その日の那央は体調を崩し朝から気だるさと格闘していた。学校を休むほどではなく、どうにかこうにか放課後まで遣り過ごせた。
 高志に「今日はすぐ帰る」とメールで伝え、玄関に辿り着く前に担任に呼び止められた。しかもその後、教室に忘れ物をしていたことに気づき、道すがら不意に視線を送った隣のクラスに、人影を見つけた。常であれば気にも留めない日常風景に胸騒ぎを覚え、足止めを余議なくさせる。
「ほんとかよ、お前。そんな理由!?」
 素っ頓狂な声が響き、廊下にまで零れた。驚いてはいるが、面白がってる風だった。対する相手は落ち着き払った声色に、嘲笑を滲ませている。
「ああ」
 立ち聞きする気はなかった。けれど耳に届いた名前に、足を進めることができなかった。入口付近の壁にへばりつき、耳を澄ます。
 驚いている方の声は聞き慣れない男子生徒だったが、肯定した声は那央のよく知る人物だ。その声が、端的に吐き棄てた。
「純平の大切な幼馴染みを取ってやることで仕返ししてやったんだよ」
 悪意の籠もる、声だった。こんな声音を、那央は初めて聞いた。思い浮かぶ人物ではないと、必死に思い込もうとしていた。けれど続けられた言葉は、紛れも無くその人物のもので。
「同じ目に遭えばいい」
「澤樹那央を傷つけんの?」
「その方が、効果的だろ?」
 目の前がぐらりと歪んだ。信じ難かった。信じたくなかった。これが彼の本心だとは、例え目の前で言われたとしても、那央は信じないと叫んだかもしれない。
 どうしてここまで歪んでしまったのか。もっと然るべき時に、然るべき対応ができていたなら、こじれることは無かったのかもしれない。
 なんの為に、付き合ったのか判んないじゃない…!
 飛び込んで追及しようかと、よぎった。言葉が浮かばず、平静を保てる自信もなく、足が根をはったように動かない。心臓が痛いくらいに鼓動を刻み、泣かない自信が持てなかった。泣き出すのだけは、絶対に避けたかった。
 聞かなかったことにするわけじゃない。少し先延ばしにするだけだ。考える時間が必要だから。せめて、この震えが止まるまで。胸が、痛くなくなるまで。
 言い訳を充分なくらい自身にする。ゆっくりと足を後ろに引き、音を立てぬよう踵を返す。数メートル忍び足で遣り過ごして、一気に駆け出した。せり上がる感情で喉の奥が詰まり、目の奥が熱い。飛び出そうとする嗚咽を押し込めた。様々に浮かぶ正体不明の内情を振り切りたくて、走らずにはいられなかった。息が上がり呼吸がうまくできなくなっても、ひたすらに玄関を目指した。逃げたかった。振り返りもせず、玄関だけを目指し、廊下の交差する箇所を通り過ぎた時、名前を呼ばれた。
 走ってる勢いがあったのと、堪えきれず流した涙を見られたくなかったのとで、止まらずに、でも咄嗟に反応していた顔が、そちらへと向いていた。
 純平を認め、互いの瞳がかち合う。
 純平にしてみたら一瞬のことで、泣いていたことは気づいてないのかもしれない。だけど立ち止まってしまったら絶対に判ってしまうから、そのまま足を止めずに玄関を目指した。
 こんな顔、見られたくない。
「那央!」
 鋭い声が追い掛けてくる。振り切って振り向かず、走り続けた。誰とも話したくない。なのに、
 背中越しに届いた声に、足が勝手に動きを止めた。純平は那央を追わなかった。放ってもおかなかった。
 純平の怒号が向けられたのは、原因を作りだした張本人で。
 那央が振り返った時には、純平が高志に掴みかかっていくところだった。おそらく、那央を呼ぶ純平の声が高志にも聞こえたのだろう。慌てて廊下に出、純平と鉢合わせし、二人は同時に状況を悟った。
 高志は真意を聞かれてしまった事実を、純平は那央を泣かせたのが誰であるかを。
 ぼやける視界もそのままに、引き返していた。
 止めなければ。手遅れかもしれなくても、一抹の期待を棄て切れなかった。取り返しはつけられるのだと、この期に及んでも信じていたかった。望みを手放してしまいたくなかった。
「純平!駄目!!」
 背中にしがみ付くのと、高志が吹き飛ぶのは同時だった。廊下に叩きつけられた衝突音が、激しく響いた。
「那央になにした!?」
 殴られた箇所が赤くなる。口端が切れて血が滲んだ。高志は睨み上げ立ち上がり、純平の正面に立つ。
 どちらも譲らない。怯まない。悪いのは相手だと、詰り合うかのように。
「なにしたって、聞いてんだよ!!」
「純平!」
「黙ってろっ」
 勢いそのままに、那央にも激しい口調をぶつけてくる。そこまでの制御はつけられないのだろう。
 那央も、怯まなかった。引く気はない。
「杉野くん、ごめん!」
 煮え滾るが如く熱を帯びていた筈のその場の空気が、瞬時に凍った。
 ぎこちない動きで純平は振り返る。那央は高志を一直線に見つめていた。放った台詞は、間違いじゃないと訴える為に。
 純平は無言で問い掛ける。何故なのだ、と。泣いているのはお前だろう、と。
 高志も訳が判らず、那央を見つめ返していた。
 ぐいと乱暴に涙を拭い、二人を交互に見た。深呼吸する。
「あたし、告白を利用した」
 男二人は茫然と、それぞれの想いを抱えて、那央の独白を聞くしかなかった。乾いた笑いが出て、打ち消す勢いで続けた。
「それ自体は予想外だったけどね。告白を受けたのは…近づいて、機会探ってたんだ。あたしが好きだったのは、二人がつるんで笑っているところだったから」
 戻ってほしかったの。元通りになってほしかった。あたしが大好きだった二人に戻ってほしかった。小さく付け加えた。声が震えた。波及して、全身に広がる。二人の視線が突き刺さって、きつい。
 恋愛感情が無かったのは、お互いさまだった。こちらの目的はあくまで、純平と高志の関係修復で。
 一緒にいる時間が増えれば、時間をかければ、何とかできるんじゃないかと思い上がっていた。高志の真意を知って、ショックを受けている自分に、愕然とする。あまりの勝手さに、笑い話にもならない。
 息を低く長く吐き出す。震えを止めたかった。僅かな時間だけでも、平静な声が出せればよかった。俯き気味になっていた顔をついと上げ、断言した。
「あたしが、利用した」
 それだけが、精一杯。虚勢をはる限界。後を続けられず、身体は勝手に動き出す。二人に背を向け逃げ出していた。
 数秒と置かず追い掛けてくれたのは、純平だった。

 手を引かれて、歩いていた。いつもならバスに乗る道のりを、純平に手を引かれて、歩いていた。
 純平と手を繋ぐのなんて幼稚園以来で、くすぐったい感触と恥ずかしさに、可笑しくて声を押さえて笑っていたのだけれど。
 そのうち、悲しいだとか、悔しいだとか、結局、何も出来なかった不甲斐無さだとかが込み上げてきて    ――しゃくりあげていた。繋いだ手に力が込められて、涙腺は遠慮なく決壊した。いっぱいいっぱい、泣いた。
 俯いて手を引かれるままに歩く那央の一歩前をいく純平は、何も言わず、振り返らず、ただただ黙って引っ張っていた。
 手から伝わるぬくもりが、ひどく優しかった。



[短編掲載中]