大きく息を吸って、深く長く吐き出す。携帯電話を握り締め、さきほどから同じ動作を何度繰り返しているか、自分でも判らなくなっていた。
 頭上遥か高い場所で、星が瞬いていた。晴天の星空に月が綺麗に鎮座している。吸い込む空気はひんやりとして、夏はすぐそこな季節でも、夜はそれなりに気温が落ちていた。
 手の中の携帯電話を、見つめる。所在無く歩いてみては、同じ箇所をぐるぐる廻る。深更時間帯の駐車場に動くものはなく、木々のさざめきが時折聞こえてくるだけだった。

 入学して初めての研修にきていた。一泊の日程で、夕飯が済んでからの数時間はグループで今日の分の復習と、明日に備えての予習をした。23時を廻ったところで指導員から就寝なさいと注意を受け、睡眠不足でふらふらしていられるほど研修内容は甘くはなく、勉強会はお開きとなった。
 宿泊にと割り当てられた部屋へ向かおうと動き出してすぐ、外岡に呼び止められた。教材を持ち上げて「教えてほしいことがあんだけど」と言って。
 自動販売機が並べられたコーナーにあるカフェテーブルの椅子に座った。外岡が手渡してくれた紙コップに満たされた褐色の液体の表面に、湯気が揺らぐ。
 麗香と話した時のことが思い出され、身を硬くした。今は消してしまいたくて、そっとかぶりを振る。
「研修中のこと?あたしで答えられればいいけど」
 平常心を言い聞かせ自分自身を誤魔化すように、手にしていたポケットサイズのメモ帳をぱらぱらとめくる。研修中にずっと持ち歩いていて、書き殴りの文字が乱雑に散らかっていた。書き直しておかなければ後々判別できなくなりそうなものまである。
 とりあえず現時点でもすでに判別が怪しいものを発見してしまい注釈を書き込んでいると、外岡は静寂に溶け込ませるかのような声を放った。
「なんかあった?時々、泣きそうな顔してた」
 メモ帳の上を走るペンがびくついて停止する。
「べ、勉強のことじゃないの?」
「俺の見間違い?」
 すぐには返答ができなかった。じっと外岡を見つめる。
「あんま、プライベートに立ち入るの好きじゃないんだけど。彼氏と、うまくいってる?」
「それは…」
 何故外岡がそれを気に掛けるのだろう。何故、元気がない原因をそこだと思うのだろう。
 傍目で見てても、そんなにも自分は彼に依存していると映るのだろうか。
「俺には関係ない、って言いたい気持ちも判る。舞阪が沈んでる理由がそれ以外のことだったり、話したくないなら、聞かないけど」
「良尚のことなら、外岡くんに関係があるってこと?」
 僅かに躊躇いが見えた。切り出したことを後悔している風でもある。見つめ合う数瞬ののち、舞阪には申し訳ないこと言うけど、と前置きした。
「俺からしたら、彼の第一印象最悪だった」
 驚きの声をとっさに飲み込む。外岡の顔に意地悪な色は見えない。
「本屋で逢った時?」
 失礼なことがあっただろうか、と思い巡らせる。華保が見ていない隙があったとしても、良尚が何かをするとも思えなかった。
「それよりもっと前。その時の第一印象が最悪。そんで、それからずっと後だけど、彼と話をしたことがある。化けの皮剥いでやるつもりだった。俺はたぶん、嫉妬してたんだ。……舞阪と、舞阪の彼氏に」
 いつ話をしたんだろう、という疑問よりも、嫉妬という言葉に意識をとられる。
「あたしも?」
 良尚なら判るけど、は飲み込んだ。外岡が何を言わんとしているのか、まるで読めない。
「舞阪が信じきっている優しさは、偽善だと思ってたんだ。偽善だと思えるほど、印象が悪かった。でも違ってたんだよな。本物で、そういう相手と出逢えてる舞坂が、羨ましかったんだ」
 俺にはいなかったから、と外岡は小さく付け加えた。
「もしも、俺と話したことが原因で変なことになってるんだとしたら、って思ったんだけど」
「気持ちが塞いでたのは、本当。でも外岡くんの所為じゃない」
 華保の作った笑顔が、無理しているようにでも映ったのか、外岡から難色は拭い去れていない。
「本当に。沈んで見えたのはきっと、疲れてるからだよ。今日ハードだったよね」笑みを浮かべたまま、腰を上げた。座ったままの外岡が華保の動きに合わせて目線を上げる。
「明日もきっついらしいから、もう寝よ?心配してくれてありがと」
 ひとつ息を吐き、外岡も立ち上がる。
「一応さ、彼に謝ってたって伝えてよ。もちろん、会う機会があれば自分で言うけど」
「うん」

