意識が薄らぼんやりとしていた。思考回路がストップしていて、頭の中が濃霧に覆われている。昨日の今日で、何も考えられない。考えたくない。
 学校を休めばよかったと、後悔する。どちらの顔も見たくなかった。
 体育の授業中、機械的に指示通り身体を動かすのは出来たようで、校庭を三周する間ずっと、頭の中を巡るのは同じ光景だった。幻影ではなく、昨日の現実だ。
 他に考えるべきことがあるのにそれをしないというのなら、代わりにこれを見せようじゃないか、と誰かの陰謀かと疑いたくなるほど、しつこく繰り返された。
 嫌だ、見たくないと拒絶がひと際強烈に湧いて、その瞬間、那央の身体は重力に従い落ちた。

 ずしりと頭が重かった。保健の先生は不在で、付き添ってくれた保健委員の子の手を借りて、ベッドに潜り込んだ。顔半分まで布団を被った那央を心配顔が覗き込む。天井が霞んで見え、焦点が合わない。
 どうやら熱があったようで、油断すると天地が引っくり返りそうな感覚に見舞われる。こうして横になっても、ぐるりと廻りそうだ。目を開けているのも正直きつい。意識が呑まれる前に言葉を搾り出した。
「大丈夫だから…。戻っていいよ。次の授業始まっちゃった、ね。ごめん…」
 真っ赤になって苦しそうにしているクラスメイトを置いて授業に戻るというのは大いに気が引けるのだけれど、ここにいても自分に出来ることはない。一応係だから付き添ってはきたものの、クラスの中でそんなに仲がいいわけでもない。かえって自分がいても落ち着かないだろうという結論に達した経緯が明け透けに窺えた。
「…うん、じゃあ…」
 後ろ髪引かれる態で戻るねと言葉を残して、天井からぶら下がるカーテンをそっと閉めた。
 人の気配が遠ざかる。引き摺られるようにして、ゆっくりと目蓋をおろした。那央の意識も遠ざかりかけて、扉の開く音にかろうじて繋ぎとめられる。ちょうど誰かがきたらしい。ぼそぼそと交わされる言葉が子守唄の如く睡魔を誘うのだから結構な重症だ。
 短い遣り取りの後、扉の開閉音がした。廊下を進む足音はするのに、室内には依然人の気配がある。床材が鳴いて足音が近づく。カーテンが開かれ、すぐさま閉じられた。更に気配が近づく。
 うとうとと閉じかけていた目蓋はたぶん傍目には閉じている状態で、まともに働かない思考回路は途切れる寸前。目蓋を持ち上げる努力をするのさえ億劫だった。総てが面倒で誘われるままに眠りに入ろうとした。
 ベッドの端がたわむ。あわせて那央の頭も揺れた。ベッドサイドに近づいた誰かが躊躇うことなく枕元に腰掛けたのだと判る。保健の先生ではないことを明確に理解する理性はまだかろうじて残っていて、警戒心が沸く。相手を確かめようにも目蓋は思うようには動かない。悪戦苦闘する気力を起している隙に、溜息が落とされた。呆れたような、慈愛の感じられるような。
「お前ってさ、小さい頃はホントしょっちゅう、熱出して寝込んでたよな」
 弾かれたように目が開いた。那央を覗き込んでる表情は心配しているのとはほど遠いもの。常と変わらない、興を見つけた雰囲気に軽くかちんとくる。とはいえ、熱は相当出ているらしく、眠気は飛んでも脳内がぼやけているのは変わらずで。
「純平さぁ…、少しくらい心配した顔、出来ないわけ?」
「不満言えんなら平気だろ?」
「優しくない。なんでこんなのがモテるんだろ。みんな趣味悪いよね?」
「お前ね。喧嘩売ってんの?病人だからって容赦しないよ?」
 頭を置く側のベッドのパイプに片肘をつき、眺める視線で見下ろしている。
 瞳がかち合って、同時に噴き出した。とはいっても、那央のそれは空気が掠れて漏れる程度のものだった。
 純平はモテる。万人受けする容姿は元より、性格もいい。優しく、人当たりがいいのだ。無理偽りの性格ではなく、天然だった。傍にいることの多い那央はそれを知っている。それは彼の本質なのだと。
 けれど、幼馴染みである那央には言いたいことも、時には厳しいことも遠慮なく言ってくる。どちらかといえば手厳しい場面は多い。それは腐れ縁の成せる技というのか、他の人とはとかく接し方が違っていた。那央としては慣れたものだし、気に留めることもないのだけれど。
「弱ってる時くらい、優しくしてくれてもいいんじゃないの?」
「気が向いたらな」
「むかつく」
 だんだん遣り取りも辛くなってきて、再び眠りの淵に落ちそうになっていた。傍にいるのが純平なら妙な警戒心は不要だ。
「ね…、寝ていい?」
「おぉ寝ろ寝ろ。…な、薬とか飲んだのか?」
「そーいえば…。でもいいや。寝てれば治る…」
 身じろぎするのも面倒くさい。とにかく眠りたかった。
「ばかたれ。飲んでさっさと治せ。誰が送ってく羽目になると思ってんだよ」
「……誰も、純平には頼んでないし」
 口ではどう言おうが、ちゃんと送り届けてくれるのは判っていた。嫌そうにのたまっていても。
 純平はカーテンの隙間から上半身だけ外に出す。薬棚に手を伸ばし開けようとする。引っ掛かる音がするだけだった。案の定というべきか、鍵が掛かっているらしい。
「先生呼びに行ってんのか?」
「さっきの子?…んー、たぶん行ってない」
 純平が、呼んでこようか?と口を開く前に、ふっと笑声が漏れた。
「なんだよ」
 遮られた恰好で、怪訝そうな顔つきになっている。不意に思い出された幼い頃の記憶に思わず笑っていた。
「小さい頃の純平ってばさ、こうやって熱出して寝込んでるあたしのお見舞いに来ては『死んじゃヤダ』とか言って泣いてたなぁって」
「…な。う、うるせーよ。過ぎたことだろっ!つか、覚えてねぇ!」
 耳まで一気に熱が上昇し、純平はぷいと顔を背けた。さっきのお返しと言わんばかりに続ける。
「あの頃は素直で可愛かったのに」
「やかましい。可愛いとか、嬉しくねーわ」
「照れてんの?」
「黙れ」
 照れ隠しの為に那央のおでこを掌でベシッと叩く。
「純平の手、相変わらずヒンヤリしてる。…昔はお見舞いにくる度、おでこに手、あててくれたよね。あれ気持ちよかったなぁ…」
 緩やかに笑みを浮かべて、瞳を閉じた。体調が弱ってる所為なのか、普段なら絶対に言わない台詞もさらりと言えていた。
「お前、無防備だね」
 純平も口端を持ち上げると、今度は優しくおでこに手を置いた。ひんやりとした感触に、安心が降りてくる。つられるように目蓋も降りた。
「相手によるでしょ」
「よく言うよ。油断してっと、」
 おでこから移動した左手は頬にかかっていた髪をそっと払う。衣擦れの音がして、純平の温度が那央の顔にかかる。
「っな!?」
 柔らかな感触が降りてきて、おでこにかすかな熱を残した。
 目を閉じていてもそれがキスだと判って、慌てて見開いた。目一杯瞠目する。
 見下ろしている純平の顔は余裕そのもので、愉悦を含んでさえいた。混乱している那央を余所に、つらっと言い放つ。
「こうなるんだ。覚えとけ」


[短編掲載中]