空が青から橙、そして濃紺へとグラデーションを描き始める時刻。夏をあとに控え、夕刻に差し掛かっても日中のあたたかさが残るようになってきた。風に混ざって鼻腔をくぐろうとする土の匂いに、懐かしさが込み上げる。
 卒業して数ヶ月しか経っていない高校へと、足を踏み入れていた。部活時間の雰囲気を、眺めたかったのだ。
 人目を避けて、頭を低くした姿勢で、誰からも見つからない位置を陣取る。母校なのだから隠れる必要はないのだけれど、一目眺めておきたかっただけで誰かに見つかりたくなかった。
 懐かしさに身を浸してしばらく経った頃、鞄の中で携帯電話が震え出す。小窓に名前が浮かび上がり、通話ボタンを押すより前に、校庭に姿を捜した。彼は今、この校庭内で部活の真っ最中の筈。ついさっきまであった姿が消えていた。
 途切れないコールに捜すのを止め、ボタンを押した。変わらぬテンションの高さで、変わらぬ声が、華保を呼び捨てにする。
 久しぶりだなー、に対して「篠くんさ、呼び捨て禁止にしてたよね?」と返す。身を隠す格好のままでいるからか、自然と声をひそめていた。
「アドバイスほしいんだけど」
 無視には無視を、でもあるまいし。と思っても口にはしない。いちいち突っ掛かっていたら話が先に進まないのは経験で学んだことだ。
「電話で済む話?都合つく時に会うとかでもいいけど」
「今すぐ希望で」
「今?」
 ぬっと視界の端に影が入り込む。同時に、電話の向こう側からと電話をあてていない方の耳が、二重唱のように声を拾った。
「不審者か、っての」
「ひゃあっ!?」
 あからさまに呆れた篠脇が電話を耳にあてたままで見下ろしていた。
「ひゃあって…色気なしだな。きゃあ、とか言えねぇの?……華保には…無理か。柄じゃないもんなぁ」自己解決、妙に納得している。
 むっとして、立ち上がり、その目線が上にある事実に、また驚く。
「背、伸びた?」
「まぁな。ここ数ヶ月でバキバキと。そんだけコーチ業さぼってたってことだよな」
「さぼった言わないでよ。正式に終了したじゃない。挨拶だってしたし」
 卒業の数ヶ月前には受験を理由に辞任していた。後任はなく、顧問があとを引き継いで奮闘している。何度か相談を受けたことはあるけれど、華保が部活に顔を出すことはなかった。
「そうだっけ」篠脇は空とぼける。「つぅかさ、こそこそしないで堂々とくればいいんじゃねぇの?…やっぱ、来づらいか?」
 曖昧に笑っておく。明言せずとも、隠れていたことが物語っている。
「臨時でいいからコーチやってくんない?いっちゃんも喜ぶ」
「気持ちは嬉しいけど、厳しいかな」
 誰にとっても邪魔な存在ではなくても、誰かにとっての邪魔な存在に成りうることはある。――外岡の言う通りだ。
 抱える不安も、心の澱も、消滅しない痛みも。――こびりついて、離れない。共感して、沈むだけ。
「コーチの才能なかったと思うし」
「いまだアドバイスを受けようとしている俺の立場は?」
「もの好き」
「ひでーなぁ」ぼやいても、少しもむくれている感じはない。「才能ないこと、ないだろ」
 不意に、ぽつりと、呟かれた。胸が、きゅっと締まる。緩みそうな涙腺を叱咤し、ふざけた。
「慰めてくれてる?」
「ひねくれもん」
 へへ、と乾いた笑いを零して、校庭へと視線を向けた。数分なのか、数秒なのか、無言が落ちて、静かに頬を撫でていく風に乗せるかのように、小峰がさ、と篠脇は呟いた。
 あまりにも小さく、加えて、篠脇が話題にのぼらせると思っていなかった人物の名だけに、聞き間違えかと耳を疑う。
「トレーニングメニューをさ、いまだ使ってんだ。もらったアドバイスも、ちゃんと書き付けてて、いっつも確認しながらやってる。それってさ、認めてるってことだよな」
 それは、不意打ちで。
 嬉しくて、どうしていいか判らず、目尻が滲んだ。拭えば篠脇にばれてしまうから、無理矢理意地悪な笑みを作る。
「いつの間に小峰さんと仲良くなったの?」
「知りたくなくても知ってしまうことがあるってことだっての!」
 篠脇は完全拒否態勢でむきになった。
「嬉しい、な。在学中は仲良くなれなかったけど、接し方が違ってたら仲良くなれてたかもしれないよね」
 誰かにとって、必要な存在に成りうることもある。――そう受け取ってみても、許されるだろうか。
「だから華保は甘いってゆーんだ」篠脇は大仰に溜息を吐く。「そんなたまかよ、あいつが」
 語調とは裏腹な、華保と同じ類の思いも、見え隠れしていた。


