電車を降り手配してあったバスに乗り換えると、合宿所までは十数分で着く。店と呼ばれるようなものは駅の近くにしかないので、夜の買い出しではここまで戻ってこなければいけない。しかも宿泊する建物は結構な山の中なので、購入物を持って坂道を登るはめになる。これも嫌がられる原因の一つだった。
 昼過ぎには合宿所に到着し、銘々持参品で昼食を済ませた。夕方からは食事の準備で女子部員は全員台所、男子部員は外での観測の準備をする。
 陽の傾きが視覚的にもはっきりと判る時間帯に突入していた。予定表に沿って夕食の準備が開始されてそこそこの時間が経過している。仕上げも近くなれば戦場然とした賑わいも落ち着きを見せ始めていた。
 リアは洗い物の手をふと止めて、窓ガラス越しに広がる景色を眺めた。一般家庭のものより何倍も広いシンクで、肘まで泡だらけにしながら調理器具の洗浄をしていた。目の前には大きな窓があって、まさに大自然という空やら山やら森やらが望める。朱色に染まりつつあるそれらに、暗鬱な気分が込み上げた。
 建物が山の中にある所為か、普段街中で見掛けるよりも濃い日暮れ色に覆われている。不穏の兆しと思えてしまうのは、心中穏やかでない証拠だろうか。些細なことだと、気の持ちようだと言い聞かせるも、徒労に終わるだけだった。
 思考占有されっぱなしだなと苦笑が零れた。後ろ向きでらしくないと一蹴しても浮上できない。
「全然進んでないじゃない。手伝うよ」
 落ちかけた肩が小さく跳ねる。背後から忍び寄ってきたのは唯衣だった。苦笑を携えているのはおそらく、リアの心境が背中にでも出ていたのだろう。
「あ、りがと」
 気づいていて問い掛けてこない優しさが今は嬉しかった。巧く説明ができる自信が全くない。
 しばらくは無言のまま、洗う、すすぐの流れ作業を続けた。外の準備が整ってから夕食が始まり、食器洗浄が終わり次第観測時間へと突入する。合宿の最大目的である観測ではあるが、実際は自由時間みたいなもので、それぞれが好きなことをしていても誰も注意しない。ついではどれだという突っ込みが無しなのは暗黙の了解だ。
「買い出しのことでブルー入ってんの?」
 唯衣は意地が悪そうに口端を持ち上げた。
 明るく投げ掛けられても、判ってしまう。何気ない風を装っているとも、本当は悩んでいる原因を聞かせてもらいたいと思っていることも。
 言えたなら、少しはすっきりできるのかもしれない。御夢想じゃあるまいしって、笑い飛ばしてくれたら。いっそのこと、笑い話で終わってくれたらいいのに。
 空いてしまった一拍の間。穴埋めにもならない乾いた笑いをとっさに挟んでいて苦る。
「買い出し、面倒くさいよ。引き受けなきゃよかった。持ち回りにするべきだと思わない?寝たふりしちゃおっかな」
 冗談めかす。一瞬だけ、唯衣の表情に陰が差した。見逃さなかった一瞬に、リアの胸はちくりと痛む。心の中で謝ったのを受けたかのようなタイミングで、唯衣も冗談めかしに乗る態をみせた。
「なんだかんだ言ってさ、前回みたく諒先輩が一緒に行ってくれるよ」
「…それって、諒先輩と一緒に行けるかもしれないから引き受けた、って聞こえるけど?」
「違うの?」
 からかい態勢の唯衣から洗い物をする手に目線を落とし「可能性だけで、あんな面倒な係受けないって」と笑って返す。
「ふーん?」
 まだ続けようとする唯衣を目顔で制した。唯衣はちらりと舌を出す。
「片しちゃお」
「りょーかい」
 話せないことが亀裂を生んでいる気がしてならなかった。こんなの、望んでないのに。誰にぶつけてもいいか判らない憤りが湧いて、結局は飲み下すしかなく、悔しい。




 頭上高く、漆黒の天に星が瞬いていた。今にも降り出しそうなくらいの、無数の星。
 レジャーシートを広げて寝っ転がり、両手を空に向かって伸ばした。隣で似た体勢になっている唯衣も真似て腕を衝き上げる。
「掴まえられそうだね」
「うん」
 雲ひとつない晴天の夜空。夏の終わりということもあって、空気は少し冷たい。吐き出す息は若干白く、夜気に霧散する。
 実質の自由時間なものだから、開始して一時間程経過した現時刻くらいになれば、建物に入る者たちと、観測するかお喋りに興じる者たちとに別れてくる。
 観測継続中の人はたいてい、普段の部活の出席率もいい。外に残るメンバーは顔馴染みが多くなっていた。
 天文部に所属しているとはいえ、熱心に星を観察したいわけではない。知識はてんで疎い。こうして眺めていられるだけで充分だった。
「うら。お前らさ、たまには望遠鏡覗かんかい」
 真上に顔を出してきた諒の息が、リアの手にかかった。慌てて引っ込める。
「た…たまになら、見てるよ」
 心音が騒ぎ出したのを悟られたくなくて、躯を起こしつつ視線を逸らした。熱が上昇した頬も、あたりが暗いおかげで見咎められないだろう。
「あれ、優輔先輩は?」
 こうしてちょっかいを出しにくる時には優輔もいるのが鉄板だ。さっと視線を巡らせるも、近くに姿を発見できなかった。
「頭痛いっつって、中に入ってる」
「少しくらい心配した言い方、できないの?冷たい」
 あっけらかんと言ってのけた諒を斜に見上げる。と、諒がしゃがんで目線の高さが合う。近距離では鼓動のささめきがばれてしまう。さっと顔を逸らした。
「保健係、様子見てきたら?」
 建物を差しつつ唯衣をけしかける。飄然としている諒とは正反対に、唯衣は落ち着きを失くしていた。唯衣の優輔への気持ちを知ってるだけに、ついお節介が飛び出る。ちなみに、保健係なんてものはない。
 きっかけを得て唯衣はすぐさま立ち上がった。
「うんっ、行ってくるね」
 言うや、駆け出した。姿が建物の中に消えるまでじっと見送っている諒の横顔を見つめる。胸の奥が、痛い。お節介発言は諒にとっては余計なことでしかない。
「俺らも入るか。結構冷えてきたな」
 言い訳がましく呟く。腕をさすりながら億劫そうに立ち上がって、望遠鏡の方へと歩き出した。


[短編掲載中]