拓けた視界に、さきほどよりもずっと近くに、入沢の顔があった。真っ直ぐに射抜かれ、見つめ返す。
 涙が溢れ出さないことを、ただひたすらに、祈るしかなかった。
「あいつ…、どうして舞阪にこんな顔させんだろうな」憎らしげに呟く。「泣かせるような真似、すんだよ」
「あたし、泣いてなんかない。良尚は…あたしを、大切にしてくれてる。さっきのだって、良尚は悪くな、」
「判ってる」
 低く、感情を押し込めた声に、身を竦ませた。今自分は、どんな顔を見せているのだろう。
 入沢が苛立つのは、自分のこんな態度にもあるのかもしれない。きっと、怯えた目で、彼を見ている。
 ふい、と入沢の方が先に目を逸らし、ごめん、と言う。何に対して、とは訊けなかった。
「…そんなの、見てれば、判る。……一緒にいるの見てきてるから、それくらい…判る」
 彼がここまで苛立ちを露わにしているのは珍しい。こうして直接ぶつけられるのは、初めてだった。気に障ることをしてしまったのか、言ってしまったのか。それとも蓄積されたものが爆発したのか。
 記憶を探るだけの余裕が、今はなかった。
 さきほどの場面がしつこいくらいに逆行再現していて、それに付随するかのように、あらぬ疑惑までが胸中を埋め尽くしていく。濁った粘着質のそれは、否定する心を止め処なく覆っていくのだ。
 忠告したと、入沢は言った。いつかああいうことが起こると想定していたのだと、想像がつく。にも関わらず事態は起きた。人付き合いに警戒心を露わにすることは不可能だとしても、二人きりであっても、忠告が頭を掠めもしなかったのだろうか。
 もしかしたら、忠告を、そうなっても構わないと考えていたのではないか。華保が気づかなかっただけで、本当は麗香が言った通り、自分から離れたいと思っていたのではないか。
 違う…。良尚はそんな人じゃない…!
 そんな気持ちが芽生えてしまったら、必ず彼は伝えてくる筈だ。後ろ向きな思考を否定してすぐに、けれど、と考えてしまう。
 自分が及ぼす影響が、彼の負担になっていないだなんて、誰が言えるのだろう。一度は離れようとした華保を繋ぎとめたのは、良尚だ。その責任を感じていないとは言い切れない。優しいから、放っておけないだけかもしれない。
 本音を押し殺しているだけかもしれない。
「舞阪は、残酷だよな」
 平淡な、冷めた声色に、目の前の現実へと引き戻される。
 すぐには入沢の言葉の意味が飲み下せず、まじまじと見つめ返した。念を押すように、「残酷だよ」と言う。
 ひゅ、と息を飲んだ。背筋が冷たくなる。言葉の意味に、動揺する。
 手首を掴む手に力がこめられた。痛みを穿つほどではなくても、逃れるのは困難なほどの。平淡な声を出した入沢は、言い放った直後、俯いた。普段なら見えない位置にあったつむじが見える。
 先を聞きたくない心地が湧いても、それを阻止する術をもっていなかった。声すらも、出すことが叶わない。
 こくん、と空気を取り込む。実体のないそれは、喉に引っ掛かるようで、苦しさと共に身体の中心へと落ちていった。
「俺にはもう、想いが残ってないとでも、思ってた?相談される度、俺にもまだチャンスあるんじゃないかって、期待してたって、知らなかっただろ」
 なにもかも終わったんだって、そうやって安心して。
「それでも、最低だって、思えないんだ。全く自分を見ない相手なんて、気持ちがあるなんて少しも疑いもしない相手なんて、最低だって思えたら、きっと楽だった。前に宣言した通り、幻滅できたなら離れることだって、きっとできた。けど…本当に最低なのは、俺だ」自嘲気味に笑う。「幻滅すべきは、俺なんだ」
 纏わりつく空気が冷たい。掴まれた手から伝わる熱だけが、確かだった。
「彼女に告白された時、名前も知らない子だったんだ。だから、考えることなく断った。けど、一度接点持っちゃうと、しかも自分を好きになってくれたって知ったら、それまでとは違ってくるだろ?見かけたらやっぱ何となく見ちゃうし、何となく気に掛かる。一度はあっさり断ったくせに、恋愛感情なんて全くないのに、どうしてOKしたと思う?」
 華保に答えられるわけがなかった。真剣すぎる声音に、心が萎縮する。
「笑った顔が似てるっての、ほんと。ふにゃ、って、こっちまで溶けそうに笑うとこ、そっくりだって思った。――それで、言ったんだ」
 華保を掴む手に力がこもる。怖い。この人は誰なのだろう?
