家の玄関を開けると、ほわんとした空気が那央を包み込んだ。ただいま、に対して返事はなく、代わりに食堂から話し声が聞こえてきた。
 食堂へ通じるドアは上半分がガラスになっていて、中の様子が窺える。室内には篤と、その向かいに両親が、出入口に背を向ける形で座っている。篤の真剣な顔に、思わずドアにかけていた手を引っ込めた。壁に寄り姿を隠し、耳をそばだてる。
単語を数個拾い上げただけで内容は把握できた。那央の今後の事だ。あまり大きな声ではないので、事細かなことまでは聞こえてこない。本人不在の話し合いは、きっと幾度となくあったのだろう。同じ議題を数多繰り返して。
 息を殺し意識を集中していると、篤のキッパリとした声が通った。
「那央が卒業したら、札幌に連れていく」
 断定された物言いだった。那央の意志は無関係で、妹の為の至善だと信じ切っている。父親の忠言を遮り、続けた。
「この町には思い出が多過ぎるんだ。ここにいればそれだけ、あいつはジュンの幻影を見つけてしまう。追い掛けようとしてしまう。……また、って思うと、俺は怖くて堪らない」
 何度も思い出すのだ。血を流した妹を。その度に襲い掛かる畏怖を。
 想起するものが何であるか両親にも判っていて、押し黙っている。
「このままじゃ、いつまで経っても過去には出来ない。面倒はちゃんと俺がみるよ。今度は絶対、連れていくから、」
 言葉が終わるよりも前に、那央はドアを開けて部屋の中へと踏み込んでいた。勢いよく開けられたドアが壁にぶつかって、ビリビリと余韻を残す。
 視線が一斉に、那央へ向けられた。両親の視線を受け流し、那央は篤を直視する。
「那央、」
 先ほどまでの篤の勢いは削がれていた。バツが悪そうに見つめ返している。
「もういいっ」悲鳴に近い叫びになっていた「あたしのことは放っておいていいから!自分のこと優先させてよ…っ」
 放課後に庄野と話してた時の感情がぶり返す。荒げた声に比例して、己の視線が尖るのを感じた。
 中途半端に腰を浮かせていた篤はテーブルに手をついた恰好のまま瞠目していた。突然のことに言葉を失い、適切なそれらを懸命に捜しているようだった。
「ほっといて!自分を犠牲にしないで!…嫌なの。腫れ物に触るみたいにされるのも、必要以上に心配されるのも。…もう、うんざりだよ」
 一気に吐き出していた。酷い言い草だと認識していながら止められなかった。一番の責は自分にあるというのに。
 胸が痛い。苦しい。感情が動いてしまった今では、つらいだけ。
「那央…。俺は、」
 首を振って遮った。攻撃的な自分を律することができない。
「そうじゃないって、言える?だったら、どうして?バイクに乗らなくなったのはどうして?あんなにも好きだったじゃない。今じゃそのバイクすら手放してしまってる」
 理由など、訊く必要なんてなかった。言われなくても判っていることを敢えて訊こうとする行為は、果たして自分を罰したいだけなのか。
「那央っ…」
 言葉を返せず立ち尽くしてる篤の顔も、振り返ったまま固まってる両親の顔も、悲しみの色に満ちていた。見ていられなかった。目の前の状況を招いたのは自分なのに、一度吐き出してしまったものは取り消せない。
 気遣って心配してくれる総てを傷つけたいだけじゃないのか?己の内側が容赦なく攻め立てる。
 それでも止める術も取り消す術もなく、境界を築くしかなかった。
「あたしに構わないで!」
 吐き棄て、逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。強く閉まったドアに背中を預け、きつく目蓋を閉じた。鼓動が激しく暴れ狂う。やがて、呼気が落ち着くのを待ち構えていたかのように、平常に近づいたのと同時に、足から力が抜け落ちた。重力に従い、ズルズルとしゃがみ込む。膝の上に頭を乗せ、小さく小さくうずくまる。
