同じ町で生まれ育ち、高校卒業までは近所に住んでいた。篤の部屋に遊びにくることはしょっちゅうで、那央のことも妹みたいに可愛がってくれて。那央にとって、もう一人の兄だった。それは純平にとっても同じで。
 篤も庄野もバイクが好きで、そんな二人に憧れて、誕生日を迎えてすぐに純平は教習所に通った。三人でツーリングに出掛けては、那央にはお土産話だけを持ち帰るということもしばしばだった。免許とりたての頃は毎週末乗り回しているような状態で、自分のいないところで愉しんできた話を後から聞かされては、むくれていたように思う。構ってもらえなくて寂しいのかとからかわれたのが癪で、図星だとは絶対に認めなかった。
 揶揄して意地悪く笑う純平の顔がくっきりと思い出され、つられてささやかに笑って、続けて泣きそうになった。二度と会えない笑顔に、はしゃぐ声に、打ちのめされる。
「本当に、そうでしょうか」
 声が湿っぽい。鼻の奥がつんとして、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……本当に、今のままでいいと、思いますか?」
 那央を見つめ返す双眸は、静かに続きを待っている。促されるまま、口を開いた。
「誰とも打ち解けようとしないで、変わることを怖がって。それを仕方ないの一言で済ませていいのかどうか、判らないです」
 篤はそれをよしとしていない。いいとは絶対に言わない。何が正しくて何が間違えているのか。今の自分でいいとか悪いとか。自分じゃない誰かからの意見で容易く変えられるとは少しも思えない。それでも、自分に近しい人達から、那央を真剣に憂いてくれている人達の言葉を、訊いてみたいと思えるくらいにはなっている。取り入れられるかどうかは、別の話だけれど。
 うーん、と聞えるか聞えないかくらいで唸って、庄野はしばし考え込んだ。あまりの真摯さに、自分との温度差というべき構え方の違いに、可笑しくなる。滑稽に思えてしまった。
 第三者から見て今の自分がどういう風に映っているか想像できるくらいにはなっている。温厚で辛抱強い人であっても、いい加減にしろとどやしつけたくなるくらい無気力に映っている筈だ。
 自身をどうでもいいと放棄している当人を差し置いて、那央を取り囲む彼らは、自分のこと以上に真剣に頭を悩ませる。周りの方が一生懸命《澤樹那央》という人間を生かそうとしている。
 そこまで判っていて尚、自分の感情は動かない。周りの為に虚勢を張ることは到底叶いそうにない。
「那央ちゃんさ」たっぷり悩んだ挙句、真摯な顔が向けられた。「俺は、那央ちゃんじゃないから、気持ちが判るなんて言えない。でもだからこそ、判ってあげたいなんとかしたいって思ってる。…それは、篤も一緒だよ」
 判っていた。純平を失ってから今日までの、那央に対する態度を見てれば、わざわざ言葉にされなくても、判る。言外に匂わせる希望も。
 当たり前が当たり前ではなくなり、崩壊した時、初めて気づいたことがある。気づいて、受け止めるにはきつ過ぎる衝撃に、愕然とした。結果として伝えられなかった『答え』に、伝えておけばよかったと、後悔した。
 そうしたからといって、あの瞬間がなくなったわけではなかったろうし、純平の運命は変わらない。それでも『想い』にもっと早く気づきたかった。己の鈍さを恨んだ。
 そして、どうしても伝えたくなった。
 いなくなってからでは、どうにもならないことだと知っていながら。――だから、純平に逢いに逝こうとした。その欲求は日毎渇望を増している。
 吐露したくとも、口にしてはいけない底意。ぐっと飲み下し、頷いた。
 那央が頷くのをしっかりと確認して、庄野は声の調子を上げた。
「だからさ、今でも篤の奴な、毎回帰ってくる度に俺を訪ねてくるんだよ」
 心配性すぎだよなー、と庄野は笑う。その笑顔を見ながら、え、と小さく零していた。
