誰も傷つけずに生きられる方法を、知りたいと願う。

「お願い、篠くん」
「いっちゃんに怒られてもしんねーぞ」
 今日は堂々と部活に顔を出した。といっても、終了間際を狙った時間帯に、なのだけど。
 篠脇は、顔を合わせた時から不満な様子を隠そうともしていない。昨夜電話して用件を話した時も同じだった。華保がコーチをしていた頃と変わらない篠脇の素直に感情を出す態に、ほっとする。
 バーに手をかけ、片付けの阻止体勢をとっていた。跳ばせてほしいとの要求に、結局のところ電話では了承が得られていない。とにかく明日行くから宜しく、と言って、強引に約束を取り付け現在に至る。
「さっき職員室に行ったばっかだから、まだ戻ってこないって。あたしが勝手したって怒られればいいんだし。ね、お願い。一回だけ」
 顔合わせて懇願すれば折れてくれるかも、と期待してみたり。
「粘るなぁ、華保。そんなにしつこい奴だったっけ?」
「どうしても。お願い」両掌をくっつけて拝む。
 何かが見えてくるかもしれない。掴めるかもしれない。答えを、捜したい。確実な方法ではないけれど、一番いい方法な気がする。
 目に見える形で問題が立ち塞がっているわけじゃない。自分の内側にあるものだから、必ずしも解決の道があるとは限らない。やってみなければ判らない、というのが正直なところではあるけれど。
 じっと動かずにいて、答えが見つかるとは思えなかった。何をすれば見つかるのかは判らなくて、だったら、やりたいことをすべきだと思った。
 跳んでいた頃、あの瞬間だけは、悩みを空に放っていられた。
「必死すぎだって」ぶくく、と笑う。根負けした顔つきになる。「わーったよ」
「ありがとっ」
 高さ調整を手伝ってくれた篠脇に、再び懇願ポーズ。
「なに?」とたん不興声。
「一人にさせて。お願い」
 下に下に懇願を続ける華保にわざとらしく溜息を吐いた。
「……だめ、っつっても、また粘るんだろ?なんか奢れよな」
 渋々ながらの了承でも、承諾は承諾だ。顔色を明るくした華保にもう一度溜息を落とし、篠脇は校舎へと歩き出す。
「ほんと、ありがとね」
 ぴたりと立ち止まり、半身で振り返る。もう、不満そうでも呆れてるでもない瞳が向けられた。
「華保さ、とことん考えて、それでも何も出てこなくて、行き詰ってどうしようもなくなったら、余計なもん全部とっぱらって、素直に、思ったもんを表に出せばいいんだ。どうしたいとか願いとか、口にしちまえばいいんだよ。今みたいにさ」
 戸惑った。
 詳しい事情は何一つ篠脇には話していない。話すつもりがない上で、篠脇にお願いをしていた。悩んでいることはお見通しだったらしい。
 華保の戸惑いを満足に受け取って、にっかり笑う。身長は伸びても、子供っぽいところは変わってない。
「華保、ケータイ持ってきてる?」
「え、うん」
「いっちゃんは見張っておくから、気が済んだらメールでも入れて」
 ありがと、と言うと、借りは返してもらうからな、と不敵に笑み、篠脇は校舎の中へと姿を消した。
 バーを撫でる。跳べないことは判っていた。現役の時の、おまじないをしておきたかった。なぞらえて、挑戦したかった。助走の距離をとる。大きく空気を吸い込んで、目蓋を下ろし、じっくりと吐き出していく。
 世界に、自分と、バーだけが残される。
 目蓋を開け、真っ直ぐに見据える。地を蹴って、走り出す。脚は軽い。痛みはない。風の音が耳を掠める。思い出す。身体はまだ、感覚を覚えていた。踏み切り、地を離れ、宙へ舞う。空が視界いっぱいを埋め、独り占めした。
 ぼふん、とマットに受け止められる。一秒遅れて、バーも足先に転がった。
 かなり低くしたんだけど、な。無理もないか。
 仰向けに寝転がったまま、苦笑を漏らす。目線の先には空しかなくて、両手を広げた恰好でいると、空を抱こうとしているのか、空に抱かれているのか、判らなくなる。
 夕刻色に染まる空は、あの日の空とは全然似てなくて、似てないのに感傷は同じで。胸のあたりがちくりと痛む。この痛みの真意を、己に問うた。
 自分の中に、答えを捜す。
「またこんな無茶したら、伊織先生に怒られますよ」
 ゆっくりと顔を動かす。マットの傍らに立つ小峰が見下ろしていた。
「跳んだら、もやもやとしたものが吹き飛ぶかなって思ったんだけど」のっそりと上半身を起こした。「余計もやもやしちゃった」
 零すように己に呆れたように笑うと、小峰は小さく噴き出した。華保が在学していた頃の刺々しい感じはなく、むしろ友好的にさえ感じられ、戸惑う。
「バーは見事落ちましたけど、綺麗でした。初めて跳ぶとこ見て、悔しいけど…感動しました。あんなに綺麗に跳ぶ人、見たことないです」
 素直な讃辞ととっていいものかどうか、悩みどころだ。
「助走も踏み切りも出鱈目だった、感動なんて嘘でしょ」
「確かに不恰好でした。でも、地を離れた身体に、重力を無視した姿に目を奪われたのは、本当です。悔しくて、後悔…しました」
「後悔?」
 突拍子も無い言葉に聞こえる。小峰の表情は、まさに悔やんでいるそのものだった。不思議なものを見ている心地になる。
「変な意地みたいのはってないで、もっとちゃんと、指導を乞うべきでした」
「あの頃、あたしのこと嫌いだった?」
「はい」
 あまりの即答ぶりに、苦笑を漏らすしかない。目の前の小峰に、あの頃の忌避が感じられないからか、そうショックではなかった。やっぱりそうだったのか、と納得したくらいで。
「どうしてなのかは、はっきりとは判らないです。たぶん、たいした理由って、無かったんだと思います。ひどい言い方ですけど、たぶんあたし、先輩を下に見てました。まともに歩けもしないくせに、なに指導者ぶっちゃってんの、みたいな感じで。その一生懸命なところ、鼻についたんです、きっと」
「すごい、曖昧。たぶん、とか、きっと、とかの理由で嫌われてたのか」奇妙に清々しい気分だった。自然と笑顔になっていた。「それじゃあ、どうにもできなかったわけだ」
 思い出せば、可笑しくなってくる。
「すみませんでした」
「ん?…もういいよ。過ぎたことだしね」
「いえ、あ、それもあるんですけど。あの……足、痛めたって聞きました」
 ああ、と合点がいく。
「助けようとしたわけじゃないよ。勝手に転がり落ちただけだから。そーゆうとこ、よくドジだって言われる」
 肩を落として謝罪を口にした小峰も、笑いの収まらない華保の様子に、空気を解いた。すっきりした感も窺える。
「さて、と。片付けるかな」
 立ち上がり、うーんと伸びる。
「一回しか跳ばないんですか?成功してないですけど」
「成功が目的じゃなかったから。というか、たぶん何回やっても成功しないだろうし」
 それに、と続けようとして、飲み込んだ。ひとつの答えは見つかったから。
 とことん悩んで考えて、それでも何も無い時は、シンプルにやるべきことをするしかない。この思いが萎んでしまわぬうちに、会おうと決めた。
 入沢に、会うと決めた。


[短編掲載中]