夜の学校はひっそりと佇んでいる。
 廊下は基本的にどこも灯りが点っていたが、扉一枚隔てた各教室は暗闇に閉ざされていた。正面入口で入沢の友人と遭遇し、良尚が構内にいると教えてもらえた。人気の途絶えた棟へと進入した時、底冷えするほどの静寂に、踵を返したくなる。
「まだいるのかな」
 入沢の友人が見かけたという教室を目指していた。響くのは二人分の足音だけ。
「いなかったらいなかったで捜せばいいよ。とりあえず行ってみよう」
 ファミレスを出た時点で鳴らした携帯電話は、留守電に繋がった。
 引っ張られるままについてきてしまったけど、本当によかったのかと思う。顔を合わせても何を話せばいいのか判っていなかった。
 それに、麗香に会わないという保証はない。会いたくはなかった。
 目指した教室の照明は点いていた。人の話し声もする。ドアは開けっ放しになっていて、入沢は先に入っていった。あとに続いて踏み入る。階段教室の上段側の出入り口だった。
 黒板に近い下段付近に二つの人影を見つけた。ひとつは、良尚の背中。向かい合って立っているのは、一番に顔を合わせたくなかった、麗香だった。
 不意に、麗香と目が合う。一瞬見せた妖艶な微笑に、ぞわりと背筋に不快感が走った。
 東郷くん、と呼ぶ。静寂の教室内を、鈴が鳴るような声が響いた。机上に向かっていた良尚の瞳が、麗香に向かう。間際に近づいていた麗香の細い指が頬に触れ、二つの唇が重なった。
 数秒、時間の流れが停止したみたいだった。鮮烈に脳裏に刻まれたのは、直前の、麗香の挑発的な瞳。華保を射抜いた視線。
 良尚の手が麗香の肩を押し遣って、身体を離す。もう片方で口元を拭った。微笑みを携える麗香を凝視するばかりで、まだ華保たちには気づいていない。
「行こう、舞阪」
 入沢の怒った声がした。わざとらしく、聞こえる音量だった。根がはったように立ち尽くす華保の手を掴む。ぐい、と引っ張られ連れ出された。
 大またで前を行く入沢の後ろ姿を虚ろに見つめた。頭が、考えることを、拒絶している。連れられるままに足を動かしていた。
 入沢の速度に対応しきれず、脚が絡まりそうになる。入沢は止まらない。背中いっぱいで怒っていた。
 声がする。追いかけてくる良尚が華保を呼んでいる。それでも入沢は止まる気配をみせなかった。
「入沢くん…」
 思考に靄がかかっていた。呆然とした声だと、他人事のように思う。
 良尚が華保を呼ぶ。華保は入沢を呼ぶ。走る足音が近づいている。振り返らない。入沢も、華保も。
「入沢、くん…。良尚が、呼んでる。止まって」
「構うか」
 入沢は怒っていた。頑固なまでに振り返ろうとしない。華保を呼ぶ声を振り切るように、どんどん歩いていく。呼ぶ声も、止まらない。足音は、どんどん近づいた。
「ねぇ、止まって…」
 どうして止まりたいのか、判らなかった。良尚の顔をまともに見れないと判っているのに、止まらなければいけないと思っている。どうしたらいいか、判らないくせに。
「入沢く、」
 後方から、腕を掴まれた。ほぼ同時に、入沢が止まった。真ん中に華保を挟んで、男二人が対峙する。
「華保、さっきのはっ…」
 良尚の表情は焦燥に染められていた。混乱も、していた。その中で、真っ先に華保を追いかけてきてくれた。その事実は嬉しい筈なのに、喜べなかった。きっと、思考に靄がかかっている所為だ。
 眺めるようにぼんやりと良尚を見て、言葉を最後まで聞かぬうちに、首を巡らせた。入沢は、良尚を睨んでいた。怒りの矛先は良尚なのか、と思う。
 駄目だ。頭、廻んない…。
 緊迫した状況であるのに、しっかりできない。逃避していた。正面から向き合うことを、拒絶していた。
「なに油断してんだよ」呻くように低く、入沢は絞り出す。「俺、忠告したよな」
 気をつけろ、と言ったのは、このことだったのだろうか。二人の間でどんな遣り取りがあったかを、知ることはできない。正直、今はどうでもよかった。
 廊下の窓ガラスに、外の闇色に半分透けながら、三人の姿が映っていた。どこかで、聞いた話を思い出す。
 育ての親と産みの親が子を取り合うも、話し合いでは折り合いがつかず、町奉行に訴えた。彼は両側から子供の腕を引っ張れという。痛がって泣く子供の手をすぐに放した母親こそが、本当の親だと決めた話。
 先に放した方が、本当にその者を大切に想っている証拠だとした。
「なんで隙みせてんだよ」入沢の声は、怒りに満ちていた。堤防を決壊させた激流のような怒り。「俺は…。――お前だから、俺はっ…」
 くそ、と言葉を切り、華保を掴む箇所に力が入る。連れていこうと動き出すのと、華保が「あたし…」と呟くのが重なった。入沢は動きを止め、華保の次の声を待つ。
 顔を鈍重に動かした。身体が重かった。内側から滲み出す重量感に潰れてしまいそうになる。心が圧迫されている。
 良尚を見つめる自分の瞳は、どんな色を宿しているのだろう。
「良尚があたしを好きでいてくれるの、すごいことなんだって思うのと同時に、自惚れてたのかもしれない。嘘つかない人だって信じてるから、言ってくれる言葉に、きっと自惚れてた」
「――っ。…華保。自惚れていいんだ。さっきのは本当に、」