 良尚の名前を唇に乗せてしてしまったことで、逢いたいと思ってしまった。声が聞きたくなった。
 脳裏を掠めたのは、篠脇の言葉。――余計なものを排除して、素直になれ。
 部屋に戻るなり、携帯電話を引っ掴んで外へ飛び出した。まではいいのだけど。
 電話帳を引っ張り出しては躊躇って、通話ボタンを押せずじまい。深呼吸して、再び挑戦。そして同じことを繰り返す。駐車場内をうろついて、気づけば一時間近くが経過していた。
 感情のままに素直に動いていいことなのかどうか惑う。ぐるぐる、ぐるぐる考えて、やはり止める方向に思考が傾き、建物へ向かおうとした時、手の中が急に震えだした。大袈裟なくらい身体がびくつく。
 携帯電話のディスプレイが光る。浮かび上がった文字に、息を呑む。震える指先で、どうにかボタンを押した。
「考えたいことに、結論はでた?」
 電波越しでも、一番に聞きたかった声に、鼻の奥がつんとした。きゅ、と唇を噛み、首を振った。これでは返事になってない、と慌てる。
「…で、出て…ない」搾り出した声は掠れていた。「たぶんね、出すの…無理。だから、自分の気持ちに正直になろうと、思って…」
 言って、それでは時間をもらった意味がなかったではないかと、自分に呆れる。良尚も呆れてるだろうかと、不安になった。
「うん」
 良尚の声は、あたたかみに溢れていて、ほっとする。
「もしもね、良尚がそれを受け留めてくれるなら…なんだけど」
「愚問だな」
 声があたたかく響いて、後押ししてくれる。
「――好き、だから。…迷惑とか邪魔とかになってたとしても、やっぱり良尚が好きだから。あたし…別れたくない」
「うん」
 優しく、本当に優しく促してくれる。
「明日、そっちに戻ったら、逢いに行っていい?」
「疑問符いらない。行く、って、言えばいいんだ」
「うん…。あたし、良尚に逢いに行く。――ごめんね。迷ってばかりだよね。その度に困らせてるよね」
 同じことで迷ってばかり。良尚を信じているのに、周りの声に容易く惑わされてしまう。
 心が弱くて、強くなれなくて。
「迷ってもいいよ。困らせたって、いい。最後に選ぶのが、俺の隣であれば」
 きちんと肯定したいのに、気持ちが膨らみすぎて、喉が詰まる。想いがはちきれそうで、声が出せなかった。見える筈もないのに、懸命に、頷くしかできない。
「…たい」
「ん?」
「逢いたい、よ…。ほんとは、今すぐにでも、逢いたい」
 口にしてしまえば、感情が一気にせり上がって、落涙してしまった。泣いていることを悟られないよう、そっと洟をすする。
 沈黙が落ちた。電波を繋ぐ雑音だけが届く。物音も聞こえず、見えるのは夜色に染まった世界で、恐怖が押し寄せた。
 気持ちが重いと相手を疲弊させるだけ。麗香の声が蘇る。
「よし、なお…?」
 沈黙に耐え切れず呼び掛けても、良尚は黙したままだった。不安に押し潰されそうで、二度は呼び掛けられなかった。
 泣いていることに気づかれた?疎ましいと思われただろうか。
「華保」
 依然変わらないあたたかみのある声に、安堵する。ん、と小さく頷く。
「泣くなって」
「……泣いて、ない」
 ぎゅっと握り締めた拳を唇に押し当てた。その圧に負けないくらいの震えを、止められない。
「嘘厳禁。泣かれるとやっぱ弱い」
「うん、ごめん。逢うときにはちゃんとする」
「いいよ。今、泣き止んでくれたら、それでいい」
 うん、と頷いた。袖口を目元に持っていった時、「俺も」と声が降ってきた。後ろから、抱き締められる。力強くも優しい腕が、華保を包み込む。
「俺も、逢いたかった」


[短編掲載中]