ふ、と空気の動く音がする。良尚の吐き出した息だと判るまで、数秒要した。できることは、穴があくほどに見つめることだけ。
「なに不安そうな顔してんだよ」
 呆れたように笑う。呆れさせたのだと、余計不安になる。
「まぁ、しゃーないよな。目指すもん、違ってんだし」
 くしゃりと髪を撫でられ、その優しさ溢れる所作に、呆れられたのではないと悟った。どこか嬉しそうにも見えるから、直視するのが照れ臭く、ごまかすように店外へと視線を流した。
 店を出て歩き出したばかりの入沢と目が合う。手にしていた充電器を持ち上げ、振った。
「全然急いでないね。しかも、充電してないし」
 苦笑が洩れた。勿論、表面上には「苦」の方が出ないよう気をつけ手を振り返した。
 見送る方に気をとられていた所為で、顔の横に伸びてきた腕に一歩遅れて気づく。無邪気に手を振っている入沢から視線を転じた。
「メニュー?とるよ」
 背中に良尚の気配を感じる。触れていないのに、ぬくもりが感じられた。こんな近距離に少しは慣れた自分がいて、それだけの時を良尚と過ごしてこれた事実に、気持ちがあたたかくなる。
 華保の手がメニューに届く前に、良尚の指先が顎先にあたる。てっきり同じものを取りに動いているものと思い込んでいただけに、動揺した。
 小さな力が加えられ、顔だけ振り向かせられる恰好になった。
「?よしな、」
 声は、途中で塞がれた。唇に落ちる柔らかな感触と温度。優しく触れる、短い口付け。すぐに離れていく良尚は余裕の微笑みを携えていて、逆に華保の顔で熱が弾けた。
「茹タコだ」くすりと笑う。
「よっ…よし、よしな、おっ!?…ちょ、っと。え、なっ…なに、…え!?」
 ぐるぐる混乱する華保を見て、くくっと笑う。
「傑作」
「…っ、こっ…こ、こここんな所で、なにすんのっ…!?」
 こんな煌々と明るい場所で誰が見ているとも判らない状況でなど。思考回路が全く読めない。意味があるとも思えなかった。
「たまにはばかっぷる…?」良尚はふざける。「も一回?」
 触れようと伸びてくる手を両手で抑えつける。
「しっ…しないっ!もー、絶対入沢くんに見られたよ!」
 さっきまでいた入沢の姿は見えなくなっていた。
 タイミングよく見られてなければいいけれど。見られていたなら、絶好の揶揄ネタ提供だ。想像は容易く、溜息を吐く。じっとりと良尚を睨んでおいた。


