陽がすっかり落ちた暗闇の中、篤の運転する車のライトだけが道路を照らして走っていた。
 帰り道は終始無言だった。沈黙を重く感じることもなく、無理して何かを話す必要もなかった。
 那央は助手席に座り、ライトに照らされて浮かびあがる木々たちが、後方へと流れていくのを空っぽの頭で眺めていた。
 今は年間で最も紅葉の綺麗な時期だ。陽のある時間帯であれば、鮮やかな赤や黄色の風景を楽しむことができる。この頃から冬が終わるまで、この土地には観光客がひっきりなしに訪れた。
 滑らかに走行していた車は速度を落とし、ウインカーをあげて右折する。短い砂利の坂道を下ると、正面にログハウス調のペンションが見えてきた。玄関の手前に建てられた看板には『ペンション澤樹』と大きな文字が刻まれている。
 駐車スペースの一番端に車を滑り込ませ、エンジンが停止する。音という音が急速に沈黙した。車外の暗闇が侵入し襲い掛かってくるようで、不意に突き刺さる孤独感が那央の心を闇へと突き落とす。誰かが傍にいようと容赦なくそれは唐突に訪れた。
 身体を強張らせた那央に気づいた篤は開けかけたドアから手を離し、シートへと座り直す。
「大丈夫か?」
 覗き込んでくる兄が浮かべる表情が、心情が、目視せずとも容易く思い描けた。ゆっくりと篤の手が頭に伸びてきて優しく撫でる。大丈夫だよと、声無き言葉が伝わってくる。
 泣いてしまいそうで、涙が零れる前に慌てて車を降りた。
 どれだけ心配させてるか、どれだけの不安を与えているか認識するには充分なほど。今の那央に出来るのは棄て置いてと、願うだけ。自分勝手だと詰られても、どうにも出来ない。
 周囲が自分に望むように、気持ちを持っていくのは不可能だった。前向きになど、なれるわけがない。だからもう、構わなくてよかった。
 見捨ててくれたら、きっとその方が、楽だった。

 那央が暮らす家は北海道西部に位置するニセコにあり、両親がペンションを営んでいる。
 玄関を入ってすぐの部屋は、談話室兼食堂になっていた。客室は少なく、食卓も四人掛けのテーブルが二つと、二人掛けのテーブルが三つ。家族で経営していくには、多すぎず少なすぎずといった具合だ。冬になれば宿泊客の予約が途絶えることはなく、繁忙期には那央も手伝いで忙しくなる。
 けれど今は、手伝いの一切をしなくていいと言われていた。
 大学受験は高校二年から始まっている。さ来年の本番に向けて、今からやりなさい。だから手伝いは不要だ。とは、父親の言葉だ。
 目標がある人なら、この時期から始めたとしても早くはないが、那央は違う。それ自体の目標もなければ、生きる意味すら判らなくなった状態なのだ。手伝える精神状態ではないと判断したのだと、それくらいは判っていた。
 食堂に入ると、左手壁側に置いてある薪ストーブが赤々と燃えていた。火のはぜる音が耳に心地いい。温和な空気が身体を包み込んだ。いつもならストーブを囲むようにして配置してあるソファに座り、コーヒーを飲みながら宿泊客と談話したり、くつろいでる両親の姿があるのだが、今日はない。
 代わりに、人影が一つ。室内には他に誰もいなかった。那央の位置からだと後頭部しか見えない。
「どうした?」
 遅れて入ってきた篤が、ドアの所で立ち尽くしている那央に声を掛ける。不明瞭な束縛が、那央をその場に縫い付けていた。那央の視線を辿ったか、篤の気配が動く。
「お客さんか?」
 那央に、というよりは独り言のように疑問を口にする。
 篤は那央よりも頭一個半くらい背が高い。首から上を斜めに振り仰ぐと、頭のてっぺんが篤の胸にぶつかった。目が合って、篤はふっと表情を緩める。那央の頭をポンと叩き、横をすり抜けてソファへと向かった。後ろ姿を視線だけで追い掛ける。
 篤がソファの数歩手前まで近づいた時、気配を察知したのか、目的の人物は立ち上がり、身体ごとで振り返った。正面を向けるなり、ペコリと頭を下げる。
 一瞬だけ絡み合った視線に、息を飲み込み、呼吸を忘れた。心臓が奇妙に大きな音をたて、身体が硬直する。
「――純平…?」
 実際声になったのか、口内だけで呟いたのか判らない。胸の軋みだけが確かだった。
 見間違いなのは、すぐに判った。お辞儀から戻った少年は、顔立ちも背格好も、全く違う。似ても似つかない別人だ。なのに、錯覚した。
 篤が声を掛け、宿泊客ではないと答えている。二人の姿を凝視するばかりで、ドアの所に突っ立ったまま近寄ることはできなかった。
 別人と判明しても、鼓動は早鐘のように鳴り続けている。痛いくらいに、騒いでいる。
 水原(みずはら)侑希(ゆうき)だと、少年は名乗った。その一瞬、篤の顔が強張った。瞬きしていたら見逃してしまうくらいの、一瞬だけ。
 切り返し続けた笑顔は、取り繕っているようにしか映らない。ざらつく心地は増幅するばかりだった。
 篤においでと手招きされたちょうど、玄関から物音がした。振り返ると、満載に膨らんだエコバックを二つ、両腕に抱えた母親が沓脱ぎ場に立っていて、その後ろには父親が大きなダンボールを片手で担ぎ扉を閉めようとしているところだった。
「ただいまー」深い息と共に荷物を下ろす。重量感を存分に想像させる音がした。「那央、手伝って」
「お、かえり」
 呼吸を止めていた所為なのか、掠れた声になる。エコバックの一つを持ち上げ、先に中へと進んだ母親の後に続く。
 母親は部屋に入るなりソファにいる侑希に「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃった」と声を掛け、入口からみて右手にある対面キッチンへと入っていった。また入口で立ち尽くしてしまい、父親に背中をせっつかれる。
 この状況は、なに?
 自分だけが知らない。ここにいるのが当たり前の、この少年が何者なのか。宿泊客ではないと言っていた。確かに、そういう感じじゃない。――だとしたら、なに?
 父親は荷物をキッチンまで運ぶとすぐにソファへと向かい、侑希を篤と二人で挟む形で座った。三人の様子を焦点の定まらない目で見つめる。キッチンから母親に呼ばれ、意識をどうにか手繰り寄せた。ぎこちなく身体を動かし、母親の元へと行く途中で、前触れなく振り返った侑希と目が合った。
 ひとつ、また心臓が奇妙な音をたてた。

