失って、真理を知った。
 大切な人が、どれだけ大切だったかを、知った。当たり前なんてどこにも在りはしないのだと、知った。ずっと深いところに隠れていた、昔から存在していた己の想いが、彼と同じ類のものだったのだと、知った。
 堰を切って涙が流れた瞬間、押し寄せたのは後悔だった。怒りだった。切なく、遣る瀬無い想いだった。――負の感情だけだった。
 あの日を境に、ココは那央の生きる世界ではなくなってしまった。この世から見捨てられても、少しも心は痛まない。かろうじて、まだこの世に繋ぎ止めているのは、家族がどこにもいかせようとしないから。繋ぎ止めている糸があるとすればそれは、とても頼りない、細い細いもので。
 篤や両親が懸命に太く紡ごうとしても、受け止める那央にその気がないから、きっかけがあればいとも簡単に切れてしまう。どこにいても、自分の存在がここにあると感じられない毎日を、ただただ繰り返す。糸が切れても、後悔はしないだろう。むしろ、望んでさえいるのだ。
 潰されてもいいと、潰されてしまいたいと、願った。望んで、無意識の意志が那央を操った。手首にあてがった刃。攻撃的で神秘的なその輝きは、唯一自分を救える路だった。
 純平のもとへ逝きたかった。もう一度、逢いたかった。強く強く願った。
 その想いだけが那央を支配し、身体を操った。刃を手首にあてがい、虚ろな目がそれを眺めていた。刃物を持つ手を引くことは容易かった。実際、やってのけた。
 何でもいい。縋りたかった。逃げたかった。棄てたかった。衝動的で、意図的な振る舞いだった。
 逝くことだけが希望だった。なのに結果として充分なだけの力がこもらなかった。…土壇場で、躊躇った。そんなつもりは、無かった筈なのに。
 目覚めた時に映った周囲の涙でさえ、響かなかった。那央の心は、深く、暗く、凪いでいた。
 純平が来させないようにしたのか、まだ那央は生きている。




 侑希が澤樹家に来て一ヶ月が経過する頃には、あたりは一面真っ白な雪景色になっていた。
 今回もまた大会に出ると宣言している侑希は、ゲレンデへ足繁く通っている。今年こそ予選突破だ、と息巻いて。
 板を持って嬉々として出掛けていく侑希を見る度に、胸の奥が疼くのを感じた。気のせいだと誤魔化すのも難しいほどに主張は強さを増していく。
 ようやと少しずつ、侑希と言葉を交わすようになって、思っていた人物像とは違っていたことが判り掛けていた。
 ずうずうしくはなく、無神経に人のことを聞くわけでもなく、バカみたいに明るくはあるけど、騒々しいだけではなかった。人への気遣いが常に潜んでいる。他人の心の傷にまで、土足で踏み込むことはない。
 不躾なタイプだったなら、那央の態度は変わらなかっただろうし、純平のことを知っていて腫れ物に触るような態度でも変わらなかっただろう。
 長野での暮らしや、その時通っていた学校の友達のこと。一年前に事故で亡くなった両親のこと。冬になると毎日スノーボード浸けで、練習場であるパイプでは全国各地にボード仲間が出来たこと。札幌のエアー大会が楽しみで仕方なかったこと。どんなことを話す時も、目が生き生きとしていた。
 やりたいことがあって、それを自由にやりたいだけやれる環境があって、自分は幸せ者だと口にする。
 両親の死を受け止めるには時間がかかったけれど、運命だと受け入れられてから、こちらへ来る決心がついたのだと言う。
 侑希と接する度、那央は思う。自分とは正反対だ、と。同時に、想像する。時が流れ、いつか、純平の死を受け入れられる日がくるのだろうか。侑希のように、笑っていられる日がくるのだろうか。と。
 侑希はスノーボードがあったから、と言った。
 大好きなものにひたすら打ち込んで、最初の頃は、ボードに集中している間だけ忘れていられた。やがて、その時間は日常にも少しずつ浸透していき、緩やかに受け入れる体制が整ったのだと。
 自分はどうなの?そう、自問する。
 純平が生きていた頃、よく山へ行った。夢中だった。楽しかった。大好きだった。
 毎年ペンションにやってくるお客さんに教えたりもして、本当に楽しそうに滑るねって言われて。実際楽しくて仕方なかったし、滑ってる間は時間を忘れてしまうほどだった。
 けれど、それだけだった。
 純平がいない今、スノーボードなんて意味の無いものに変化した。自身を取り囲む世界の総てが一変したのだ。存在がなくなることで、ここまで自分の世界に影響が及ぶなんて、思いもしなかった。
「…お。…那央!」
