背後にある筈の喧騒はひどく遠くに感じられて、華保と入沢のいるこの小さな空間だけが、別世界に切り離された気分だった。
「怯えた顔してんね」
 自虐的な笑い声だった。目を瞠り、けれど否定する言葉が思い浮かばなくて、強く首を振った。
「襲ったりしないって。東郷の監視があるしな」
 入沢は突拍子もないふざけ方をする。驚くばかりで素早い反応ができない。またもや首を振って、大きく息を吸った。深く吐き出したら、少しだけ落ち着いた。
「もう、ね」声が震えていて、いったん唇を引き結んだ。「……もう、口もきいてもらえないって、思ってたから…。びっくりしちゃって…」
 言いながら、どんどん声が湿っぽくなっていく。自分の意志では止められない。
「質問があるんだ」
 入沢は、挨拶でもするかのような軽やかさで言う。
「え、あ…、な、なに?」
 その軽やかさについていけず、たじろいでしまう。見遣った先には、軽やかさからはかけ離れた、真摯な面差しがあった。
「もしも、」言い淀み、区切る。意を決したようにして入沢は空気を吸った。「もしもさ、東郷より先に俺と知り合ってて、仲良くなれてたら、俺を選んでくれた?」
 色々なことが巡りだす。知り合って、仲良くなって、助けられて、いつでも傍で笑っててくれて。いつだって励ましてくれた。
 良尚との再会が無ければ。入沢とだけ出逢っていたら。
 ぎゅうっと唇を噛み締めて、己に向き合う。己の心に問いかける。『もしも』を懸命に想像する。
 入沢はじっと、待っていた。じっと、黙って、華保を見つめていた。
 どれくらいの時間が流れたのか。実際にはそう長くはなかったのかもしれない。がちがちに力の入っていた指先をぎこちなく解いて、入沢の双眸に向き直る。
「――もしものことは、考えられない。…判らない、よ。はっきりとした答えを出せなくて、ごめん。こんな答えじゃ駄目だって、思うんだけど…」
 どんなに時間を掛けても、これ以外の答えが出ることはないと、確信だけはしていた。
「正解」きっぱりと言う入沢は、いっそ清々しい。「よくできました」
「え…?」
 逃げだと罵られる覚悟をしていたのに。
「良かった。それで、俺を選んだかもとか好きになってたかもとか言われてたら、立派なストーカーに転身してるとこだった」
 どう反応するのが正解なのか、すでにもう判らない。一人取り残されて戸惑うばかりだった。
「宣誓」
 またもやきっぱりと言う。指先までしっかりと伸ばした掌を華保の方に向け、肩の高さまで片手を掲げた。ふざけている気配はなく、真剣そのものの双眸が華保を見つめている。
 かといって、受ける側が「ではどうぞ」と構えられるほどには意味合いが判っていなくて、色濃くなる戸惑いを隠せずにいた。
「宣言する。ちゃんと諦める。時間はかかるかもしんない。どれくらいかかるかは、判んない。……ぶっちゃけ、こうやって顔合わせちゃったら、やっぱ好きだって、思う」
 返すべき言葉が見つからない。黙って耳を傾けるしかない自分がもどかしい。
 そんな華保のもどかしさを悟っているかのように、入沢は表情を緩めた。
「どんくらいになるか判んないけど、でもたぶん、気持ちに整理がつけられたら、友達として付き合っていきたいって、思うと思うんだ。だから、その…待っててほしい、ってのは違う気もするんだけど…」
 喉の奥に停留させていた堰が崩壊した。そうなるともう、自分ではどうにも止められない。
 次から次へと溢れでてくる涙を必死に堪えようとするも、今更取り繕うなど無駄な努力で。
「ごめ…。涙止める、から…。ごめんね。…泣いて、ごめん」
 泣くなんて卑怯だ。傷つけた自分がしてはいけないことなのに、止められない。
 驚いて凝固していた入沢が、華保の呟きに解凍された。
「なんで泣くんだよ」
 困りきった声に、ますます焦る。焦っても、涙は止まらない。
「……嫌いに、なってない、の?」
 必死に止めようとした罰なのか、嗚咽までもが混ざりかけて、千切れた発声になってしまった。
「俺が?舞阪を?」入沢は純粋に、さらに驚いたようだった。自身を指し、相好を崩した。「嫌う相手にわざわざ宣言なんかしないよ。そこまで暇じゃない」
 深く息を漏らしていた。安堵がもたらす、深い溜息。
「これでやっと、しつこく想われるのから解放される、って嬉し涙?」
 ふざけた口調も、意味も、判らない。
「あたし、嫌われたって思ってて、仕方ないって思おうとしてて、でもやっぱり厭で」
 言葉を唇に乗せるごとに理路整然さが失われていく。気持ちを巧く伝えられないことが本当にもどかしい。
「だから、こうして口きいてくれて、嬉しくて」
 一番に心を占めていた気持ちを口にした。嫌いになっていないと言われたことが、さも当たり前のように言ってもらえたことが、嬉しかった。
「やっぱ、敵わないな。舞阪には」入沢は脱力したように短い笑い声をたてた。「今に見てろよ。好きな子彼女にして、べったべたに惚気てやるから。覚悟しとけ」


[短編掲載中]