出逢いは中学三年の夏だった。いい加減進路を決めなくては、という時期だ。
 うだるような暑さが残る夕方で、じっとりとした空気の不快感に、自然と眉間に皺が寄る。塾をさぼって冷房のきいたカフェにでも行きたい、なんてことを唯衣と愚痴りつつ、まだ時間があったので道すがらウインドウを覗きながらダラダラと歩いていた。
 ふと足止めした雑貨屋の前、興をくすぐる色とりどりのディスプレイに魅入られ、他への注意力はかなり散漫だった。皆無だった、といっても過言ではない。見た目も性格も異なる唯衣と、あれこれ品評するのに夢中になっていた。時折接点が見つかるのが楽しく嬉しい発見だったりで。
 あっ、と少し気の抜けたような声が唯衣から上がった時、すぐに状況を把握できなかった。強張った表情の唯衣が見つめる方角を倣って見遣る。
 笑い合って闊歩する高校生であろう制服集団。疲弊を存分に滲ませ足取りの重いサラリーマン。自分に合った歩調で歩道の端を行くご老人。母親と手を繋ぎ首を目一杯上げて跳ねるように歩く幼子。何気ない日常風景に混ざる不穏な動きが映り込む。およそ一定の速度で流れる人ごみの中に、ひとつだけ違った影を見つけた。
 背後を気にしながら走っている男は器用に擦り抜け進んでいく。ちらちらと見え隠れする男の手に握られているのは不釣合いな荷物。唯衣の鞄だ。あの中にはさっき銀行で下ろしたばかりの塾の月謝が入っていた。
「持ってて!」
 泣く寸前かに見える唯衣に半ば押し付ける勢いで自分の鞄を渡した。状況は把握した。逡巡は要らない。取り返すまでだ。
 足の速さには多少自信がある。とはいえ時間帯が悪い。歩道は混雑している上に、混雑する道を疾走した経験がない。いくら幾許も間を開けずして駆け出したとはいえ、男の逃げ足は相当なものだった。長けていると言ってもいい。そんな特技なら他で生かせばいいのに、なんて皮肉が浮かぶ。じりじりと離れていきつつある背中を睨み付けながら、大きく息を吸い込んだ。
「泥棒―!!誰か捕まえて!」
 ぶつけるが如く大声を張り上げた。
 瞬時に判断して男の周囲にいる者たちが取り押さえる、なんて期待はない。振り返ったり立ち止まったりした人が、少なからず男の障害になってくれれば万々歳。若干ではあるけれど思惑通りに速度が落ちる。
「待て!ひったくり!」
 多少距離が縮んだところで人波を避けながらというのはリアも同じこと。追いつくほどは縮まらない。振り返り振り返りのくせにどうして速いかな!憎々しく悪態をついた。何度目かの視線の攻防で不敵な笑みが男の口元に刻まれた。不審に警戒する隙も与えられないまま、飛び出してきた影が視界の端を掠めた。強い衝撃の直後、派手に転ぶ。
「いっ…たぁ」
 足から痛みが突き抜けた。気力を振り絞って立ち上がろうとするも、力を入れれば激痛が走る。再びアスファルトに手をついた。手足の自由がまるで利かない。素早く見回すも、リアに体当たりした人物は影も形も残していなかった。
「リアッ!大丈夫!?」
 息急きった唯衣が寄り添うようにしゃがみ込む。半べそ状態の手を借りて立ち上がった。男が走り去った方向を睨み据えたところで、とっくに姿はない。ぶつかったのは仲間だろうか。そう思うと一層腹立たしい。
「リアごめんね。手当てしよう」
 憤怒するリアに気圧されたか、唯衣が窺う態で話し掛けてくる。
「謝んなくていいよ。唯衣が悪いんじゃない」
 憎らしげの延長然とした声がでた。これじゃ唯衣を責めてる風にもとれる。慌てて弁解しようとして、目が合って飲み込んだ。判ってる、と伝わる。
「歩ける?」
 リアを支える唯衣は視線を歩道の端へと動かした。往来のど真ん中にいつまでも突っ立てるわけにはいかない。数メートル先にコンクリート造りの花壇があり、太腿くらいの高さがあった。腰を降ろすにはちょうどよさそうだ。庇いながら歩くか跳ねて移動するかが、目下の重要問題。どちらにしても、痛感は覚悟しなければいけなく、腹立たしさは倍増するばかりだ。
 慎重な動きで誘導を開始した唯衣に倣って、人の流れを読みつつ移動する。動く度に思いっ切りしかめるほどの痛みが突き上がった。リアの足元と周囲とに気を配ることに最大集中している唯衣には幸い見つからずに済んでいた。
 数歩ほど進んだ間合いで、離れたところから聞こえてきたどよめきに顔を上げる。どうやら男が去って行った方角だとは判る程度で、何が起きたかまでは全く見えない。
「なんだろ」
 リアたち同様、動きを止め先を窺う者もいれば、野次馬根性丸出しで走り出して行く者もいた。足さえ平常であればリアも後者にすぐさま参加してるところだ。といった好奇心丸出しのリアに、すかさず唯衣の諌めが入る。
「それより手当て!」
「……はい」
 好奇心も痛みには勝てず。どうにか花壇まで辿り着きコンクリートの縁にお尻を乗せた。
「濡らしてくる。ここ動かないでね」
 ハンカチを取り出すや釘を刺して雑踏の中へと紛れた唯衣を見送った。
 動こうにも動けません。溜息を吐いたら思いのほか重く出た。痛みの出所に視線を落とせばふつふつと悔しさが込み上げる。
 ソックス越しでも判るくらいに腫れてきていた。目視すれば余計痛感が増しそう、と苦るも、このままいても仕方ない。遅かれ早かれ脱がなければならないのだ。どうせだったら初期段階の方がまだましな気もする。ちまちまよりは一気にいくのが絆創膏剥がしは痛くないとの巷説に則れば、これも一気が痛みも短くて済んじゃう?ええい、ままよ。
 直後、無言で悶絶。あまりの痛さに叫びそうになるも、奥歯を噛み締め耐えた。腫れ部分に摩擦が起これば痛いのも当然なわけで。馬鹿丸出しだ、と情けなくて泣けてくる。激痛の波が少し遠のき、できることもなく、これ以上間抜けな所作で無駄な痛みを上乗せしないことに気を配ることにした。
 じっとしてると余計なことが浮かんできて、やっぱり腹立たしさに傾き、逃げていく男の顔を思い出したら舌打ちが出た。
 ひと際大きくなった喧騒が再びさきほどと同じ辺りから押し寄せて、ついと顔を上げた。立ってるよりも低くなった視野では目視もできない。気が逸れてるタイミングで、唐突に足首に冷感があたり、躯が大きくびくついた。悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。
「不意打ちは卑怯っ、」
 ちょこんとしゃがんでいる唯衣の姿が思い浮んでいた。足元へ目を向けて、言い掛けの声がフェイドアウトした。リアの足に手を当てているのは見知らぬ少年だった。


[短編掲載中]