純平は小さい頃からずっと、当たり前に近くにいた存在だった。
 何でも話し合える友達で、いい意味で無遠慮な関係が構築されていた。それは永遠に続くものなのだと、根拠のない確信が根付いていて。無意識に、信じていた。
 互いに恋人ができようとも、一番に居心地のいい距離感は、どこまでいっても変わらないのだと。
 高校一年の初夏。那央に初めての彼氏ができた。相手は純平もよく知る、杉野高志だ。
 三人は同じ中学出身で、中学時代の『あること』を境に、仲違いをした。正確に言うならば、純平と高志が。
 高校に入り那央は高志と付き合い、そして、その年の冬を待つことなく、別れることになった。
 中学の時、純平と高志は本当に仲のいい友達だった。親友と呼べるほどに。関係が崩れた瞬間を、那央はハッキリと覚えている。
 誤解と怒り、擦れ違いと時間が、容易には埋められない溝を作った。二人の狭間にあって、最後まで諦めず憂悶していたのは、那央だけだった。
 秋に差し掛かった、夕方ともなれば肌寒い空気が身を震わせる季節に、それは起こった。

 中学三年。まだまだ幼さの残る高志の顔は、これまでにないくらい憤怒に上気していた。純平と一緒にいることが多ければ、三人でいる時間が増えるのも自然の摂理のようなもので、知り合ってから初めて、こんな一面を持っていたのかと驚くほどだった。
 怖い、と思う半面、ここで引き下がってしまったら二度と目を見てくれない気がして、那央は必死に高志に食い下がる。
「だからっ!それは誤解だって!杉野くんっ…待って…!!」
 興奮した闘牛然として、猛然と純平の元へ向かおうとする高志の腕に両手を絡ませ、全体重を掛けて止めようとする。けれど中学生とはいえそこは男と女の悲しい差で、那央の制止はむなしく引きずられていた。
「どこがだよっ!本人からはっきり聞いたんだぞ!?」
「杉野くんの彼女がどう言ったか知らないけど、純平はそんなことする人じゃないっ」
「幼馴染みだからって、庇うのか!?」
 頭に血が昇っている人間を瞬時に落ち着かせる魔法があれば知りたいと、切に思う。馬鹿馬鹿しい思考でも、非現実的でも、今の状況では何でもいいから縋りたかった。
「そーゆんじゃないよ!ただ、冷静に話した方がいいって、」
「俺は落ち着いてるっ」
 被せて言い放ち、那央を遮る。どの口が言う!?と逆撫でする突っ込みは飲み込んだ。振り払うまでは現在のところしていないが、那央がぶら下がったままでも進んでいく勢いに衰えはない。
 今までも、意見の相違やくだらないことで喧嘩になることは多々あった。その度に那央が間に入るか、男二人で解決するかしてきたのだが、今回ばかりは勝手が違う。過去のものとは種類が異なるのだ。
 怒りの矛先である純平は、まだこの事実を知らない。
 純平は悪くない絶対に、というのが那央の見解だ。だが、高志はそう思っていない。というか、思わないようにしているのかもしれなかった。
 原因は、高志の彼女の心変わりだった。
 那央はたまたま偶然、その別れの現場を目撃してしまった。それがつい先ほどのことである。
 誰かと付き合っていても、他の人を好きになってしまうことは、あるかもしれない。今回の場合、その相手が悪かった。こともなげに彼女は純平だと言った。
 別れ話の上に名前が出たことで、短絡的思考が直線的に繋がってしまったのだろう。
 しかも、彼女(もう元だが)は自分を悪く言いたくなかったのか、綺麗に別れる為に安易に口にしたのか、純平からもそれなりのアプローチがあった、と言った。
 それだけは絶対に有り得ないと、信じていた。
 高志と彼女のことは本当に祝福していたし、悩みがあれば親身になっていた。自分のことのように悩んでいる純平を、那央は知っている。
 現段階で純平に彼女がいるわけではないが、友達の彼女にちょっかいを出すほど不自由するような人間でもない。どちらかと言えばモテる部類に入るからだ。否、それがなかったとしても、純平はそういう人間では断じてない。と自信をもって言えた。
 高志も判っている筈なのだが、冷静に判断が出来なくなっているらしい。
「とっ、とにかく!止まってっ!」
 力一杯後ろに仰け反って、高志の腕を引っ張ろうとした。同時に、高志がピタリと動きを止めた。結果、那央は高志の背中に鼻から激突する。
 声にならない呻きを鼻を押さえながら吐き出して、痛みが粗方治まるまで数秒要した。
「ったぁ…。杉野くん…?」
