大切な誰かを失うと、人は、どれだけの時間があれば、想い出に変えることができるのだろう。
 時間は総ての傷を、癒してくれるもの?


 目の前に広がる海も、果てしなく続く空も、身体を掠めていく風も、総てが現実だった。なのに、なにひとつ現実として捉えられない。自分はここにいるのに、いない。薄く膜を張った向こう側に、本来生きるべき現実の世界がある。澤樹那央の中にずっとあるのは、そんな感覚。
 無感情のまま、思考回路停止のままに動かしていた足先に、水の感触があたった。波打ち際まで近づいていたことに、ようやと気づく。自覚してやっと、足裏にざらつく感触も、海の冷たさもここにあったのだと知った。秋を存分に味わせる冷感が足元から這い上がる。波の音が耳に届き、嘲笑が零れた。
「いつまで…?」
 どこに向けるでもなく、何かを見つめるでもなく、呟いた。波音に掻き消され、けれど構わず続けた。
「いつまであたしは…」
 こうしていればいい?戻れないのなら、一緒にいきたかった。取り残されるなんて、望まなかったのに。
 一番に伝えたい相手は、もういない。迎える気が無いのだとしても、いくことを邪魔しないでほしかった。
 いつだって当たり前に隣にあった姿は、半年前――桜の舞う季節に失われた。
 脳裏に浮かんだ様々な表情が、記憶が押し寄せ、胸が軋む。目の奥が熱くなり、込み上げる嗚咽を噛み殺したとたん、涙が落ちた。
 顔を覆おうとして、頬に硬質なものが当たる。手にしていたストラップが、まるで忘れないでと訴えるように揺れ、チャームのガラス玉が光を受けて煌めいた。
 一年前の今日、幼馴染の松尾純平の誕生日に、この砂浜で拾ったもの。打ち上げられていた瓶を見つけたのは、那央だった。
 こんなものだけ残されても。憎らしげに睨み、けれど、とても大切な形見で。
「那央、」
 静かに、溶け込ませるかのような優しさで呼ばれ、俯いていた顔を僅かに上げた。振り返って確かめるまでもない声の主が横に並ぶ。
「そろそろ帰ろう」
「よく判ったね、ここ。いつからいたの?」
 視界の端に捉える人物――那央の兄である篤は、思わずといった風に苦笑を零した。大きな手が、労わるように頭に乗る。これまで何度もしてきたように、ぽむぽむと撫でた。
「気づいてたならリアクションくらいしろ。つーか、さすがにこの時期の水遊びはきつい。下がろう」
 ふざけて軽口調の篤が、本気で水遊びだと思っていないことは那央にも判っていた。
 裸足のまま波打ち際へ近づいていく妹を、どんな心地で見つめていたのだろう。慌てるままに騒ぎ立てることは最悪であり、想像した危惧を口にすることもまた最悪なのだと篤は知っている。
 血を流したあの時の姿は、これから先ずっと、懼れる対象として彼に刻まれた。
 二の腕を掴まれ、されるがままに後退した。濡れた素足が風に晒され体温を奪っていく。見下ろした先の篤の靴はずぶ濡れだった。
「お兄、靴濡れちゃってるよ」
「中までぐっしょぐしょだ。お前だけ裸足とか、ずるいだろ」
 わざとらしいむくれた声で頭を小突いてくる。
 募る焦燥を表面化させないように近づいて、だから自分の足元にまで気が廻らなかった。まさか入水するわけがないなどと信じることができないほどに、今の那央は危うく映っているのだろう。
「お兄」
「ん?」
「今日ね、純平の誕生日なんだ」
 掌のストラップに視線を落とした。夕刻色に反射して、きらきら輝く。眩しくて、いつだって前向きだった純平を思い出してしまって、目を逸らしたくなる。
「知ってる。それ、ジュンがずっと携帯につけてたやつだろ?」篤の視線も那央の掌に乗った。「だから今日、ここにきたんだよな」
「よく憶えてたよね、一年前のことなのに」
「あんだけ無邪気に騒いでりゃー誰だって憶えるっての。ガキかお前らは、って呆れるくらいガキだったな」
 笑いを誘うように篤は笑って、那央には小さく笑い返すのが精一杯だった。
 半年前からそう。那央の生きる世界が変わって、周囲は腫れ物を触る物腰で接してくる。何事もなかった態で、内実、触れるのを怖がっている。壊れかけた「あの瞬間」の那央を呼び起こさぬよう、そっとするのだ。そのことに苛立つことはない。そもそも感情が動かない。
 無味乾燥に時間を浪費する日々が続いている。
「子供だよ。だって一年前なんてまだ、十六だもん」
 今日で十七歳になる純平は、どこにもいない。生きる世界から、消えてしまった。
 那央の思考を汲み取って、篤は複雑な表情になった。どれだけ気遣おうとも那央は揺らがない。強固なほどに、兄の側に戻ろうとしない。那央は自身の心だけじゃなく、周囲の心まで巻き添えにして、削り棄てている。
 その事実に痛める心さえも、どこかに失ってしまった。
 ふわり、と白いものが舞って天を見上げた。つられたように篤も振り仰ぐ。
「雪…?」
 ひとつ、またひとつと、静かに存在を示しながら舞い落ちる。秋とはいえ、初雪にはまだ早い時期だった。
 ――これは一体なんの天罰なのか。
 ひらりひらりと降るさまは、桜が舞う姿に似ていた。否応なしに連想させる。永遠に葬り去りたい記憶を、胸を掻き毟りたくなるほどの痛みを引きずり出す情景を。
 冬は純平が大好きな季節だ。待つ待たないに構わずにいずれ訪れる季節を認識させて、消去できずにいる記憶を呼び起こさせて、那央を攻めたてようとでもいうのか。
 周囲から手前勝手に隔絶し、周囲の気遣いに甘え、それさえも拒絶しようとしている罰なのか。
 ストラップをきつく握り締めた拳を胸に押し当て、唇を強く引き結んだ。そうしていないと声を上げて泣いてしまいそうだった。
 だって仕方ない。
 どうにもできないのだ。どうにかしたいとも、思わない。それが罪だというのか。
「……帰ろう。風邪ひいちまう」
 那央と那央の周囲の人との間には、膜がはっている。向こう側に生きる人々は懸命に連れ戻そうとしているのに、那央は微動だにできなかった。それで構わなかった。

 触れない。触れさせない。――生きることなど、どうだってよかった。


[短編掲載中]