「え…?」
 入沢には彼女がいる。それ以前に、何でもないって顔で華保と接していたのは入沢だった。
 深刻に黙り込んでしまった華保に対し、入沢はぶはっと吹き出した。またぞろ「え、」と間抜けに零した。
「うそうそ。ちょっと虐めてみました。あんまりにもうまくいってて幸せそうだったからさ。単なる僻み」
 おなかを抱え込んで笑う仕草をとっている。ふざけた発言はいつもと同じ。つられては、笑えなかった。言葉を失う。冗談めかしているが、さきほどまでの真剣な視線が脳裏から剥がれない。今だって、笑顔を模っているだけで、目は真摯な光を宿している。
「舞阪?まじに冗談だって。って、日本語変だな。いや、ほんと。この手の冗談は口にしちゃいかんよな。ごめんな?」
 華保の顔の真ん前で、手をひらひら振る。焦点はちゃんと合っているし、しっかりと入沢を見ていることは、彼にも判っている筈だ。冗談だと笑い飛ばしてしまおうとしているのだ。
「ほんとにほんとだから。な?ごめん、て。彼女のこと、ちゃんと好きだっての。傍から見てたらドライかもしんないけど、たぶんまだ付き合って短いからだよ」
 入沢は、付き合っている人のことを『彼女』と呼ぶ。名前を口にしない。それは良尚が言っていた通りで。引っ掛けるほど重大なことではないのかもしれないけれど、良尚が気にするほどのことなら、気にするなという方が無理な相談というもので。
「んで、舞阪さ、疲れてる以上になんかあったべ?」
 無理矢理打ち切ろうとしているのが判った。判ったが、華保には継続させる勇気がなかった。この話題を掘り下げて、誰が幸せになれるとも思えない。
 お待たせしました、と明るい声が唐突に割り込んだ。店員が手にしているパフェを、入沢はテーブルの真ん中に置くよう指示する。
「入沢くん甘いの食べないよね?」
 ものすごく苦手だと言っていて、それは嫌いと言うんだと、良尚に突っ込まれていたことがあった。
 ひと掬いしたスプーンの先を華保の口元に運んでくる。
「疲れてん時にはこれに限るんしょ?特に女子は」
「へ?」きょとんとしてる間に、更にずいっとスプーンが近づく。「え、いいよ、いいよ」
「食べなかったら勿体無いだろー。俺、食わんし」
 強引な理由付けで納得させられた感は否めないけれど、食べ物を粗末にする理由もない。よもやこのままパクリといくわけにもいかず、スプーンを受け取った。礼を言って、手前に器を引き寄せる。
 満足そうに見守る双眸と目が合わないようにしながら、ちまちま食べ始めた。甘さが沁みて、冷たさが喉を滑り落ちていって、身体の中心がほんわかとなる。
「あたしって、重いかな」
 気づいたら、ぽつりと零していた。
「は?」
「ちょっとでも時間あれば逢いたいとか思っちゃうのって、重い?入沢くん達みたいなのが普通なのかなって」
 スプーンを持つ手に力が入る。器を支える指が、小さく震えた。食べかけのパフェをじっと見つめる。
「人それぞれだろ。つか、舞阪たちがたぶんフツー」
 本気で呆れているのか、呆れた風を装っているのかは判然としない。やっぱり顔を上げられなくて、パフェの中身をぐりぐりつついた。
「こーゆうのも、負担…かも」
「こーゆうの?」
 悶々と内側に閉じ込めていたものを少しだけ開放したら、簡単に堰が崩壊してしまった。
「逢えるかどうかも判んないのに待ってたり、とか」
「こーゆうのも、の『も』ってゆーのは、アンド?他にもあるって?」
 こっくりと頷く。
「色々。あたし、こんなだし」
「こんな、の意味判んないし。――やっぱ、なんかあっただろ」
 唇を真横に引き結んで黙り込む。麗香との話を言ってしまいたい衝動を、懸命に押さえ込んだ。中途半端に話し出して、止めていることに、罪悪感を覚える。
 俯いていたら入沢の手が伸びてきて、スプーンを取り上げた。細長い器に取り残した状態で、器をテーブルの脇に避ける。組んだ腕をテーブルに乗せた入沢の視線をひしひしと感じた。まーいさか、と暢気に呼び掛けられる。
「中途半端に話ちゃいけん。なした?」
 暢気にふざけた口調で導こうとしてくれる。崩壊した堰では制止はかけられなかった。
「麗香さん、って…綺麗な人だよね」
