暗い。真っ黒な闇。一面の黒。
 なのに視界は良好だ、と判る。見える筈のない状態でも、リアには見えている。それは視覚なのか、第六感が織り成す脳内での映像化なのか。
 己が立つここが、どこなのか。目印になるものは何も無い。目を凝らそうが視座を下ろそうが、あるのは闇の静寂のみ。周囲を窺う。手探りの先に触れる感触は無い。空間は際限なく広がっていると推測する傍らで、広がってなどないと内側から声がする。
 足裏には不確かな柔脆さがあたっていた。すぐさまリアを飲み込もうとするようにも、リアを支えるようにも捉えられる感触だ。足首まで沈むかと思えば、しっかりと表面を踏みしめたりする。
 確固たるは、これが《夢》であること。認識し、気分が塞ぐ。
 リアは周りの色とは対照的な、純白のワンピースを着て素足で歩いていた。飾り気のないシンプルなデザインで、膝丈の裾が風もないのにふわふわと舞い揺れる。
 現実では絶対に、こういう女の子らしさ全開の服を着たりしない。似合わないと決め付けているし、この手は唯衣の担当だ。《夢》なのだし、誰が見ているわけでもないのに気恥ずかしくて落ち着かない。
 ゆっくりとした足取りで、自身の意思とは関係なく、躯は動いている。明確な目的地などリアにはないのに、目指すべき場所に向かって歩を進める迷いのない足取りだった。
 いつも同じだけ歩けば、唯衣が姿を現した。ゆったりと微笑みを浮かべ、無言で立っている。待っていたとも、ただそこに在ったとも。安穏とした空気を纏い、リアに対峙する。
 急速に去来する不安が胸に充満し、リアは叫んだ。声を限りに、叫んで、叫んで。だが、音にならない。どれだけ口を開けようと、出る傍から闇に飲み込まれるように。
 必死な形相は、リアだけで。
 幾度もみる《夢》の展開は、決して望まぬものだ。救いたくて、逃げてほしくて、必死に伝えようとする。その術は無い。もどかしく、腹立たしい。《夢》であり、現実ではそうならないと知っていながら、傍観するのは耐え難かった。どこへ逃げれば助かるかなんて判りもしないくせに、声すら出ないくせに、必死に叫んで、訴え続ける。
 唯衣は微笑む。リアの表情を見つめながら、ゆったりと笑んでいる。――そして、唐突に崩折れた。操り糸を失った、マリオネットのように。
 掻き抱いた彼女は、血色を失い、青白い顔で薄く目蓋を開け、リアを見上げていた。目に見えて血の気が失せていく。体温が削げ落ちていく。
 名前を幾度呼んでも声にならず、リアはただ、泣くしかない。ぼたぼたと落ちる涙が唯衣の頬を濡らしていく。唯衣は細く微笑むと、静かに息を引き取った。腕に、重みが圧し掛かる。きつくきつく抱き締めて、唯衣の躯に顔を埋めた。
 同じことを繰り返し見るだけ。漠然と、繰り返すだけ。非現実世界だと認識していても、次に何が起こるか掌握していても、ひとつも抗えない。
 重量感が掻き消える。腕の中から唯衣が消滅し、弾かれるように顔を上げた。周りは真っ白な空間へと変化する。
 誰かが、リアを呼ぶ。鼓膜を介さない、頭に直接響く声。知らぬ者の声のようで、とても近しい者のような。誘われるままに歩き出す。数歩も進まぬ内に足裏の温度が急速に変化した。あたたかみの一切が失われ、全身を震わすほどに冷えていく。冷感が痛いほど突き刺さり、不意に足首に触れた不快な感覚が襲う。
 闇色のものが動きを封じようと蠢いていた。底辺から這い出たそれらは、無数に、際限なく現れる。温度を一切持たぬそれは、人の手の形にも似て、異様に長い指と、人間で喩えるなら骨と皮しかないほどの細さだ。関節のないゲル状の、異物。何度目にしても背筋が毛羽立つ。
 毟っても毟っても増殖する雑草然として、次から次へと生え続け、リアを捕らえようとする。その出現時の音が、《夢》が開始されて初めて耳にする音だった。地の底を這うような、怪物の舌なめずりのような音。
