カフェテリアで待っててもらったら?ずっと立ちっぱなしじゃ可哀想よ。
 そう言って場に入ってきたのは、麗香だった。
 単純に、好意なのだと思った。あの場では。とても友好的で物腰柔らかい微笑を浮かべていて、だから単純に、気遣いの深い人なのだと思ったのだ。
 麗香の提案で、良尚と入沢はグラウンドに戻り、麗香が案内してくれることになった。手が空くのは自分だけだからと言って。
 カフェテリアに設けられたスペースは広く、入口をくぐるとまず一面のガラスが目に入った。天井までの高さのガラス窓が端から端まではめられていて、開放的な造りになっている。
 営業時間は終了していて、静まり返っていた。カウンターの奥にある厨房は消灯している。学生の立ち入りに時間制限はないらしく、隅に置かれた自動販売機とテラス内の電気は灯っていた。
「いつもだったら誰かしらいるんだけど…。かえって都合がいいわ」
 独り言の音量で麗香は呟く。自販機の前に立つと料金を投入した。
「どれにする?」
「あの、払います」
「いいの」
 ぴしゃりとした言い方だった。さきほどまでの柔和さは微塵もない。空気がすっと温度を低めた。
「貴女に話があるのよ、東郷くんのことで。少しいい?」
 冷たい微笑だった。艶やかな唇は魅力的に模られていても、瞳は少しも笑っていなかった。
 麗香が先に座り、向かいに腰を降ろした。テーブルに置かれた紙コップから湯気が立ち昇る。喉が渇きを訴えても、手を伸ばすことができなかった。顔を上げて、麗香を見ることができない。じっと、湯気を見つめる。
 気高い威圧感に、気圧される。
「彼のことは、高校の時から知っていたわ。だから、大学が一緒になったと知って、嬉しかった。彼には才能がある。可能性を伸ばしてあげたいと思った。絶対にサポートしようと思ったの」
 あとに続く話の中身は明白だった。向けられる敵意と呼べる鋭い空気に呑み込まれそうで、身を硬くした。
「気持ちが重くて、疲れてしまうってことだって、あるわ」
 波立つことのない水面を連想させる語調だった。達観した者だけが放つことを許された静けさ。その深い深い底に隠された煮えたぎるものの正体を、華保には覚ることができない。
 テーブルの下で、手を組んだ。ぎゅうっと力を入れる。ついと顔を上げ、麗香を見つめ返した。
「良尚が…そう言っていたんですか?」
 話をするだけだ、と自らを鼓舞する。取り乱すことだけは避けたかった。動揺せずに、やり過ごしたい。
「一般論、よ。でも、疲れるって、零してたことならある。それが何を指しているか、貴女なら判りそうなものだけど?」
「そんなの、」
「彼が言うわけないって、思ってるの?」
「思っています」
 人に対して、良尚がそんな物言いをするとは考えられなかった。誰よりも他人を思い遣れる人なのだ。誰よりも優しい。
 ふ、と短く音がした。麗香が冷淡に笑む。ともすれば、蔑み憐れむほどの冷たさを纏う。
「たいした自信なのね」
「え」
「寄りかかって縋ることしかできないのに、重すぎる想いを受け止めてもらえるだけ、彼に想われてるって自信があるってことでしょう?」
「ちがっ…」
「どう違うの?」
 頭に血が昇って声を荒げかけた華保とは対照的に、あくまで端的に麗香は切り返す。ひたと据えられた双眸から、視線を剥がさないでいるのが精一杯だった。
 自信があるからじゃない。少しだってそんなもの、無かった。少しくらいあれば、自分の想いがコントロールもつけられないほどに比重を増していくことはなかったのかもしれない。
 誤解は解くべきなのだろう。けれど、麗香には不要にも思えた。華保がどう返答しようと、己の考えを伝えようと、意味を成さない気がした。
 寄りかかって縋ることしかできない。それは紛れもない真実で。
 人の気持ちは変化するものだから。好きでいることに疲弊してしまうことだって、きっとある。
「貴女ができる唯一のこと、教えてあげるわ」
 頼んでない、と跳ね返せなかった。麗香の言うことの一部はもっともだと思えたし、その一部はとても重要で見過ごしてはならない部分だった。華保が先延ばしにしてきた部分ともいえる。
 自分が彼の傍にいたくて、見ないふりをしてきた。
「別れて。貴女は邪魔にしかならない存在だわ」
「邪、魔…?」
 もしかして、と、猜疑心が産まれた。そんなわけはないと否定する声と、そうかもしれないと思ってしまう声が交差する。もしも華保が彼の立場だったら、自分のような彼女は疎ましくなってしまうかもしれなくて。
