北海道に遅い春が訪れる五月。河川敷に咲く桜を見に、純平と二人でバイクに乗って出掛けた。
 日差しは暖かく降り注ぎ、時折吹く風にはまだ冷たさが含まれており、それらの調和が心地のいい日だった。満開の大木の下で草の上に直接並んで寝転がる。
 飛び込んでくるのは快晴の青空と、薄いピンクの花たちだけ。隣にいる純平の、息遣いさえもハッキリと聞えるくらいの距離が、とても居心地のいい空間だった。いつだって当たり前にある距離感。
 風の音を聞きながら目蓋を下ろし、どちらともなく口を閉ざした。しばらくはそのままで陽気に誘われるままにまどろんでいると、振り仰いでだままの純平が那央を呼んだ。
「んー?」
 若干の眠気に襲われてて、まったりとした返事が出た。対して、呼び掛けたくせに純平は黙り込み、たっぷり躊躇った後「あー…やっぱ、いいわ。やめとく」と取り消し発言する。
「気になる」
「いや、いい」
「なん?言ってよ」
 食い下がる那央に、「しょーがねー奴」との小言つきで息を吐かれる。呆れられた感を孕んでいて、どっちが!との突っ込みはとりあえず飲み込んでおいた。こっちがむきになると純平はからかいに走る傾向があるので、ここいらが引き時と見定める。が、案に違い、
「じゃあ、那央の誕生日に言うよ」
「なにそれっ。まだ先じゃん!」
 明確な答えかと思えばなにを勿体ぶるか!というのも飲み込む。思うツボにまんまと嵌まってやるものか。
 とはいえ反射で文句を述べるあたりが自分らしいよなぁなんて自己分析。引っ込みがつかず上半身を勢いよく起こし純平を睨み下ろした。膨れっ面を遺憾なく晒す那央を見上げる純平は遠慮なく噴き出す。
 これが女子に対する態度か!しかも友達以上の気持ちがある相手に!などとは口にできず。たぶんこの認識は単なる自惚れではない筈で。
 保健室で、言葉ではなく行動で、純平の気持ちを知った。
 純平は答えを求めてはこなかった。要らないのか、知っておいてほしかっただけなのか、それとも、こうして『これまで通り』と同じでいられるのなら必要としないのか。
 正直、純平を恋愛対象として見られるか判らなかった。あまりにも幼馴染に慣れすぎて、今更男を意識しろとかハードルが高い。直後は当然混乱したし、捜すべき答えも散々悩んだ。結論として、できるなら抜きにしていきたいと願ったことを、純平は承知済みなのだろう。
 共通の願いは『変わらない』であり続けること。答えを求められないことを、勝手にそう解釈した。
「純平」
「言わねぇぞ」
 返し刀の頑なな回答に唇が尖る。「待てばいいんでしょ待てば。じゃなくて、またこようね」
「桜か?」
「それもそうなんだけど、こうやってどっか行くの、楽しい」
 客商売の家に産まれた那央には家族総出で遠出した記憶がない。大人の手を煩わせることなく自分達で計画し足を伸ばせるのが思いの外楽しいと知ってしまった。
 行動範囲が広がることは、大袈裟なきらいはあるにせよ、世界が広がるに通じるものがある。
 免許とりたての頃は置いてかれるばかりで面白くない心地満載だった時期もあったけれど、誘ってもらえるようになって最早帳消しになっているのだから我ながらげんきんだとは自覚する。
「味しめたな」
 同じ頃を純平も思い出していたのか、若干意地の悪い笑みが浮かぶ。普段なら噛み付く場面でも今は気分がいいのでスルーだ。
「しめたしめた。次どこ行こうねー?」
「行くとか言ってないけど?」
「やなのっ?」
 ゴリ押しに「はいはい」と呆れた溜息。むう、とむくれてみる。
 膨れっ面を満足そうに眺めた後、純平は「仰せのままに」と笑顔をみせた。
 陽の傾きが明瞭になった間合いで帰路についた。バイクの後ろから振り落とされないようにと、しかとくっついてしばらく走った頃、唐突に純平の背中に緊張が走った。
 前を見遣った時には、対向車線を走っている筈のトラックが目前に迫っていた。とっさには状況判断がつかず、瞠目するままに身体が硬直した。
 背中に抱きついていた腕に力がこもる。声をあげることも叶わない。那央にできたのは、近づいてくるトラックを凝視するだけだった。
