「ああいうの気にならない?」
 良尚達が陣取った席へとおもむろに近づいてきたと思ったら、何の前置きもなく小春は話し掛けてきた。ちらりと同席するメンバーを確認する。陽気に盛り上がっていて、小春が近づいても気に掛ける者はいなかった。
「ならないわけがない」
 なるべく平坦に出そうとした声も、内情を顕著に表現するむくれたものになった。
 主語がなくても何を指しているか判る。小春にならって二人の姿を視界に捉えた。直視してられるほどには、冷静だった。
 元々は自分がけしかけたようなものだ。堪えなくてはいけない。
「でも、抑えるしかないんだ。今だけは、特別」
 ただ漠然と二人を見れば、親密そうにも映る。小春の表情を見る限りでは、それを危惧しているとも思えなかった。
「見逃すだけの事情があるってこと、か」
 独り言ともとれる呟きは、良尚の耳にはしっかりと届いていた。
「――彼、は…華保のことが好きなんだね」
 今度は少し音量を上げて、疑問符をつけたような、確定を口にするような曖昧さで言う。
「それに気づかないのは華保くらいだ」
 はっきりと言葉にされて、傷つけてしまったと、ひどく落ち込んでいた。落ち込んでいることを必死に隠していた。良尚にはばれていることに気づかないくらいに必死で。
 入沢からも華保からも何があったとは教えてもらっていない。が、二人の様子で『何があったのか』なんて容易く想像がついた。
「鈍いもんねー、あの子。それでさ、露呈した段階になって、倍増でショック受けるんだろうね。際の際でぶつけらる感情にようやと気づかされて、自分の鈍さに腹を立てる。自分に怒って自分を責めて、泣きたいくらいに辛くなるくせに、素直に泣こうとはしない」
 よく見ている、と感心する。
 小春は大学に進んでからの友人だから付き合いが長いかといえばそうではない。よほど人を見る目に長けているか、濃度の濃い付き合いをしているか、だ。
「だから、華保にビンタしてやったの」
「は?」
 ぎょっとして小春を見上げた。座っている良尚を、立っている小春が見下ろす態で妖艶に笑む。企んでるとも愉しんでるともとれるような笑みだ。
「ふとした時に、痛い苦しい辛いって顔するくせに馬鹿みたいに我慢してんの。訊いても話そうとしない上に無理して笑おうとしててさ」
「だからビンタ?」
 思い切り怪訝な問い掛けになった。表情も倣っている筈だ。
「理由なんてなんだっていいでしょ。泣ける場所をあたしは作ってあげられた。場所があるのに、泣きたいのに我慢するとか、有り得ない。痛くて泣いた、でいいの。きっかけがあれば、理由なんてどうだっていい」一気に吐き出すさまは、怒っているととれる。「堪えなきゃいけないもの溜めなきゃいけないもの、そして吐き出すべきものを、ちゃんと判ってなきゃいけないのよ。特に、華保みたいにすぐ抱え込もうとする子は」
 判ってないのよ、あの子は。と、怒り口調のまま付け加えた。
 その部分には共感していた。華保を想って怒ってくれる友人が傍にいることに嬉しくなる。
「辛いもの吐き出せてた?」
 自然と綻んだ語調になっていた。
「どうかな。詳細は話そうとしなかったからね。――ただ、誰も傷つけない人間になりたいって、言ってた。言ったのは、それだけ。泣いたことで少しはすっきりしたみたいだけど」
 その時の華保が誰を思って泣いたのかは、明白だった。
 彼女は、良尚の前でさえ強くあろうとする。完璧に装えないと自覚していて尚。正直言えば、頑なに一人で頑張ろうとする華保に苛立つこともある。自分はそんなにも頼りにされていないのかと、その度に落ち込むのだ。
「浮気したでしょ」
 ほぼ断定的な小春の物言いに、口に含んだばかりの飲み物を噴き出しそうになった。かろうじてぶちまけずには済んだが、かなりの勢いで咳き込んでしまった。しばらくかかって落ち着きをみせ、声を出せると判断するや否定した。
「浮気かなって、思ったんだよね、最初。浮気されて辛くなってたのかなって」小春に少しも悪びれた様子は無い。「したことはあるでしょ」
 証拠でも握っているのかと疑いたくなるほどに確信を得ている言い方だ。
「してないし、したこともない」不貞腐れた口調になる。
 身に覚えがないのに決め付けてかかられるとさすがにむくれる。
「でもモテるでしょ。ふらふらっと魔がさしたりしない?」