 良尚はそういうことを明言する人間ではないけれど、口にしないことが思っていないということではない。華保の存在を煩わしく感じたことが一度も無いとは、決め付けられない。
「納得いかない?邪魔だなんて、彼は言わない?ああ、そうね。言い方を変えるわ。身の程を知りなさい」
 どうしてこうも、自分は劣等感を抱かずにはいられないのだろう。どうしてこうも、麗香は自信に満ち溢れているのだろう。理由は簡単だ。彼女は華保が持っていないものを、欲しいと願うものを、手にしている。
 不意に浮ぶのは、練習風景を見ていた子達のこと。あれこそが当然の分別なのだ。分相応を自覚しているなど笑わせると、聞こえてくる気がした。
「目障りよ。消えて」
 物分りの悪い子供に苛立つような、露骨な嫌悪をぶつけてくる。
「目障り…」
 鸚鵡返しに反芻するしかできなかった。畳み掛けてくる言葉の波に押されるばかりで、返すことができない。
「あら、心外って顔ね。貴女、彼に必要とされてるとでも?」
 そうだ、とは言えなかった。ぎゅっと唇を噛み締めた。
 そんなにも、駄目なんだろうか。そんなにも自分は、不釣合いなのだろうか。釣り合いがとれているなどとは思っていないけれど、でもせめて、良尚が華保にくれる言葉は信じてもいい筈なのに。信じたいと思うことすら、許されていないと言いたいのだろうか。
 そこまで気を遣わせていた?そんなに、重荷だった?あの時、華保を引き止めた手前、華保を傷つけるから、重くなってしまっても、言えなくなってしまっただけ?
「貴女は不要よ。なんの為にもならないわ」
「……っ」
「貴女の為に、彼が犠牲になっていると、気づかない?」
 だからといって、初対面にも近い人物にここまで言われなければいけないのか。いくら自分に自信の持てない人間だからといって、貶される謂れはない筈だ。
「どうして、ですか」
 拳を強く握り締めていた。内側で麗香の声に同調する弱い自分を押し込めるべく、強く強く力を込めた。なけなしの自尊心を奮い立たせる。
 怒りを込めた華保の反撃に気づいて尚、麗香の態に変化はない。ともすれば、遥か高みから見られている気分だ。空気に呑まれ竦んでしまう前に、口を開いた。
「どうしてそこまで、言われなくちゃいけないんですか。良尚に言われるのなら、ちゃんと受け止めます。だけどっ、」
「判らない?」
 凛とした涼やかな声が、華保の反発をいとも容易く弾く。美麗な瞳がすっと細められ、それはまるで優劣を示すかのようだった。どうして判らないのかが判らない、という無知な人間に対する哀れみ。
「好きだからよ」
 吸い込んだ空気が固形物のように喉の奥に詰まる。真っ直ぐに見つめ返す以外になかった。咄嗟に返す言葉を見失う。
「彼が欲しいの。彼の才能には未来がある。その未来を護ってあげることも伸ばしてあげることもできる。あたしなら、彼の将来に有益だわ。決して妨げにはならない」
 それを決めるのは、誰なのだろう。この世には、本人の意図しない流れというものは必ず存在している。望むことがあって、それを手にするためにはそぐわない流れでも乗らなければいけない時もある。
「貴女は?」
「え」
「彼の為に、なにをしてあげられるの?同情で縛り付けて彼の可能性を狭めるだけ?」
 良尚が傍にいてくれるのは、同情だけだと決め付けてかかる。攻撃的なそれに、反論するだけの強い自信を持ち合わせていない。情けないを通り越して、己に失望する。
「奪ってでも手に入れたいの」
「そんなの…」
「判っているんでしょう?自分の位置が、どういうものか。早いにこしたことはないって。今はまだ、彼が我慢することで保っていられる関係かもしれない。でもいつか、疎ましくなるわ。奪われた貴重な時間を、貴女を、恨むようになる。今なら、誰かに言ってもらえれば、ちょうどいいきっかけだったって思えるじゃない」
 総てを見透かしたような瞳。美麗な笑み。一つも間違っていないと信じている強い意志。
 なにもかもが、敗北感に染められていた。
 なにもかもが、麗香の言う通りにしか思えない。
「貴女の所為で怪我をしたのよね?その所為で、推薦は取り消され、特待生入学もできなかった。特待生のみに与えられる特典が受けられずにいるのよ」
 知らない事実だった。あの怪我が原因で奪われたものは、あの時に知っていた以上にあったのだ。心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じた。
 言葉を失った華保に、最終宣言を叩きつける。完膚なきまでに、知らしめる為に。
「彼から空を、奪わないで」
 言葉が、容赦なく胸を抉った。


[短編掲載中]