 純平を呼ぼうとしたのか、単に悲鳴をあげたかっただけなのか。喉から音が迸るより先に、左腕に強い圧力が打たれた。――気がつけば、草むらに転がっていた。
 身体のあちこちがちりちりと痛む。ひと際痛みを残す左腕を右手で押さえ、よろめきながらも身を起こした。視線を忙しなく方々へと散らしかけ、次の瞬間、耳障りなブレーキ音と金属のぶつかる鈍い音が飛び込んできた。同時に自分は道路脇の坂となった草地にいると認識し、のび放題の草に足をとられまろびながらもアスファルトの上に戻る。
 飛び込んできた光景に息をするのも忘れ、立ち尽くした。足が竦んで動かない。くず折れないのが奇跡と思えるくらいに膝が震えた。
 ほんの数秒前まで乗っていた筈のバイクは丸めた紙屑みたいにグシャリとひしゃげ、鉄の塊と化していた。アスファルトを濡らす液体が存在を誇示するように範囲を広げていく。焦げた匂いとオイルの匂いと血の匂いが混ざり合い、眩暈がした。
 鉄の塊に組み敷かれ手足を投げ出しうつ伏せに横たわる純平が、いた。
 肢体の総てから力という力が抜け落ちた、捨て置かれた人形然とした姿。指先ひとつ痙攣することもなく沈黙している。生を感じられない事実に総毛立つ。
 自身の金切り声で自身の耳を貫いた。純平を呼んだようでその実、意味不明な言葉の羅列だった。
 夢じゃないことは、左腕の痛みも迫り来る血の色も如実に物語っていた。
 純平は二度と笑うことはない。名前を呼ぶことも愉しそうに那央をからかうことも些細なことで心配することも、ない。声が聞けない。男らしく大きくなった手で触れられることもない。
 白い布の下で沈黙する純平を前に、叩き付けられた現実の中にいて、泣かなかった。泣けなかったのでも我慢したのでもない。那央の中の何かが、決定的に停止した。
 一日経っても二日経っても、涙が落ちることはなかった。
 悲しいとも寂しいとも去来しない。感情がなに一つ湧かなくて、何も感じなくて。それはもう、魂の消滅した抜け殻で。
 意識は完全にこの世界のどこにもなく、目蓋を開けていても見えることはなく。耳が音を拾うこともなく。虚無感だけが、存在していた。
 何もかもが、那央の周りでかすりもせず、ただ通り過ぎていった。何も触れずに、純平の死を受け入れないまま、無慈悲に時だけが流れていった。
 時が経つにつれ、少しずつ機能し始めてしまった細胞が、スイッチを入れてしまった頭が、理解してしまった。
 きつく左腕に残存した圧力の残滓が、那央をバイクから引き離す為のものだったのだと、理解する。――純平は、那央だけを助けた、と。
 この世から失われた。那央を置き去りに、那央だけを救って、いなくなった。突き付けられた現実を思い知らされた時、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 心はずっと、悲鳴をあげてる。この苦しみから助けてほしいと、叫んでる。救えるのは純平だけ。
 携帯電話の登録は消せぬまま、無意識のうちに通話ボタンを押している。機械的なアナウンスが応えても、何度も繰り返す。いつか応えてくれる。屈託無い純平の声が、聞こえてくるんじゃないかと、縋っていた。
 当たり前に隣にあった姿が突然失われる恐怖を初めて味わった。自然で当たり前に存在し続ける保証が何処にもないと知らしめられた。普通なことがとても幸せだということを、大事にすべきだったということを、前触れなく突き付けられたのだ。
 そして今、純平を失って。生きることも、死ぬことも、那央には無意味なこととなった。
 先には進めない。あとにも戻れない。ただ呆然と立ち尽くす。進みたいとも戻りたいとも、望まない。純平が還ることは、叶わない。それ以外に、望むことなどなかった。
 今でもあの時の感触は深く刻まれている。
 純平が那央に触れた、最期の刹那。消えない痣のように穿たれた。
 思い出す度、苦しくて、締め付けられて、どうにも出来なくなる。どうして助けたりしたのかと、お門違いな意趣を、ぶつけてしまいたくなる。
 こんな風に残されるくらいなら、一緒に逝きたかった。独りだけ助かりたくなど、なかった。


[短編掲載中]