 心の中が、痛い想いで満ちてゆく。

 どのくらい時間が経ったのか、部屋中に響いてる秒針の音が不意に飛び込んできて、耳障りに感じた。顔を上げ、視界に入ってきた窓の外側にある闇の色に、引き込まれる恐怖に襲われる。
 急かされるままに閉めようとしたカーテンに手を掛けた時、階下のウッドデッキに人影を見つけた。後姿ではあるけれど篤だと判る。
 デッキの縁から脚を投げ出して座っていた。夜ともなれば気温が落ちる。防寒対策は万全とは言いがたい恰好で、その背中は寒そうにも映った。
 軽く顔を仰向け、白い煙を細く長く吐き出す。煙草を吸う姿を見るのは、何年振りだろう。禁煙に成功してからは、一度も見たことがなかった。吸わずにはいられない心境に追い込んだのかとよぎれば、また胸が痛んだ。
 気づけば上着を着込み、毛布を手に、デッキへと向かっていた。物音に篤が振り返り、那央だと判ると慌てて煙草を灰皿へと押し付けた。
「――さっきは、ごめんなさい」
 毛布を抱き締める腕に力が篭る。背丈よりも高いベランダ窓のサッシが境界線のように、デッキに足を踏み出せなかった。
 ゆったりとした笑みを浮かべた篤は無言のままに手招きし、隣へ座るように示した。数秒躊躇い、一歩を踏み出す。隣に腰を下ろしてみたものの顔が上げられず、足先ばかり見つめてしまう。
「ごめん、ね。…やつ当たり」
 篤の気配が動いて、視界の端に顔を出す。覗き込む顔には、なんのしこりも感じられない。
「気にすんな」
 緩やかに持ち上がった口端は笑みを湛え、頭に乗せられた手がとても優しくて、鼻の奥がつんと痛む。
 篤はいつも、那央には甘い。柔和な声音が心地よく沁み込む。
「バイクを手放したのは、前にも言ったけどな、車の方が便利なんだ。それに俺の安月給じゃ両方を維持するのはキツイしな」
 わざらしく、苦笑してみせる。
 純平がいなくなってしばらく経った頃、篤がバイクに乗ってないことを指摘した時も、同じことを言っていた。
 本心だとは思わない。けれど何度聞いても、やはり同じ答えしか返ってこないのだろう。
「那央が気に病むことじゃない。俺は自分にとっての最善でしか、こういうことをしないから」
 念押すように頭に乗ったままの手が撫でるように叩く。
「……うん…」
 ありがとう、という言葉は飲み込んだ。反駁も意味を成さない。堂々巡りにしかならない話題に早々に切りをつけた。
「今日ね、久々に庄野さんと話したんだ」
 顔を上に向けて星空を仰ぐ。少しでも声が上向いて聞こえたらいいと願いながら。
「シスコンし過ぎだって、言われてるでしょ」
「あのやろ…。他になんか、悪口とか言ってなかったか?」
「雑談しただけ。…ただ、庄野さんもさ、すごい心配してくれてるって、改めて感じた」
「そりゃ、するだろう。お前のことは小さい頃から知ってるし、俺と同じで可愛がってたからな。…いや、俺の方が上だな」
 篤は得意顔を作ってみせる。わざとらしい。
「自らシスコンだって明言してるようなもんだよ?」
「だな」
 顔を見合わせて、ささやかに笑い合う。
 学校へ来たのを知ってることは言わないでおこう、と決めた。篤が隠そうとすることを、あえて追及する必要はない。そこまでさせているのは、この自分なのだ。
 縛り付けたいわけじゃない。もっと自分を優先してほしい。本心から願っていても、伝わったとしても、篤が変わることはきっとない。
 どんな説得を重ねたところで、辞めない。護ろうとすることを、辞めない。
 那央が生きる世界からいなくなりたいと、純平のいる世界へ逝きたいと切望することを失くさない限り、ずっと自分を犠牲にし続ける。
 那央が自分の足で、意志で、生きようとしない限り。