 背後からの角度では顔が見えないが、前を見据えた高志からはまだ怒っている様子がありありと窺えた。 鼻をさすりさすり、腕を掴んだまま横に並ぶと、前方に高志の標的を見つける。
「ちょっ、駄目だからねっ!?」
 高志は無言だ。睨みつけられている純平は、当然状況が読めず、きょとんとしている。
 原因不明だが高志が怒っているのは判り、しかも矛先が自分であるということも判ったらしく、那央に目配せしてきた。声にしたなら「怒ってんの?俺に?」だろう。
 苦い表情を純平に向けてから、那央は高志の斜め前まで進み出る。
「落ち着いてよ。ね?まずは言葉で確認しよ」
 神経を逆撫でしないよう気張った声音で見上げた。高志の前進を阻止すべく腕を前に伸ばして突っ張る。
「お前らが大騒ぎしてるって聞いたから来てみたんだけど…。なにがあった?那央?」
 那央は首だけをよじって振り返った。どう動いていいものか、純平も逡巡している様子だった。
「ちょっと、さ。誤解が生じてるん、」
 言葉尻は身体の傾ぎに遮られる。那央の視線が外れたことを好機とばかりに、高志は那央を脇にどけた。油断していた所為で、ほんの少しの力で簡単に横へとよろめく。那央が体勢を立て直した時には、高志は純平の真ん前に立っていた。
 那央が制止を叫ぶのと、高志の声が重なった。よほど混乱していたのだろう。誰の声も、高志の耳には届かなかった。
 どれだけ高志が彼女を大切にしていたか、想っていたか、那央も純平も知っていた。だから今回のことは、絶対に有り得ない事態だった。
 ――那央の声も、純平の声も、届かない。時間を置いても、無理だった。
 誤解されたままなど納得いくわけもなく、時間が経とうが日数が経とうが接触を試みていた純平も、頑な過ぎる高志に嫌気が差したのか、呆れたのか、高校へ進学しクラスも離れると、疎遠になった。
 本人から直接確認することは出来なかったので想像するしかなかったのだけれど、高志の中では、どこかの地点で誤解だったと認めた瞬間があったのかもしれない。意地になっていた分引っ込みがつけられなかったのと、疑い続けたことに対する罪悪感から、後には引けない状況に陥っていたのではないか、と考えていた。
 だから、高志との距離を作ることをしなかった。純平が高志の頑なな態度に怒り、諦めた後も。
 表向き純平は「もう知らねぇ」と切り棄てていても、隠した本音ではずっと気に掛けていることを、那央は知っていた。どうにかしたいと、いつも思っていた。
 もどかしいほど膠着していた中、高志から告白された時は心底驚いた。迷って、考えて、悩んで、受けた。
 これは誰にも内緒にしていたことだけれど、中学の頃、那央が高志を好きだった時期が存在した。そして、彼女ができたと聞かされた時、消滅した。恋愛感情に到達するよりもっと前段階の淡い想いだったからなのか、友情の継続をあっさりと取ることは苦痛ではなかった。
 気持ちが復活したわけではなかったのだけれど、那央は告白を受け入れた。
 言及はしなかった。高志の考えていることは、本当の理由は想像もつかなくても、那央は流れに任せることにした。高志と一緒にいられる時間を増やすことを選んだ。それを最善だと判断したのだし、そうすることで何かが変わればと思っていた。
 純平が諦めて、那央が諦めなくて、高志からの告白がある前のことだ。那央とは普通に接するようになっていた高志に、口を滑らした態で言ったことがある。
 前に好きだったこと。時効になればこうして伝えられることはあるのだと。
 時を経れば、わだかまりを棄て去ることができれば、元通りになれるのだと言外に匂わせた。
 付き合うことを、義務はなくとも他の人から聞かせるくらいならと純平に報告した時、訝しむ様子を隠そうともしなかった。不満げとも言える表情は、祝福から遥かに遠かった。
 自分の策略を見透かされているのかと警戒したが、思い過ごしだと思い込むことにした。
 中学時代を知る者は戸惑い、勝手な妄想を噂話にする者もいたけれど、それも何事も無く時間が経てば気に留める輩もいなくなった。何事もない、のは傍目だけで。
 いつだったか、純平に言われたことがある。
 ――余裕ねぇな、と。
 見透かされたかと、みぞおちあたりが冷えた。純平は伊達に幼馴染みをしているわけではなく、那央のことを理解していた。それは楽でもあり、時にはキツイこともある。遠慮がない分、痛い時に痛い所を衝いてくるのだ。
 真意を伝えるわけにはいかない。そして純平の指摘は的を射ていたから、言い返せもしなかった。
 思わぬ展開で、終わりは唐突に訪れた。


[短編掲載中]