侑希が挨拶に来てから二週間後の週末、二階の空いていた部屋が侑希の物で埋められた。
 転校の手続きも終わり、登校初日。一緒に行ってあげなさいと言う母親の言葉を無視して、いつもより一本前のバスに乗った。
 顔を合わせた日から、那央は無愛想で刺々しい態度しかとっていなかった。わざと、というよりは、無意識な比重が多い。原因は、彼女の内側に他ならない。
 人と接するのが億劫で堪らなかった。どんな時でも、無気力感だけが支配している。以前の、半年前の那央は、どこか奥へと追いやられていた。或いは消滅したか。
 露骨な冷たい態度で素っ気無くしていても、侑希は無邪気にまとわりつく仔犬みたいだった。明るさ全開で那央に接してくる。彼の辞書に『へこたれる』などという単語は未登録かと疑いたくなるくらいに。
 那央にとっては鬱陶しいだけの存在でも、澤樹家にとってはそうではなかったようで。ここ半年間はどことなく暗い雰囲気になりがちだった家の中は、侑希に引っ張られて少し明るくなったようだった。
 転校して数日も経過しないうちに、侑希の知名度は那央の学年まで広まってきていた。
 一番の理由に、スノーボードをやっているということがあった。毎年札幌で行われるエアー大会に挑戦していて、本選に進んだことはないけれど、実力的にはイイ線までいってる。らしい。
 那央はそれを本人からではなく、周りが騒いでいるのを耳にして知った。
 真っ先に思い出したのは純平だった。純平もまた、同じ大会に挑戦していたからだ。
 那央がスノーボードを始めたきっかけは、純平だった。そうなるのが当然とばかりに、惹き込まれていった。
 澤樹家への居候が露呈すると那央の周辺まで煩くなり、ますます侑希に対する態度がつっけんどんなものになっていった。初めのうちは色々と詮索してくる者もいたけれど、半年前から変わらぬ那央の態度に、すぐにターゲットを変更していった。今では本人に直接話をしてみようと、侑希の周りには学年問わず誰か彼かいる状態が展開されている。
 興味本位で近づいてきた人達とも次々と仲良くなって、侑希には誰とでも心安くなる不思議な魅力がある、と言い出す人までいた。
 そんな侑希や周りの変化に、那央だけが無関心だった。
 願うのは、ひたすらに放置してくれること。誰も触れてなどこなくていい。こちら側の世界に、泥濘から、出る気など微塵もない。なのに、
 廊下でバッタリ顔を合わせようものなら、大袈裟なくらい手を振って那央を呼んだり、下校時間に合わせて教室の外で待っていたりと、どんなに冷たく接してもめげなかった。
 何をそんなに頑張るのか、と訊きたいくらいに。侑希にとっての利など存在しないのに。
 うんざりと日々を遣り過ごしていたある日、廊下を歩いていて担任である庄野に呼び止められた。篤の親友であり理解者である庄野は、教員免許を取るとすぐに母校でもあるこの高校への着任を希望した。望んでここへ戻ってこれるってのは幸せなことだな、と時々口にする。篤とは今でも頻繁に連絡を取っているらしい。当然、純平のことも知っている。
 下校時間の喧騒の中、庄野と並んでゆっくりと廊下を歩く。篤のことや、最近のこと。他愛もない話をしながら体育館まで行くと、グランドへと続く出入口の外側にあるコンクリートの階段に座った。
「那央ちゃん」
 “親友の妹”を呼ぶ声色に、懐かしさに息苦しさを覚えた。視線をゆっくりと庄野に移す。
「久し振りですね、そう呼ぶの」
 一気に時間が巻き戻って、その激しい波に戸惑う。
 呼び起こされる。篤も庄野もまだこの町で暮らしていた頃に。――純平が生きていた頃に。
 那央の内情を敏感に読み取ってしまったらしく、庄野は遣り切れない感情を滲ませた。
 また、だ。
 幾度も自身に向けられる表情。望む訳ではないのに、結果的に周囲をそうさせる。己がそうさせているのだと自覚し嫌悪するくせに、どうにかしようとの回避努力はしていない。
 表面だけ取り繕って、以前の自分を必死に叩き起こして、大丈夫だと嘯けばいいのか。膜の向こう側に戻ったと演じれば、それで安心できるというのか。ささくれ立つ思いばかりが先行する。
 純平を失ってからは、息をしてるだけの、心臓が勝手に動いているだけの、意思の無い人形のようだった。下手くそな作り笑いすら作れない。以前のような自分には戻れずにいる。戻ろうとする気力もない。純平がいないことが、こんなにも自身を変えるだなんて、那央は思ってもみなかった。大切で、大きな存在だったのだと、思い知らされる。
 周囲など、どうでもいい。だから自分のことも、放置してほしかった。どんな顔を向けられようとも、心は動かない。
「こんな風に改めて呼び出すほど、深刻に捉えることはないんだけどね。最近どうなのかなー、と思って。水原くんだっけ?彼とはうまくやっていけてる?」
 侑希が転校してきたことで一年生が活気づいたことは職員室でも話題にのぼるほどだと庄野は言って、那央ちゃんは大変になっただろう?と苦笑いした。担任としてではなく、友人の妹を気遣う顔だった。
「そうですね」
 空気を重くしない為に庄野は軽い語調で喋り、那央は端的な一言でそれを台無しにした。庄野の人の好い顔がまた苦虫を潰したように笑う。
「迷惑してる?」
 継続される軽口には主語が欠落していて、侑希なのか庄野自身を指したのか判然としない。
 自嘲めいたものが感じられて、ようやと申し訳なくなる。ずっと、折をみては様子を気に掛けてくれた人だった。那央はゆっくりとかぶりを振った。率直な回答をするのが、せめてもの誠意だ。
「前までのあたしだったらきっと、一緒のノリで仲良くなれたと思います。……けど、今は…。無理としか思えなくて」
 今だけなのかこれから先ずっとなのかは判らない。侑希を受け入れようとしていない以上、どう転ぶかなんて誰にも判らないのだ。
「そっか。そうだよな。…うん」ふむ、と納得の風情を大袈裟にみせる。「いいんじゃないか、別に。無理して焦る必要、ないよな」
 どうだっていいよと続かんばかりに言って、座ったまま伸びる。うあー、と気の抜けた声と共に空に突き上げてた両腕を下ろす時には、那央の中の棘々したものが少し和らいでいた。


[短編掲載中]