 理性がその事実を充分すぎるほど理解していても、心はどうしてもついていかない。もがくことも出来ずに、日々が流れていく。
 寒くないか?と言って、篤は自分の手に息を吹きかける。白く吐き出された息が一瞬だけで消えていった。
 自分の存在も、吐き出される息のように、簡単に消えてしまえばいいのに。決して口にしてはいけないことを思いながら、篤の横顔を眺めていた。

 家の中に入ってストーブ前のソファに座り、手をかざして冷え切った手を温めた。ストーブの中で薪が煌々と燃えている。ゆらめく炎を眺め爆ぜる音を聞く無言の穏やかな時間。気持ちがほどけるように凪いでいく。
 しばらくしてソファに身を沈めた篤が唐突に明るい声を放った。
「那央は、侑希が嫌いか?」
「へ?なに、突然」
 呆気に取られ、きょとんと篤を見つめた。揶揄を帯びた顔つきだ。
「そんな感じを受けたんだよなー。侑希の奴、軽くヘコんでたぞ」
 喉の奥でくくっと可笑しそうに笑う。こんな笑顔、久し振りに見たかもしれない。篤に倣ってソファにもたれかかる。自身の言動を思い起こして数秒熟考。あらためるまでもなく、粗雑な態度だと苦い心地が沸いた。
「そうじゃないけど。なんか、ちょっと…」言い訳めいた口調になってしまう。
「うん?」
 なんでも聞くよ、との声無き促し方にぽつりと零す。
 侑希の姿を捉える度、言葉を交わす度――純平を思い出していた。別人だときちんと認識しているにも拘らずに、だ。幻影を見るのが怖くて、正面から向かい合うのは辛くて、侑希を避けていた。
 侑希の気質が純平を想起させるのだ。だからわざと、冷たい態度で距離を作ろうとあがいていた。人と接するのが億劫なのは根底に揺らがず横たわっている。それ以上にたぶん、思い出すのを避けたかった。
 侑希を知るほどに、仲良くなるほどに、純平を思い出してしまうかもしれなくて。避けて冷たく接するしか方法が思い付かなかった。
 篤は、そうか、と言って息を吐く。
 泣き出してしまいそうだった。視界が徐々に滲んでいく。目尻が熱くて、込み上げそうになる嗚咽を必死に抑え込む。
 篤の前で一度口を開いてしまうと、歯止めが効かなくなる。心の内からポロポロと剥がれ落ちるが如く言葉が止められなくなる。
「駄目なんだ。どうしても、思い出しちゃうの。目が同じで…。侑希は純平と同じ目をしてる」
 初対面で錯覚したのは双眸の所為だったと、今なら判る。内側にある性質とも呼べるべき核が二人は似ているのだ。第六感で感じ琴線が揺さぶられる。
 黙ってひたと耳を傾けてくれる篤に促されて、溢れるままに綴った。
「純平のことは、忘れなきゃ、過去にして受け止めなきゃって焦ることも、あったりするよ。周りが心配してくれるのが判る分、どうにも出来ないでいる自分に腹が立ったり。…だけど、どうしていいか判らない」
 涙腺が決壊する前に、吐き出してしまいたかった。言い切って息を止めた。息苦しさを覚え、ゆっくりと吐き出す。
 無意識に、左腕を庇うように触っていた。――あの瞬間の感触が鮮やかに蘇る。
 篤はそっと、那央の頭を引き寄せて自分の肩にもたせさせた。赤ちゃんを寝かしつける時のような優しい手つきで、頭を撫でる。
「忘れる必要は無いんだ」解け込む優しさで静かに紡ぐ。「しっかり覚えとけ。忘れなくていい。…けど、今すぐじゃなくてもいいから、いつか受け入れなきゃ駄目だ」
 あたたかい篤の声に包まれて、声に出して返事が出来なくて「うん」という代わりに頷くと、溜まっていた涙がポロリと落ちた。
 ――忘れられるわけがない。
 何年経とうが、純平との思い出も、純平自身も、忘れられない。
 失われたあの瞬間は、いつでも蘇る。生々しく痛みすら伴って、繰り返し再生されるのだ。決して消えることない記憶。目蓋の裏にしかと灼きついている。


[短編掲載中]