが送信されたのを確認した直後、照明が翳った。ふと見上げれば、急いできた様子の良尚が立っていた。昼でも夜でも、太陽みたいに明るい笑顔が咲いている。
 待ち合わせによく使うファミリーレストランで、窓際の席に座ったすぐにメールを送ったことが少し恥ずかしくなる。待つことができない幼子みたいだ。
「前から言おうと思ってたんだけど、実は俺さ、瞬間移動できちゃうんだよね」
 真剣そのものの良尚に、冗談でしょ、とは言えない雰囲気が流れる。目は点、だろうけれど。
「よ、良尚?」
「て、ことでさ、俺ね、他にも付き合ってる子がいて、華保ばっかり構ってらんないんだ。忙しいからもう行くな」
 じゃ、と手を上げた瞬間、姿が掻き消えた。
「えっ!?……えぇっっ?まっ…待ってっ!」
 急速に頭が傾ぎ、ごつん、と鈍い音がした。目蓋を開く。しかめるほどの光源とざわめきと活字が襲い掛かってきた。
 ペンを持つ形の右手が見え、だがその指は何も握っておらず、ペンは活字の上に転がっていた。次第に広くなっていく視野に、いつもの見慣れた店内がある。
 勉強していた筈なのに、いつの間にか転寝をした挙句、頬杖したまま大きく船を漕いでしまったらしい。テーブルに広げた教科書やノートの上に頭が乗っかっている体勢だった。左腕は頬杖の形のまま残っていて、派手な鈍い音は現実のもので。おでこに痛みが浮上する。
 盛大に噴き出した直後、噛み殺すように笑う声がした。頭を持ち上げ、向かいに座る人物を確かめる。
「入沢くん…。……苦しそう、だね?」
「だ、だって…よ。…ぷっ、く、ははっ」
 おなかを押さえ、無遠慮に笑うのだけは堪えていた。どちらかといえば、思いっきり笑い飛ばしてくれた方がこちらとしてはましに思えるのだけど。笑い転げている入沢は放置と決定。
 携帯電話で時間を確認するついでに、メールの送信ボックスもチェックする。良尚宛に送信したのは夢と同じだった。
 よかった。そんなに時間が経ってるわけじゃなかった。
 短い時間でもしっかりと夢をみてしまった。しかも、変な夢。
 よく願望を表すって言うけど…。
 あんなものが願望なわけない。だとすると、恐れ、だろうか。
「起こしてくれたらよかったのに」
 つい、不満げな声が出てしまった。
 入沢は、まだまだ笑い足りないところを無理矢理収めて目尻を拭う。なにもそこまで爆笑することないのに、とむくれ顔を晒す。
「あんまりにも気持ちよさそうに寝てたからさ。起こすのも可哀想だし、寝顔見れるなんて貴重だろ?東郷にはもう見せた?」
 さらりと言われ、まず貴重のと評するところが判らないなと思い、最後の質問の意味が飲み下せず、小首を傾げて入沢を見た。
「相変わらず鈍いなぁ」
 堪え笑い再来。感心している風ですらある言い方に、むう、と唇を尖らせてみる。高校の時から変わらないスタンスが嬉しい反面、こういう部分は嬉しくない。からかっている方が楽しいのは、見てれば充分に伝わっているけれど。
「判んない?みなまで言おっか?」
 にまーっと含みのある笑いをする。こんな笑い方をする時は話題が決まっていた。公共の場では地声で話せない系のネタだ。過去のそれぞれを思い出したら、顔が熱くなった。
 おや、とわざとらしく片眉を持ち上げる。「どう想像したの?やーらしー」
「なっ、なにがっ?」
 声が裏返った。ますます入沢の思うつぼではないか、と苦い心地になる。
「てか、してんの?」
「は?」
「いいね、その顔。ウケる。…で、どうなん?」
「……なっ、なにを?」
 入沢はくつくつ笑う。酔っ払いのノリではないか。ぷいと横を向いて、この話題を打ち切らないなら口きかないから、と態度で示したのだけど。
「そりゃ勿論、せっく、」
「入沢くんっ!」
 打って響く速さで立ち上がる。
 四人掛けボックス席のテーブルはそれなりの奥行きがあって、向いに座る入沢まで手を届かせる為には思いっきり身を乗り出す格好になってしまった。甲斐あって、入沢の口を塞ぐことはできた。掌にあたたかな息がかかる。
「なーにやってんだよ」
 淡々と呆れた声がして、首を巡らす。声と同じ表情が、固まっている華保とのんびり構えている入沢を見下ろしていた。
「え、へへ…。お疲れさま、良尚」
 引き攣った笑顔だろうなとは自覚していても、それ以外に作れるものがなかった。