 遮る為だったのか、聞きたくなかっただけなのか、判然としない。ただ一心に、首を振っていた。
「あた、し…。考えたい。…時間が、ほしい」
 喉が詰まる。纏まらない思考で捻り出す声に、涙が混ざる。泣き出したくないのに。弱い自分が嫌になる。
「考えるって…なんだよ、華保。……別れたいって、こと…なのか?」
 首を振った。そうじゃない。そうじゃないけど、はっきりとは判らない。
「別れたくは、ないよ。…時間がほしい、の。――きっと、一緒にいたら、駄目なの」
 今は、なのか、ずっと、なのか。自分でも判らない。
「別れたくないんなら、なにを考えることがあんだよ」
 良尚の声は、怒ったように響く。責められた気がして、その圧に、焦りが蠢く。焦れば焦るほど、混乱が混乱を招き、頭の中が真っ白になっていく。
「……正しい、こと…」
 無意識に呟いていた。何も考えられなくなった脳内に、不意に生まれたコトバ。口にした途端、そうだ、と声がした。気がした。自身の内側からの、声。
 そうだ。間違いは正さなければいけない。
「正しい?なにが間違っているっていうんだよ」
 食い下がる良尚を、もう正面から見ることができなかった。一刻も早く、この場から逃れたかった。
 出逢わなければよかったね。出逢わなければ貴方は傷つかずに済んだのに。――喉まで出掛かって、吐き出すことができなかった。言ってしまえば総てが終わりになる。
「……判んない…よ。時間が、ほしい」
 今は顔を見るのも辛い。
「華保っ…」
「――ご、めん…。ごめん…ね、良尚…」
 腕を束縛していた二つの力が緩む。ほぼ、同時だった。おそるおそるといった風にゆっくり距離をとり、床を見つめたまま良尚に背中を向けた。
 二人を置き去りに、歩き出す。一番手前の角を曲がり、振り返らず歩いた。方向も判らないまま歩いて、気づいたら走っていた。無我夢中で走って、色んなものを振り切るように走って、唐突に、膝が折れた。かくん、と、マリオネットが突然くずおれるみたいに。
 壁に手をついて転倒は免れたけれど、一度痛みを意識してしまっては、歩くことも不可能だった。数メートル先にドアを見つけ、ゆっくりと近づく。すんなりと開かれた先には、闇がぽっかりと口をあけていた。さきほどよりも小規模の階段教室が闇に沈んでいた。
 中に入り後ろ手に閉めると、世界から隔離された心境に包まれる。中ほどまで進み入り、へたり込んだ。一気に身体が重量感を増して、動けなくなる。俯いて、床を見据えた。
 自身の心臓の音がやけに耳につく。痛くて、苦しくて、呼吸が巧くできない。頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
 静かにゆっくりと、扉の開く音がした。廊下の灯りが脚にかかる。その中に差し込んだ影が、空気を乱さぬようにと、静かに、ゆっくりと、動いた。近づいてくる。顔を上げることも、相手を確認することもせず、じっと床を見つめ続けた。
 やっぱり頭の中には靄がかかっていて、考えることを拒絶している。
 気配が近づいた。見つめていた先に靴先が入り込む。気配が真際に迫り、片膝をついた。舞阪、と、ひどく暗い声が呼んだ。無反応のまま、息を詰める。
「あれは…事故みたいなもんだ」入沢は平坦な声音を作っていた。「東郷には当然、気持ちなんてないし、関屋先輩を受け入れるつもりは微塵もない」
「…ん」床を睨む。「判ってる、よ…?」
 奥歯を強く噛み締めた。情景が生々しく蘇る。少しでも気を緩めたら、泣いてしまいそうだった。
「あの人と、目が合ったんだ。……たぶん、わざと。あたしがいるから、あんなこと…」
 卑怯だと罵る権利を、華保は持っている。彼女の立場を振りかざして、責める権利を持っている。できなかったのは、麗香に言われたことが正論という事実に変わりがないからだ。ぐじぐじ迷って結論を出さずにいる華保へ、示したのだ。叩きつけた布告状を実行に移しただけ。
 こんなことがなくても、否、あった今でも、彼への気持ちは少しも揺るがない。
 けれど麗香の言うことはもっともすぎて、それとこれとを切り離して考えることは許されない。
 総てを取るなど、不可能だ。どれかを選ぶのだとして、どれも大事すぎて、なにもかもをとりたいと願うのは、許されない。
 好きな人の為に、自分はなにができるのか。想うこと以外に、できることがあるのだろうか。
 答えは見当たらない。
 できることがないどころか、枷にしかならない。その事実を、心の片隅に仕舞いこんで、蓋をして、何重にも鍵を掛けて、見て見ぬふりして。
 彼が想ってくれることに、甘えてきた。その想いが消滅するかもしれない未来を、考えないようにして。
 ――大切だからこそ、やれることがあるんじゃないの?貴女にしか、できないことが。
 言い切った麗香の顔が目に焼きついている。華保の顔を覗き込む入沢の顔にすら投影されそうで、きつく目蓋を閉じた。両腕で顔を覆う。
 舞阪、と躊躇いがちに呼ばれ、けれどそのままの格好で首を振る。あまりにも優しい声音で、泣きそうになった。
 再度呼ばれ、手首を掴まれる。とっさに身を硬くしたけれど、抗うだけの力で抵抗することができなかった。


[短編掲載中]