◇◇◇


 頬杖をついたまま船を漕ぐ。頭の大きな傾ぎに覚醒する。目蓋を開けて、最初に捉えたものをじっと見つめる。またやってしまった、と苦く思う。
「お目覚め?」
 噛み殺した笑い声がして、更に苦い思いが込み上げた。ゆっくりと顔を上げ、向かいに座る入沢に何食わぬ顔を見せた。転寝なんてしてないよ、なんて、べたな嘘を無言で取り繕ってみる。
「今日は約束大丈夫?」
 華保の態がつぼに入ったらしく、おなかを押さえ出した。「してない」
 体裁挽回できず。まるで再現。こうなれば開き直るしかなく。
「てゆーか。寝顔見てるとか、悪趣味だから」
 笑いを堪えようとする入沢の前にはジュースの入ったグラスがある。氷が融けて、液体の上部に無色透明な水の層が形成されていた。
「暇だったの?」
「あ、ひっで。暇人みたいに言うなよ。こう見えても忙しい身なんだけどな」
「だって、それ」グラスを指差す。「全然飲んでない。飲むわけでもなくいるだけなのって、そう言うんじゃないの?」
「真面目に言ってるんだとしたら、やっぱ舞阪面白いな」
 真面目に言ってる。でも、面白いは心外だ。むう、と唇を尖らせ、すっかり冷め切った紅茶を一口含んだ。
「眠っちゃうくらい疲れてんなら、無理して逢いにくる必要ないのに。東郷がわがまま言ってんの?俺の学校近くまで来いや、とか」
 絶対に良尚が使わないようなドスを利かせた口調が笑える。
 このファミリーレストランにしようと言い出したのは、華保からだった。良尚の学校から近くて、待っている間、勉強をしていられるのが理由だ。
「迷惑してんなら俺がびしっと言ってやろうか?舞阪を顎で使うなんざけしからん、って」
「真面目に言ってるのなら、入沢くん面白いよ」
 さっきのお返しだ。目を合わせ、笑う。
「あたしが逢いたくてきてるの。少しでも顔見れたら嬉しいし。メールとか電話とか手段はあるけど、やっぱり顔見たいよね」
 逢いたい気持ちはもちろんある。抑え切れないくらい、ある。それ以上に、本当は怖いのだ。見えない時間が距離を育んでしまいそうで。彼じゃなきゃ駄目だと思っていても、相手もそうだとは限らない。想いを量る天秤があれば、自分たちはきっと、傾いている。
「惚気んね」
 ごちそうさま、といった風に、入沢は肩を竦めた。発言を思い返して、顔で熱が弾けた。
「あ…や、そー、なの、かな。うん、でも…。なんかさ、不安になっちゃうんだよね。逢える時に逢っておかないと。入沢くんはそういう気持ちにならない?」
 本当は、躊躇っていた。麗香の言ったことを、忘れたわけじゃない。忘れられることでもない。
 今の華保は、目の前の傍にいたい気持ちを優先して、深刻な問題を先延ばしにしようとしているだけなのだ。脇に避けて、見ないふりしてる。昔からの、悪い癖。
 ――だって、無理だよ。知ってしまったもの。
 彼の傍にいる心地よさを。あたたかな手を。優しく包んでくれる腕を。柔らかく笑む瞳を。囁いてくれる想いを。
 知ってしまったら、離れられない。好きを、消滅させるなんて、できない。
 結論が出せず、完璧な解決策もなく、いつも通りにするしかなかった。
「どうかな」
 投げ遣りな声に、意識を入沢に戻す。
「ドライだね」それを否定するつもりはないけれど、寂しい感じがした。「ちゃんと好き?」
 勝手な想像と言われればそれまでだけど、普段の入沢からは連想できない付き合い方だった。人目憚らずべたべたしてみたり、聞いてなくても惚気てみたり。照れもなくやってのけそうなイメージがある。
「……好き、だよ?ちゃんと。笑った顔とか、へにゃって崩れんの。あ、そこは舞阪に似てるな」
「へ…?」矛先がいきなり向いてきょとんとする。思わず自身を指差した。「あたしの笑顔って崩れんの?」
「可愛い笑顔、ってやつだな」
 にや、と笑う。全然爽やかじゃない。
「褒めてるようには聞こえないんですけど?」不満げにすれば、入沢は「褒めてるっしょ」と適当さ全開だ。
「でもさ、可愛いって思えるのは、ちゃんと好きってこと、だね」
「……」
 当然返ってくるのは肯定の言葉だと思ったのに、沈黙されてしまった。
「え…。あれ…?」
 急に流れ出した重い空気に怯む。真剣な色が二人の間を染めていく。
「一応俺さ、舞阪に告白したわけじゃない?」
「え、」
「んで、想い消滅宣言してないわけ。つまり、こうして姿見かけたら思わず逢いに寄ってしまうくらいに気持ちは残っているわけだ」


[短編掲載中]