 巧い説明など思いつかず、そろそろとした動きで入沢の口から手を離し、座り直した。華保の隣に腰を降ろすや、良尚は華保の両手首を掴み自分の方へと引き寄せた。なにを、と戸惑ううちにおしぼりで掌を拭きだす。行動の意味が判らず、ますます戸惑う。
「俺はバイキンかっての」
 入沢はむくれ、良尚は作業に集中したまま、「バイキンじゃなくて、悪い虫」と言う。あまりにも平然と言ってのけるものだから、大学で最近流行っている冗談かなにかなのかと解釈してみる。
「で、入沢の口から、なにがでてきそうだった?」
 よし、と満足したように作業を止め、華保を見る。
「へ…変なことを、ね。言おうとしてて…」
「変なこと?」
 単語を口にするのは嫌だなぁ、と口籠り気味だった華保の代わりに、入沢が茶々入れの要領で滑り込んでくる。
「興味本位で訊ねただけー。東郷、教えてくんねぇし」
 思い当たる節があったのか、良尚は顔をしかめた。「いい加減にしろよな。それより、約束してたんじゃねぇの?つぐみちゃん捜してたぞ、お前のこと」
 つぐみは入沢の彼女だ。入学してから知り合った子で、最近付き合いだしたと聞いている。
「用事済んだら鳴らすって言ってたけど」と入沢は携帯電話をのんびりと取り出す。「気づかんかったかなー」などと暢気に画面を確認し、「やっべぇ。電源落ちてら」と、ちっともやばいと思ってない口調で言う。
「大学、戻るわ」
 急に、興が削がれた顔つきで、仕方ないといった風に立ち上がる。
「あ、待って」華保は言うと同時に鞄に手を突っ込み、持ち歩き用の充電器を差し出した。「すぐ連絡入れてあげて」
「お。サンキュー。またな、舞阪」
 手を振って、目顔では「急いで」と急かしてみたのだけど、当の入沢にはまったくもって慌てる様子はなく、散歩を楽しんでいるくらいの歩調で出口へと向かう。
「約束してたんなら大学で待ってればよかったのにね」
「あいつの付き合い方って、ドライなんだよな」
「意外だよね。彼女の方からだっけ?だからなのかな」
 付き合い方の温度差、とでもいうのか。そういうのが違っているのかもしれない。想いの重さ、みたいなものが。
 始まりに差があっても、付き合っていくうちに縮まっていくものだと思うのだけれど、そうではないこともあるものなのかもしれない。
「さぁな」
 ひどく冷めた言い方だった。
「…良尚?」
「うん?」
「なんか考えてる?」
「うん。気づいたんだけど、あいつ、人と話す時名前言わないなーって。彼女が、って言い方すんの。二人でいる時はどうか知んないけど」
 時を遡らせてみたけれど、確かに思い当たらない。付き合い出したばかりだから照れがある、と説明づけられるし、案外本人は意識してない気もしなくもない。
「彼女さんと一緒の時は、優しい顔してるよね、入沢くん」
 友人たちと一緒に馬鹿騒ぎして笑っているのとは大違いで、印象に残っていた。そういうの、ちゃんと好き、って言う気がする。
「そう…だな?」良尚は思い描きつつの返答だからか、妙な同意になっていた。「でも、あの笑い方って華保とかでも同じだよ。女の子限定か?」
「女の子にだらしない人みたいな言い方になってるって」
 諌める響きで言う。良尚の表情から後半は悪ふざけだと判ってはいた。少なくとも華保の知る入沢はそんな人物ではない。
「ああ見えて一途だしな。まー、男相手であの笑顔向けてきたらキモイ。殴ってでも更生させないと」
「口悪いってば」
 苦笑する。仲がいいからこその無遠慮であって、誰に対してもの態度なら考えものだ。
 高校も大学も部活も同じ。過ごす時が共通であればあるほど、親しみは深度を増していく。それは友情に限らず、恋人同士でも当て嵌まる。
「いいなぁ、同じ学校って。毎日会えるよね。あ、でも、大学ってそうでもない?あー、でも。やっぱり同じ学校の方が会い易いよね」
「でもでも、ばっかだな」
 良尚は幼子に向ける柔らかさで笑う。
「だってさ、一回くらい同じとこに通うってゆーの、やってみたかった」
 笑顔を向けられたことで子供じみた発言を恥ずかしく思いながら、けれど言いたいことを勢いに任せて言ってみた。
「……」
 良尚は無言で、瞳を覗き込んでいる。
「…あれ?そうでもない?」
 こちらも温度差?――そう思ったら、背中から温度が引いていった。馬鹿みたいなことを考えてると、呆れた?


[短編掲載中]