二人は部活の先輩で、彼らの勧誘により入部した。一学年上の二年生。三年はすでに引退しているので、諒が部長を務めていた。
 二人揃って、しかも朝から教室にくるなんて珍しい。急用かと小走りで近寄っていく。
「先輩、どうしたの?」
「合宿の件なんだけど」
 対面するなり副部長の優輔が口を開いた。
 在籍しているのは大半が幽霊部員という天文部だ。さほど活発に活動はしていないが、合宿ともなればどこからともなく…ではないけれど、結構な人数が集まる恒例行事になっている。蓋を開ければ、観測するというより大人数で集まって楽しむ会になっていたりする。
「参加者集計の締め切りって今日だったよね?」
 即行で喰い付いたのは唯衣だ。嬉しそうな顔で優輔を見上げている。見返す優輔の瞳も普段の二割増しくらいで柔らかい。
 諒も優輔も背は高い方に入る。背の小さい唯衣は会話するだけでも首が痛くなりそうなくらいの角度をとらなければいけない。そのでこぽこっぷりは傍から見てると可愛らしく可笑しい。
「締められそう?」
「放課後までにはやっとくね」
 リアとしては、優輔と唯衣の遣り取りを余所に、教室内を見渡している諒の動きの方が気になった。合宿の件はとってつけた理由で、本当は別件で来てるのだろう、と勘繰ってみる。
「諒先輩、誰か探してる?」
 ごった返していた教室内はようやと落ち着きつつあった。まさに人探しな眼差しをそのままリアに落として「べーつにー」と意地悪な笑みを浮かべる。目的が気にならないというのが嘘になっても喰い付かないでおく。まんまと思う壺には入りません、と心の中で舌を出した。
 始業のチャイムが鳴り、いったん職員室へと戻っていた担任が一限目の教科に使用する教材を脇に抱えて廊下を歩いてくる。
「明石―、野尻―、教室入れー。席替え完了したかー?」
 そこそこ距離が縮まったにも関わらず大声を張る。地声がでかいの自覚ないわけ、と文句の一つも言いたくなるほどの音量だ。廊下の喧騒に紛れるとはいえ、無粋音量で呼ばないでほしい。ちらほら視線が感じられて悪いことをしたわけでもないのに居心地悪くなる。こちら側の機微に鈍感な担任は続けて諒たちに視座を置いた。
「お前らも、チャイム鳴ったぞ。はよ戻れ」
 ご丁寧に追い払う所作つきだ。
「んじゃーまぁ、部活開始までには頼むな」
 粘るだけの要素はないのか、あっさりと自分たちの教室へと帰っていった。変なの。小首を傾げて見送っていたらまたもや担任に名指しされ慌てて自席へ駆け戻った。
 机の中から教科書やらノートやら引っ張り出す。焦った所為でペンケースが滑り抜け床に落ちた。幸い中身が散らばる事態は免れ、勢いづいたまま屈んだ視界に、別の手が侵入してくるのが見えた。隣の席からのその手は、リアよりも一瞬早く拾い上げ、互いに上半身を起こしたタイミングが合う。はい、と渡された時点ではまだリアの視線はペンケースに落ちていて、礼を唇に乗せつつ顔を上げた。受け取る為に出していた手もそのままに、凝固する。
 ――《夢》に登場する少年、だった。
 刹那、見つめ合う。先に動いたのは少年の方で、戸惑ったままペンケースをリアの手に返してくれる。掌に触れた瞬間、反射的に立ち上がっていた。椅子が派手に鳴り、掌を離れたペンケースが床に落ちる。蓋が開いて、中身が弾けた。教室中の注目を集めていると意識のどこかで判っていながら、彼から目が離せなかった。
 いち早く動いていた唯衣が中身を掻き集め、ケースに仕舞うと机に置いた。
「ちょっと、リア。城本くんがどうかした?」
 袖口を引っ張られても見つめる以外の機能を失くしたように立ち尽くす。少年も目を外してはいけないとでもいうかのようにリアを凝視していた。
「はいそこー。見つめ合うのは授業が終わってからにしろー」
 担任から揶揄が飛び、教室内に笑い声が沸く。ひと際強く唯衣に引っ張られ、引力に負ける恰好で腰を下ろした。正面向いて座ってしまえはもう、隣に顔を向けることはできなかった。
 授業が開始され日常の風景が展開されても、リアの内側では痛いくらいに鼓動が騒いでいた。授業をまともに受けられる気分ではなく、かといって隣を確認することもできない。ノートを広げシャープペンシルを手にポーズだけはとっていても、胸中は疑問が渦巻いていた。俯いてさきほど見つめたばかりの顔を思い返す。
 涼やかな双眸もすっとした鼻梁も少し面長な輪郭も。線は細いがひ弱な印象はなく、制服のシャツから覗く腕はいかにも鍛えた引き締まり方で。戸惑った面差しだったとしても、まごうことなく幾度も《夢》で出逢った少年だった。
 転校生?――違う。唯衣は確かに名前を口にした。言い慣れた風に。クラスメイトだと証明する淀みのなさで。自分が今まで覚えていなかっただけ?――そんなわけがない。入学して何ヶ月も経ったこの時期に、クラスメイトの顔すら知らない筈がない。キモトなる名前を聞いたことがないなど、あるわけが無い。ましてや、《夢》では散々逢っているのだ。はっきりと脳裏に思い浮かべられるほど記憶にあるのだ。人が降って湧く?――まさか。クラスの誰もが『彼』を知っている風だった。クラスにいるのが当たり前という空気だった。
 自分だけが、知らない。
 その現実が不安を煽り打ちのめす。恐怖が心を支配する。シャープペンシルを握る指が色を失うほどに力が篭った。叫びそうになる声を奥歯を噛み締め耐える。
 リア、とこっそり呼ばれ、ぎこちなく前方を見遣った。唯衣の半顔が見え、窮屈そうな格好で左腕が後に伸びてくる。互いの手が触れ合い、リアの掌に小さく畳まれた紙が乗った。
『大丈夫?』
 開いた紙に見慣れた文字があった。たった一言がひどくあたたかい。すでに前へと向き直っていた唯衣の背中に、小さく何度も頷いた。


[短編掲載中]