 五人で夕食の後、母親と後片付けをしていたら那央だけ呼ばれた。椅子に座り、向かいに座る父親と、侑希の顔を交互に見る。
 食事が始まる前には、名前と年齢という簡単な自己紹介しかなくいよいよ話が始まるのかと身構えたけれど、父親の口から出てくるのは雑談だけだった。まるで、核心に迫るのを避けて誤魔化している。
 普段は気風のいい父親の、濁すような態度が鼻につく。訳が判らないまま心に錘を注がれているみたいで苛立つ。和やかな雰囲気を作ろうとする輪にいて、那央だけが一人、浮いていた。
 自室に行こう、と腰を浮かしかけて、お茶を載せた盆がテーブルに置かれた。母親の目配せするより前に、湯飲みをそれぞれの前に置いた。見慣れた個々の湯のみの中に、明らかに客向けではないものが混ざっていて、心のざらつきが度を増した。
 母親の着座を合図に、一呼吸置いてから父親は話を始めた。
 年齢は那央の一つ下の高校一年生。長野県在住。両親は一年前に他界している。これから澤樹家で暮らすことが決まったという。那央と同じ高校に来月から通うことになり、今日は手続き等もあったので挨拶を兼ねてやってきたとのこと。実際に住み出すのは、もう少し先になるということ。
 羅列する言葉はあまりにも唐突で、理解する速度が繰り出されるそれらについていけなかった。はっきりしていたのは、置いていかれるのは自分だけということ。
 母親はもちろん、篤も前々から聞いていたのは明らかで、そのことに一番衝撃を受けた。
 どうしてこんな大事なこと、隠してたの?
 どうして親戚でもないのに、うちへ来ることになったの?
 どうして、こんな時期なのだろう?
 どうして?どうして?どうして?
 疑問ばかりが浮かんでくるのに、声にすることが出来なかった。那央が受け入れようと受け入れまいと、決定事項が覆ることはないのだと、間に流れる空気が語っている。
 那央の気持ちなど蚊帳の外で、能天気な侑希のテンションは苛立ちすらした。
 スノーボードをやってること。こちらの雪質が楽しみだということ。紅葉が綺麗で感動したこと。新しい環境は不安と同時に期待もあるということ。笑顔満面で次々と言葉を発してる。
 楽しいことしか知らない、とでも誇示するように。
 同じ空間にいることがひどく窮屈に感じられて、適当な相槌すら打てず、ましてや話題に乗るなど到底できる筈もなく。「判った」とだけ端的に吐き棄て、さっさと自分の部屋へと引き上げた。
 部屋の灯りもつけずにベッドに腰を降ろし、ポケットから取り出した携帯電話を手の中で玩ぶ。カーテンの隙間から差し込む月光が、机の上にある瓶を静かに照らしていた。立て掛けてあるカードが暗がりに浮かび上がっている。視座をそこに置き去りに、ストラップのガラス玉を握り締めた。
 日に何度も見つめるストラップはもう、目をつぶっていても細部まで思い描けるほどに記憶に刻まれている。こうしてガラス玉に向き合っている間だけは、時を止められる気がした。
 おはじきの反面に膨らみをつけたような形状のガラス玉に、太い針金が巻きつけられたチャーム。紐部には英字が刻まれたシルバー色のキューブ状ビーズが通してあって、ひとつの単語を形成していた。
 adagio――アダージョ。音楽の速度標語だと、辞書にはあった。「ゆっくり演奏せよ」の意。
 ストラップはメッセージカードと共に、波打ち際でゆらゆら揺られていた瓶に入っていた。
 瓶を最初に見つけたのは那央だった。表面全体はこすれて小さな傷だらけで、中に何が入っているか見えないくらいに曇っていた。それでも大きなひびもなく、割れずに辿り着いた瓶が、ゲームに出てくる宝物みたいに思えた。
 顔を寄せ合いながら、栓を抜く瞬間は子供みたいに高揚した。馬鹿みたいにはしゃいで、楽しくて。純平のくしゃくしゃに笑う顔が鮮明に脳裏へと浮かぶ。
『太陽を見上げるように、いつでも心が上を向いていられますように』
 書き添えられたメッセージの意味を、二人であれこれ言い合った。誰が流したのだろう、どんな“想い“が込められているのだろう。明確な答えなど必要なかった。
 誕生日ということもあって、その日から純平の携帯電話につけられた。――あの日までは。

 気持ちがモヤモヤする。浮かんできた『どうして』が消化不良を起こしていた。
 今日は純平の誕生日なのに。こんな日に、聞きたくなかった。


[短編掲載中]