「……お兄、来てるんですか?学校に?」
「うん、まぁ。ほとんど毎回、かな。今日も来てたよ。過保護すぎだって言ってやったよ。シスコンし過ぎてると、嫌われるぞって」
 一度上げた雰囲気を壊さないようにする気持ちもあるのだろう。冗談めかして言って、那央の顔を見た瞬間、笑顔は掻き消えた。
 那央が何を考えたのかまでは判らなくても、口を滑らせたかもしれないということに、気がついた表情だった。
 篤がそんなことをしていると、知らなかった。込み上げたのは、怒りだった。何故そこまでするのだ。そうまでさせた自分に憤る。
 頻繁に帰ってくるのも、様子を聞きに来るのも、全部全部那央の為だ。己の生活を犠牲にしてでも、那央を憂いてる。もっと自分のことを考えてほしいのに。――そんなのはただの我侭だ。原因を招いている自分に願う権利など有りはしない。
 あの時から初めて、感情が動く。もがかなければいけないのだと、警告めいたものが頭に宿る。
「那央ちゃん?」
「……はい」
「ごめん。なんか俺…」
 覗き込んでくる庄野に、大きく首を横に振った。
「謝らないで下さい。やだな、」
 明るくをイメージして作った声音は、ひどくわざとらしく響いた。
 判っていても、判らないふりをする。気づいていないふりをする。今の自分に出来る精一杯。これ以上周りに、気を遣わせてはいけない。心配してくれる表情を、見たくない。じりじりと、けれど確実に、理性が感情に働きかけていた。少しずつ、ほんの少しだけ、感情が動く。
「庄野さん、お兄は元気でした?」
「うん?」
 質問の意図が汲めずにいる顔だ。那央の機微を感じ取って、戸惑わずにはいられないのだろう。
「教えてほしい、です。…どうやったら、お兄は自分を犠牲にしなくなりますか?」
「意味が判らないよ」
 庄野は戸惑いを隠せずにいた。困惑が明け透けになっている。
「以前から、あんな感じではなかったと、思いませんか?」
 昔から、面倒見のいい兄だった。いつも護ってもらっていたと思う。優しくて、優しすぎるくらいで。庄野がシスコンだと揶揄するのは判る。もともと家族想いなところがある人だった。
 拍車がかかったのは半年前。篤は明らかに変わった。那央が変えてしまった。
 純平の元へ逝くことを望んだ頃から、臆病が加わった。過度の心配性も備わった。優先順位はどんな時でも那央が上で、自分のことは後回しで。
 押し付けがましくなかったその優しさが、今更ながらに重い。
 今は札幌で働いていて生活もそこにあるのに、週末になると毎週のように生まれ育った町、今も那央達家族が暮らす町へ帰ってくる。大学へ進学と同時に札幌に進出し、そのまま就職。定住してからは、年に数回帰ってくるだけだったのに。
 純平がいなくなった直後には、仕事を辞めて実家へ帰ると言って、家の中はちょっとした騒ぎになった。結局は、両親と篤の親友でもある庄野の説得に折れて、それまでの生活を変えることはなかったのだけれど。
「そう、思いませんか?犠牲にしてるって」
「そんなことは…」
 どう答えていいのか判らない、という顔で口篭る。
 そうだよね。難しい質問してるもの。けれど即座に思い直す。本当は難しくない。肯定することが出来ないだけ。
 認めてしまえば那央を責めることになる。そのことを知っているから、言えないでいる。問うてから、こんな質問は酷薄だったと知る。
 庄野からどんな答えを欲しているのか。己の中から問い掛けられ、己の中に答えを捜す。親身になってくれる人に非情な仕打ちをしてまで、何を欲しているのだ、と。
 責められたい、のかもしれない。
 自分を助けようとする手を、気持ちを、総て断ち切ってしまいたい。断ち切れたなら、楽になれると信じているのだ、自分は。
 やはり一番に望むのは周囲から向けられるそれとは異なるのだ。必死に繋ぎとめようと差し伸べられる手を、簡単に切ってしまいたかった。


[短編掲載中]