 強靭な光を彼女は持っている。それは自信に繋がるし、未来を啓いていく力になる。周囲を巻き込んで、明るく照らしてあげることもできる。
「なんの話?」
「世の中には色んな人がいるって話」
 外岡が話してくれたことを、話した。彼と自分は似通っている。自分と付き合うことで、かつて外岡の彼女たちが味わった嫌な思いを、良尚に強いていないか不安であると、零していた。
 脚が悪いことで注目を集めてしまうのは避けられない現実で、一緒にいる人が不快に思うかもなど、これまで深く考えたことがなかったことに気づかされていた。
「こんな話をしたらきっと、今以上に気を遣うだろうし、気を遣われたいわけじゃなくて…。負担にならない為にはどうしたらいいのかなとか、考えてみたりして」
 離れたくない。傍にいたい。だから必死に路を捜してる。
「考えすぎだよ、舞阪。もっと悠々と構えてりゃいいんだ」
「そう、かな…」判らない。「良尚は眩しいよ。眩しくて、時々、見ていられなくなることがある。あたしとは、」区切り、飲み込んだ。
 釣り合わないと、声にしたくなかった。
「関屋先輩は?どっから出てくんだ?」
「……画になるとか、案外軽い気持ちで口にしてたけど、良尚を想うなら…」やっぱり口にしたくない。喉の奥で停止させ、空気と一緒に飲み込んだ。
 ひとつ息を吐いた入沢が、あとを継ぐ。
「東郷は関谷先輩と付き合うのが理想の形じゃないのか、って?」
 首肯はできなかった。否、したくなかった。したくないから、言葉で濁した。
「こんなこと言ったら良尚怒ると思うんだ。言うつもりもないけど」
「おおいなるノロケ継続中、だな」
「え、」
「雑多な情報取り入れすぎて、勝手に想像して、勝手に不安になってる。根底にあるのは、東郷を好きで好きで仕方ない」
 肩を竦めておどける。そんなつもりで話していたわけではなかった。
「これは、愚痴だよ、ね…。とりとめなくて、解決できない愚痴。ごめんね。話されたって困るよね」
「東郷といると疲れる?今のだけ聞いてるとさ、舞阪がんばってんなーって思う。がんばりすぎだよなーって。東郷がそれを望んでいるとは思えないし、舞阪だってそうしたいわけじゃないんだろうけど、無意識のうちに頑張っちゃうんだろうな。東郷ってさ、なにげにすごいもんな」
 僻みとか妬みとか一切感じられないさっぱりとした口調につられ、頷いていた。空気に後押しされて思わず話してしまったけれど、鬱々としていた気持ちが少し軽くなった気がした。
「俺には愚痴れるほど気を許してるってこと?」
「入沢くんは優しいから。つい甘えちゃってるのかも。気をつける」
「大歓迎だな。東郷に嫌気がしたらすぐおいで」腕を広げる。「おすすめ好物件」
 思わず噴き出す。入沢は「いひひ」と変な笑い声を立てた。
 優しく気遣ってくれるからと、底なしに誰かに甘えることはしてはいけない。気をつけていないと、知らぬ間に傷つけてしまう。
 境界線を引くことは、必要だ。
「つぐみちゃんのこと、大事にしてあげて?」
 ちぇ、と子供が拗ねるみたいに鳴らす。
 入沢の優しさに甘えて彼を傷つけたことは、忘れてはいけない。どんな心境だったとしても、あの優しさを受け入れてはいけなかった。
「東郷は気づいてんの?舞阪に視線が向けられること」
「気づかれたくないよ、そんなの」
 気づかれてしまったら、申し訳なくなる。好奇の目に晒されるのは、喩えその標的が己でなくても、気分を害すもので。
「気にするなって、良尚は言うだろうし、信じれる。けど、これはそーゆうのとは違うの。あたし、良尚が笑ってる顔が好きなんだ。太陽みたいだなって思う。あたしまで照らしてくれてるみたいで。でも、いつか、曇らせてしまうんじゃないかと思うと、こわい」
 眩し過ぎて、直視できない。目が眩んで、見えなくなる。どんなに手を伸ばしても届かない、太陽みたいな存在。それはあまりにも強大すぎて、近づくことすらしてはいけなくて。
「どんだけ自分に自信ないんだよ。こんなとこでウジウジ迷ってるから気が滅入るんだって。東郷迎えに行こう?たぶんまだ大学にいる」
 華保の返事を待たず、入沢は伝票を掴んで立ち上がった。


[短編掲載中]