「しない」即答する。同時に、ふと沸いた不安が口をついて出た。「華保がそんな心配でもしてた?」
 小春が確信するほどの根拠はあるのかもしれない。
 掠めたのは麗香のこと。口では「判っている」と言っていても、信じきれていなかったということだろうか。
「華保が幸せそうなのと同じくらい不安そうにしている。その原因で考えられるとすればそれしかないでしょ」
 確定的な何かが存在した訳ではないらしい。
「貴方のことを信じてる、ってのは話てれば充分伝わってくるんだけどね。信じるとか信じないとか以上に、引っかかってることがあるのかな、と勝手に想像してるんだけど…。正解?」
「浮気はしない。する気も起きない。それから、正解だけど正解じゃない。いくら言っても華保はあのまんまかもしれないよな」
 それは俺も不満。わだかまる必要なんてないし、そもそも責任感じなくていいことを勝手に引責するし。挙句、釣り合わないだの自分じゃ駄目なんだの思い込んで離れようとする。と口にしかけて、とっさに飲み込んだ。万が一にも華保の耳に入るのは避けたい。
「余裕綽々なわけじゃないんだ?華保の話から出来上がる貴方の人物像って、そうなんだけど」
「それも華保の思い込み。余裕なんてないよ。いつだって傍にいたいし、できるなら華保を小さくして持ち歩きたいくらいだ」
「ほんとに余裕なし発言だね」小春はくつくつ笑う。「意外だなぁ。華保には言った?」
「言わない。どん引きされたくないし、ストーカーに成り下がりたくない」
 なんだってこんな愚痴めいたこと話してしまったのだろう、と後悔。やっぱりどこか、平常心ではいられてないらしい。
「ねー、ちょっと聞きたかったんだけどさ、正直に答えてもらっていい?酔っ払って迎えにきたとき、自分の上着に包まった華保を抱きしめたくなかった?」
 小春は完全に調子に乗っていた。ここぞとばかりに揶揄の種を集めようとしているのが判る。判ったにも関わらず、素直に図星反応をしてしまっては後の祭りだ。
「当たりかぁー。超可愛いなこいつ、みたいな目で華保のこと見てたもんねー」
 生き生きしている小春を斜に見る。
「決め付け禁止」こんなぶすくれた声音では相手の思うつぼだ、と苦くなる。「小春サンさ、」
 ストップ、と唐突に制止をかけられて、空気と共に言葉を飲み込んだ。
「どうして『サン』付けなの?一応、同じ歳」
 不満げに言うくせに、少しも不満そうには見えない。苗字で「さん」なら納得いくけど下の名前で呼ぶなら納得いかない、と力強く吐き出す。どうやらそれは小春的常識らしい。
 華保から彼女の話題を聞くときはいつも下の名前で、そういえば苗字を知らないことに気づいた。
「どうしてかな」ふむ、と考えてみる。顔を合わせた時にはそれがしっくりきたのだ。「深い意味なんて無いよ。華保から聞かされてた人物像で『姉御』ってイメージが強かったから、かな。たぶん」
「どうせ老け顔よ」
 ふん、と鼻息荒く唇を尖らせた。子供じみた顔に小さく笑った。
「言ってないし。華保が小春サンを慕って頼りにしてるってのは、話聞いてるだけでも伝わっててさ。――そんな人が傍にいてくれて、良かったなって思ってるよ」
 唐突な賛辞がよほど照れ臭かったのか、小春は苦い表情を作って繕おうとしていた。
「華保ってさ、苛め甲斐あるタイプだよね。一歩間違えばあたし、苛める側になってたかも」
 とんでもないことをさらりと告白する。瞬間は驚いたものの、すぐに笑いが零れた。
「仲良くなってくれる側で良かった」
 いつも傍にいたくても、護りたいと願っても、学校の中までは助けに行けない。自分にできることなど、そう多くはない。
「あたしね、華保が好きよ。だから、泣かせたりしたら赦さないんだから」
「自分は泣かすけど?」
 良尚からの切り返しに小春は相好を崩した。
「そうだね。あたしはいいの」
「できればビンタじゃない方法でお願いします」
 互いに顔を合わせ、笑い合った。
 どちらともなく再び華保が立つ方角に視線を転じる。二人の会話は切れ端すらも掴めない。直立で立つ華保は背中が見えるだけで、今、どんな顔をしているのか目視するのは叶わない。正面に立つ入沢の真顔は華保だけに向けられていた。
「華保は泣き虫だからな。悲しくても嬉しくても泣く。泣かせないって約束はできないけど、そうしようとは願ってる。少なくとも、辛い思いだけはさせない」
 誰よりも良尚が、それを望むのだ。


[短編掲載中]