 空白の頭で、じっと一点を見つめてソファに座っていた。一点といっても、確たる目標物があったわけではない。無意味に虚空を眺めている状態だ。
 母親の声に行方不明だった意識が那央の中へ還ってくる。放心状態の時、特に何かを考えているわけではない。単に、心がこの生きる世界から離れていってるだけ。幾度となく、どこかへ彷徨い飛んでいく。
 意識を戻される度、飛んでいったまま消滅してしまえば楽になれるだろうかと頭をもたげる。後ろ向きな思考は、支配力が強靭で。
「あ…なに?」
「紅茶。ここに置いておくわよ」
 テーブルに置かれたマグカップから真っ白な湯気がほんわかと立ち昇る。
 食事が終わった金曜の夜。さっきまでいた筈の宿泊客の姿は消えていた。室内には那央と母親しかいない。 
 侑希は夕食が済むといつものように、練習へと出掛けていった。昨日からの宿泊客と一緒だ。確か大学生で男性三人組。去年も来たのだと、話してるのは聞えていた。騒然と出掛けて行く後ろ姿を見て、去年の自分が重なった。あんな風に笑っていたのだろうか、なんて益体ないことをぼんやり思ったりもした。純平のことがなかったならあの中に入っていたんだろうか、とも。
「お風呂、入ってしまいなさいよ」
 時計を見てぎょっとする。ついさっき夕食が終わった筈なのに、実際はゆうに五時間が経過していた。
「これ、飲み終わったら、入る」
 ソファに沈み込みマグカップを口につけた。熱い液体が喉を滑り落ちていく。ゆらめく炎を視界に収めしばらくして、ようやと自分の中に存在する意識を自覚する。
 カップを手に立ち上がる。いったん部屋に戻ってお風呂の準備を、と身体の向きを変えたちょうど、ドアが開いた。侑希とはち合う。正面きって姿を検める対峙となってしまい、あげそうになった悲鳴をかろうじて飲み込んだ。
 上半身裸の肩にタオルを引っ掛け髪を拭きながら、那央の瞠目にきょとんとしていた。
「ゆっ…侑希!なんて格好してんのよっ!?」
 いきなりのことに動揺して上擦った声が出た。とたん侑希は興を見つけた幼児然とした顔つきになる。
「もしかして照れてんの?かーわいー」と揶揄口調。
 手近にあったクッションを力任せに投げつけた。あっさり受け止められて、ポンと投げ返される。クッションを受け取った時には、侑希はキッチンへと入っていくところだった。
 侑希の背中に、視線が釘付けとなった。息を呑み、更に、瞠目する。
 大きな創痕があった。鋭利なもので斬られたような痕。首の付根から腰にかかるまで、少し斜めに、一直線に伸びていた。
 名前を記入したペットボトルの水を冷蔵庫から取り出しキッチンから戻ってくる侑希の動きを、那央は微動だにせず凝視していた。硬直して、動けなかった。蓋を捻るや歩きながら一口飲んで、閃いたように立ち止まり方向転換する。ソファとは反対側の、壁の方へと足を向けた。
「今日一緒に行ったにーちゃん達が言ってたんだけどさ」
 話し掛けるとも独り言とも取れる音量で喋る。喋りながらも目線は壁一面に貼ってある写真に巡らせて、目当てを捜そうとしていた。
 壁に貼られた写真は、お客さんと撮ったりしているもので、数えきれないほどの枚数を重ねながら貼ってある。
 これだ、と言って捜し当てた写真を剥がし、目線は写真に置いたまま、那央の方へと向かってきた。真正面に立つと表を向けて見せた。
 去年の冬にゲレンデで撮ったものだった。数名のお客さんに混ざって、右端に、笑顔の那央がいる。
「那央ちゃん、スノボやってるんだってね。滑んないの?山はいー感じ。今度一緒に行こっ」
 無邪気な笑顔を晒しながらソファ越しに写真を手渡す。髪を拭きながらぐるっと廻って傍へとくる間も、侑希から目が離せなかった。腰を下ろし水を大きく掻き込んでから一息吐くと、能天気な顔が那央を見上げた。
「どーしたん?座らんの?」
 それをきっかけに、手にしていたクッションで侑希の頭をはたく。
「いーからなんか着てっ」
 ばか、と放ち自室へと逃げた。
 心臓が有り得ない速度で騒ぎ立てている。ずっと昔についたものだと、思う。古くともはっきりと残された傷痕。
 お兄は知ってるの?お父さん達は?
 あんなにも臆面なく出しているのだから、知ってると判断して間違いないのだろう。 
 侑希の過去に何があったのか。長野で両親を失った事故に、関係してるのだろうか。自分には教えなかった理由が存在するのか。聞いたら、教えてくれるだろうか。
 答えの出ない疑問を巡らせて、傷痕を思い出す度に跳ねる鼓動を押さえることも出来なかった。
 時間の感覚を失い、思考の泥濘から這い出した時には、空は白んできていた。


[短編掲載中]