「俺たぶん、君のこと好きになんない。それでよかったら付き合うよ、って。……何様だよって感じだよな。けど好きな奴の傍にいられたら、人って笑うだろ?その笑顔だけ、見たかったんだ。彼女は自分を好きで、好きな奴に見せる笑顔は俺に向けられる。その時間だけは、錯覚できたんだ。別の本命の子に笑った顔が似てるってだけで傍に置かれてるなんてさ、微塵も思ってないわけ。こんな奴に、もしかしたら好きになってもらえるかもって期待して、傍にいようとすんだ」
 痛い。心が、痛い。想いが、痛かった。
「で…でもね、入沢くん、彼女に笑いかけてたよ?彼女が隣にいて、すごく自然だった」
 内面に渦巻く感情など、少しも見えなかった。
 嘲るように、入沢は息を吐き出した。
「そりゃ、そうだよ。優しくしなきゃ、笑ってくんない。笑顔見るためだったら、演技だってするよ」
「入沢く、」
「舞阪に嫌われたくなかった。だから気持ち出さないようにしてた。――でも、やめにする。東郷だけ見てるって判ってても、抑えらんない」
 強く入沢の唇が引き結ばれるのを、どこか虚ろな気分で見つめた。ここにいるのは自分なのに、入沢に見つめられているのは自分なのに、そうではない感覚。
 また逃避するのか、そう自身を罵った時、唐突に身体が傾いだ。
 前方に引き寄せられ、入沢の胸に顔を埋める格好になる。直前まで華保の手首を拘束していた手は、華保の背中と後頭部にあった。腕を折った体勢のまま抱きすくめられ、反射的に突っ撥ねようと動いていた。けれど、もがくこともままならない。
「い、りさわ、く…んっ」
 息苦しさを覚える。圧力によるものではなく、内側から込み上げる感情に喘いだ。彼を傷つけた事実に、傷つけ続けていた事実に、嘖まれる。
 耳元で名前を囁かれる。あまりの甘い声に、背筋に電気が走った。
 再び、身体が傾ぐ。ふわり、と浮遊感をもって。
 視界の動きが治まった時には、入沢の顔が正面にあった。その背景に、天井がある。背中いっぱいに硬質な感触があって、ひんやりとした温度が沁み込んでくる。急速な動きだったのに、痛みはなかった。むしろ優しく、包み込む感触。首の後ろにあった掌がそっと引き抜かれた。
 組み敷かれた状況にあって、恐怖は消え去っていた。さきほどまで、あんなにも怖かったのに。
 あんなにも甘く名前を呼ばれれば、添えられていた掌は、華保に衝撃を与えないためだと知れば、怖いとは思えない。入沢の仕草すべてに、優しさが溢れていた。
 入沢の気持ちが本気で、まだあることを知る。ファミレスで冗談めかしたのは嘘だったのだと知る。
「好きになんなくていい。傍にいたい。舞阪の、傍に。俺を、頼って…」
 かぶりを振った。この人に甘えては、いけない。
「駄目、だよ…。甘えちゃいけない、の…。入沢くんに、頼ったら…駄目、なんだよ…」
「……だったら、」
 急速に冷えた声音に、動揺する。
「だったら、嫌ってくれ。心底俺を嫌って、目の前から消えろって、願えよ」
 冷たい声が突き刺さる。
「できない、よ…。そんなの…無理、だよ…」
 泣きそうに歪む入沢の顔が滲む。謝るしかない。けれど、謝ることは正しくない気がした。何を言葉にしても、正しくない気がした。
「嫌えよ、俺を。憎め、よ。…離れるから。二度と口きかない。舞阪に、近づいたりしない」
 痛い。痛すぎて、苦しい。心が破けそうだ。
 目の前の入沢も、苦しみもがいている。痛くて泣きそうな顔をしていた。ゆっくりと近づいてくる。どんどん近づいて、唇を重ねた。
 以前のような触れるだけの、戯れのようなキスではなかった。想いを注ぎ込み侵食させる、深く、痛々しいほどに優しい口付け。
 互いの間にはただ、痛みだけが存在した。


[短編掲載中]