◇◇◇


 ゴムチップウレタン舗装されたグラウンドをフェンス越しに眺める。風に運ばれるのは、部活に熱中する者たちの掛け声や新緑の匂い。土埃がない分爽やかだけど、幾分寂しくもある。自分が跳べていた頃にあった懐かしいものの一つだ。
 大学の敷地内にいるとはいえ、自分が他校生だからなのか、フェンス一枚が分厚い壁にも感じられた。高校とは違い私服なのだから、堂々としていれば溶け込めるものの筈なのに。
 遠目でも、何度目にしても、良尚のフォームは洗練されていて高雅だ。間近でなくても、見目奪われる。輝きはいつでも、彼の傍に寄り添っていた。
 切羽詰って勉強しなければいけない時以外は、こうして部活風景を眺めたりしていた。まだ数えるほどしか実行できていないけれど。
 力をもらえる。姿を見ているだけで、あの光を分けてもらえる気がした。
 グラウンド内で良尚が休憩態勢に入り、意識が自分の中に舞い戻ってくる。彼が跳んでいる間は目が離せなくて、そのまま意識ももっていかれていることが多い。
 そんな自分に気づく度、怖くなる。不安で仕方なくなる。
 もっと色々、自信持ちたいよ…。
 思わず零しそうになった溜息を押しとどめた。
「狙っちゃおうかなー」
 不意に飛び込んできた明るい声に、思わずそちらを見遣った。華保と同じく、フェンスのこちら側から陸上部の方を見ている女子が数名、固まって立っていた。
 周囲に聞こえていても一向に構わない音量で、聞く気がなくても聞こえてしまう。
「彼女いるって、誰かが言ってたよ」
 そこで、さっきの「狙う」はそういう意味だったのか、と気づく。やっぱり自分は、こういうこところが鈍いのだな、とも。
 誰を、が気になってしまった。彼女たちの向いている方角が方角なだけに。
「あの二人って付き合ってるんでしょ?」
 別の子が言う。固定された視線の先には良尚と本屋で会った関谷先輩がいた。他にも人はいたけれど、男女の組み合わせは残念ながらその二人しかいない。
「やっぱそうなんだー。似合いすぎでしょ。つけ入る隙無し、って感じ?」
 狙うぞ発言した子は残念そうに言う。
「残念がったところで、仮に彼女がいなかったとしても見向きされるとでも思ってんの?」
 一斉に笑い声が起きる。言われた方も一緒になって笑っていた。
「別の学校の人らしいよ」
 彼女有情報を提供した子が言う。みなが知らない事柄を話すことに優越感を持っている風でもあった。
「関屋さんじゃないの?えー、そうなの。てっきりそうだと思ってた。あの人とだったら誰もが認めるっていうかさ」
「なんかね、障害者らしいよ」
「障害者!?」
 鸚鵡返しに素っ頓狂に揃う。一段高い声色は、その単語は、心に突き刺さった。
「って、そこまであからさまな感じでもないらしいんだけど」驚きの勢いに気圧されたのか、若干怯んでいる。「軽めっていうか」
「軽めってなにー?」
 けらけら笑う。胸にも、耳にも、痛かった。
「脚にサポーターつけてる子と歩いてるとこ、目撃した子がいてさ。どうやら彼女らしいって」
「それってボランティアじゃなくて?」
 また、笑いが起こる。楽しいことも、面白いことも、感覚が共通している者同士の集まりだから、笑う時も揃う。仲がいい証拠なのだと、誇示しているようでもあった。
「その言い方ってどうなん?」笑いは収まらない。
 見知らぬ誰かを語る時、自分よりも下だと判断した時、人は醜悪に笑うことができる。
「その人が彼女?」
「みたい」
「えー、優しいんだねー。やっぱ恰好いい人は違うわー」
 またぞろ感嘆の声が上がって、「それってやっぱ、ボランティアって言ってない?」と突っ込みが入る。
 楽しそうな笑顔と、瞳がかち合う。咄嗟に逸らした視界の端で、彼女たちの視線が華保の脚へと落ちたのが判った。
 顔を正面に戻すと、知らずのうちに、フェンスを鷲掴みにしていた。強く、力が入っていたことに気づき、気づいたことで痛みが浮上してきて、絡めていた指をぎこちなく解く。
 声が潜められる。話を切るつもりはないらしく、ぼそぼそと耳に届いた。
 きっと、気づかれた…。
 唇を噛み締める。否応なしに聴覚が彼女たちを意識する。
「えー、違うんじゃない?」
「たぶんそうだって。だって、ほら。脚にさ」
「釣り合いとれてないよね。脚のことが無くてもさ。なんていうの?人並み?」
「ちょっと、聞こえるって」
 潜めた笑い声が起きた。蔑む声に、フラッシュバックする。重なる。高校の時、部室で囁かれていたあの声たちに。どこへ行っても、いつになっても、一生絡み続けるものだとしたら、逃れる術はない。
 やだな、泣きそう。
 目の奥が熱い。鼻がつんとする。唇を噛み締めて、それらを押さえ込む。こんなところで泣くわけにいかない。泣いてしまえば、様々なものが一挙に流れ出てしまいそうで。
 まだまだ、弱い。強くなれていない。
 いつになったら、寄り掛からずに立てるようになれるのだろう。


[短編掲載中]