泣き声が聞こえる。子供特有のトーンが、はっきりと響いていた。
 真っ白な視界の中で、リアはぐるりと周囲を見渡した。ぽつりと離れた場所に座り込む姿がある。憚ることもなく、声をあげて泣く小さな女の子がいた。
 膝に置かれた両の掌に、何かが包まれていた。大事そうに、労わるように、包んでいる。
 ――あれ、は…あたし?
 小さな時の、自分だ。不意に記憶が蘇る。再奥に仕舞い込んでいた引き出しから唐突に引っ張り出され、眼前に突きつけられる。
 掌にあるのは仔猫だ。力無く横たわっている。ところどころ血の塊が、仔猫独特のふわりとした毛を固めていた。
「リア、」
 気遣わしげな声が降る。涙にそぼ濡れる顔もそのままに、視座を移した。すぐ傍に母親がいた。
 小さな自分を傍観していた筈のリアの意識は、いつの間にか小さなリアの中にあって、間近に母親を眺めていた。手の中に仔猫の重みを感じる。すでに硬直して、体温は無かった。儚い亡骸は、はらはらと落ちる涙に濡れていく。
 不思議な感覚だった。意識は確かに小さなリアの中にある。仔猫に降りかかった事実に心は痛んでいる。なのに、総て傍観しているのだ。己の意思では指先ひとつ動かせない。
「お母さん」
 縋るように小さなリアは母親を見つめた。勝手に動く唇が、湿った声を絞り出す。
「死んじゃった。あたし、頑張ったのに。すごくすごく頑張ったのに。前よりもうんと。…なのにどうして?どうして動いてくれないの?」
 涙声が懸命に訴える。母親はそっと抱き寄せて優しくリアの頭を撫でた。
「前は…今までのあの子たちは、死んでいたわけじゃなかったでしょう?危ない状態だったのを、リアが助けてあげた。でもこの子は、」
 言い淀み、短い沈黙が落ちた。僅かに低くなった声音は、言い聞かせる時のもの。
「死んでしまった子たちを、生き返らせては駄目なの」
 しゃくりあげながらも「どうして?」と繰り返す娘を、腕の中から解放し肩に手を置いた。目を見据えて、ぴしゃりと諭す。
「もうやっては駄目よ」
 子供に言い聞かせるには充分過ぎるほどの、真剣な眼差しだった。
「死んでしまったものは、生き返らないのよ。…喩え、できたとしても」
「でもっ…!」
 納得いかずに反論しようとして、首を振る母親に遮られる。
「二度とやってはいけないの。元気にしてあげることも、もうしては駄目。約束して。…約束、できるよね?」
 誰にも内緒にしなくちゃ駄目よ――
 母親の言葉が耳に残響を刻んだ。ゆさゆさと揺れる感覚に目蓋を開く。肩に置かれた手がリアを左右に揺すっていた。
「大丈夫?リア?」
 顔がくっつきそうなほどの近距離で、唯衣と対面する。カタタン、カタタンと規則正しく列車の走る音が耳に入り、いったん見回してから再び唯衣へと視線を戻した。周囲を埋める顔ぶれで、合宿先へと向かう途次だったと思い出す。
「寝てたみたいだね」
「うなされてた。……やな夢でもみたの?」
「あれ、ほんと?やだな。寝言とか言ってなかった?」
 とっさに、繕う。上擦った声が出て内心で舌打ちするも今更変更はきかない。何事もないふりはばればれで、唯衣の心配顔は微妙に怒気を孕んだものに変化した。
「リア」
 かなり怒っている時の低さだ。こじらすと後の合宿が気まずくなってしまう。身を縮めて素直に謝った。
「例の夢なの?それって、あたしに話してる内容だけじゃないよね?あれだけだったら、うなされることないよね?」
 捲くし立てて迫る唯衣を、手で制して微苦笑する。唯衣は不満げに進撃を中断し座り直した。
「例の夢じゃないよ」
 嘘は無い。はっきりと明言する。心意を読み取ろうとせんばかりに一心に見つめてくる唯衣を見返した。
「独りで抱え込まないでよ。もっと頼って」
「うん。ありがと。…でも、平気だからさ。本当に、あの夢じゃないから」
 言い切られたら、それ以上は口を開かないことを知ってるだけに、唯衣は口を尖らせつつも、小さく息を吐くと肩の力を抜いた。
「ほんとに、ほんと。ね?」
 虚勢を張っていることがばれてても、話せなかった。後ろめたくても、総てを打ち明けて心配させるよりましだ。
 まだまだ納得いかない顔の唯衣に気づかないふりで、景色を眺める風情を醸し出しつつリアは顔を背けた。内に渦巻く疑念を表面化させない自信がなかった。
 うなされていた?何故?
 あれは単なる思い出だ。母親との思い出を見ただけ。過去の自分が泣いていただけ。現実に起きた無力さを嘆いただけだった。なのに、うなされていたと言う。
 弾けるように、奥深くに沈んでいた記憶が、浮上する。今の今まで、すっかり失念していた記憶。夢に釣り上げられた過去。
 母の忠告の後も、リアは言いつけを護らなかった。友達相手に【力】を使った。――それからだ。リアが人と距離を作るようになったのは。
 あれは、誰にでもあるものだと思っていた。リアだけが持ちえた能力だなんて、思ってもみなかった。使わなくなって、そのうち忘れ去った。――忘れた?
 違和感が沸き起こる。違う。忘れた、ではなく、消された、だ。そう、それが正しい。
 真実の一部に触れた気がする。目に見えない何かに絡め取られるようで、身震いした。打ち消す願いを込めて、必死に言い聞かせる。あくまで夢だ。単なる記憶だ。現実には起こっていない。起こると決まっているわけでもない。大丈夫。きっと、大丈夫。


[短編掲載中]