 立ち止まってなどいられるわけはなく、振り払い、駆け出す。次から次へと生え迫る漆黒の手を、真際でかわしながら。どこまで走っても、終着点は見えない。白色の世界は変わらない。黒い手が増殖しては向かってくる音を背中で聞いて、ひたすらに走り続けた。
 足がもつれ、思い切り転ぶ。上半身を起こし、振り返る。黒い手は影も形もなく消え去っていた。リアの背後には、一面の白い世界が広がっているだけだ。
 また現われないだろうかという不安に、身を硬くしたままとなる。そろそろ周りを見渡した。変化はない。音もしない。安堵の息を吐き出して――ぎくりと肩を揺らした。視界の端に人の手が入り込む。飛び退く勢いで躯が仰け反った。手の色が人間のものだと判ったのは、反射的に躯が動いた後。
「大丈夫?」
 柔らかな声。だけど、温度の感じられない響きだった。耳から聞こえてくるというよりは、頭に直接響いてくる音と表現した方が適切な。
 人間のものとは違う、声。
 蒼銀色という色が浮かぶ。金属のような、それでいて透き通った音。見上げると、憂慮を浮かべる少年が手を差し延べていた。声と同色の双眸が、リアを見つめている。その瞳が柔和に細められた。
「やつらはいなくなった」
 笑顔に惹き込まれ、手をとる。力強く引っ張られて立ち上がり、ぐんと近くなった少年の顔をまじまじと見つめた。
 少年はにっこりと笑顔をみせる。――そして、《夢》の中でも現実でも、リアは喉が裂けんばかりの悲鳴をあげるのだ。
 いつも、そこで終わる。リアの悲鳴が目覚めの時だった。
 まずは彼の目から、涙のように赤い液体が溢れ出す。次に、着ている服が、躯のあちこちから滲み出てくる血の色に、みるみる染まっていく。流れ出た深紅の液体は留まることを知らず、彼の足元から水溜りを作り広がっていく。じわりじわりと、リアを呑み込もうと迫り来る。
 全身を真っ赤に染めながら、少年は手を伸ばす。リアに向けて、滴を滴らせながら。ゆっくりと近づいてくる。自身の姿がどんな状態か気づいた様子は無い。いっそ柔和な微笑みを浮かべていた。
 彼の指先があと数センチでリアに届く距離感で、意識の境界線がふり切れた。
 自室の天井が見えた時、現実に戻れたのだという安堵感と、日増しに現実味を帯びてくる不安感が、一挙に押し寄せてくる。泣きながら目覚めることは、珍しくなかった。
 不快な汗がじっとりと躯を湿らせていた。心臓が痛いくらいに鼓動を刻む。上半身を起こし膝を抱え込んで顔を埋めた。
 《夢》の中の少年は、間違いなく、城本カイリだ。現実に存在し、リアの前に現れた。
 不安は日毎膨らんで、心を圧迫していった。比例して考え込む時間も自然と多くなる。無意識の内に沈思しているものだからタチが悪い。考えたところで、適正な回答など有るべくもないのに。
 見兼ねた唯衣には何度か訊かれた。総てを話すことは、やっぱりできなかった。結果、下手な誤魔化しを押し付けるしかなかった。
 貴女が絶命する。幾度繰り返しても、幾度変化を遂げても、それだけは変わらない。
 言ってしまえば何かが変わるのだろうか。それが望むようになるのなら、声高に叫んだっていい。確証がない。言うことによって、現実になってしまうのかもしれない。できるわけがなかった。
 慌てて走っているのは警告を表すと、夢占いの本には書いてあった。
 生活基盤が損なわれたり、不自由な生活を強いられることになる、と。血が激しく流れるのは問題解決や厄介事の自然消滅だった。単純に解釈するなら、これから何らかの問題に巻き込まれ、それは解決する予兆があるということになる。
 城本カイリは、関わってくる筈だ。警告側なのか問題解決の救世主なのか。
 そして、《夢》が始まった時期を考えるようになった。
 判ったからといって、見なくなるわけでも、解決になるわけでもない。それでも、考えずにいられなかった。


[短編掲載中]