翌日の授業中はずっと、上の空だった。
 先生が見えないフィルターの向こう側でとうとうと言葉を連ねている、というくらいの感覚で、気になるのは侑希の傷痕のことばかり。
 土曜日の今日、いつものように篤が帰ってくる。授業は昼までで、終了時刻に合わせて学校まで迎えにきてくれることになっていた。
 早朝を彩る朝日と対面した頃になってやっと、侑希のことを訊ねようと決意を固めた。
 昨夜見つけた、侑希の背中に残された過去の片鱗に、関心の水面が波立った。想像を巡らせ憶測するより、実直に問うべきだと結論づけた。直接本人に問うのは躊躇われ、篤に白羽の矢を立てると決めた。
 授業終了のチャイム毎に廊下へと出ていた。放課後が待ち遠しく落ち着かない。遅く感じる時間の流れに苛立つ自分を抑え授業を遣り過ごしていた。教室内にいるだけで気が伏せてしまいそうで、那央は休み時間の度に教室を抜け出していた。
 廊下の窓を開け放つと真冬の冷気が雪崩れ込んでくる。通りがかった数名が振り返り怪訝な顔を向けていく。いくら天気がよくても窓を開けるなんて正気じゃない、とでも言いたいのだろうか。那央は構わず、冷たさを肺に吸い込んだ。冴え冴えとする冷気に身体の芯が引締まる。肘を窓の縁に置き、掌を上にして外気に晒した。指先から少しずつ、気温が浸透していく。
 侵食する冷感を辿って視線を動かし、左手首で停止した。薄っすらと残されるだけになった切傷痕。いつか完全に消える。躊躇い傷すら、残せない。
 消えてしまう現実は、置き去りにされる感覚に酷似する。来るなと、拒絶される寂寞感。
 そっとなぞる。目蓋を下ろす。己の内側だけに意識を集中させれば、喧騒から切り離された空間へと入り込めた。闇が拡充する世界。孤独で、陰湿な、暗黒の淵。心地いい世界。
「澤樹、」
 二の足を踏む声の掛け方だった。那央にしてみれば唐突に現実に引き戻された状態で、身体がビクリと反応した。目を開け、首をよじる。相手を確認し、凝固した。
 時間という溝はあまりにも長く存在していて、混乱する。困惑を露骨に相手を見つめた。
「杉野くん…」
 対面するのも、言葉を交わすのも、あの時以来だった。同じ学校で同学年であればすれ違うことはある。あるが、それだけだ。避けることはあっても、接触することはない。隔たりは果てない。
 高志は逡巡していた。勢い任せだったのか、発すべき言葉を今更捜している。非難するつもりはないし、かといって、那央から発すべき言葉は見つからない。名前を呼び返すのが精一杯だ。まともに目を合わすのでさえ、躊躇われる。
 次の声が発せられるまでに少なく見積っても十数秒は要した。短い休憩時間の終了に追い立てられたか、高志は色を正した。
「久し振り、だな。…てか、あー…。あのさ、」
 可笑しなくらいのしどろもどろ具合に、強張っていた態を解く。自然口端に笑みが刻まれた。思わぬ助け舟に、高志も肩から力を抜いた。
「久し振りだね、ほんと」
 にわかに騒ぎ出していた心音も、自分のかすかな笑声に落ち着きを取り戻しつつあった。こんな風に対面する日がくるなど、想像もしていなかった。総て、終わったと思っていた。
「俺が言える立場じゃないことも、話し掛ける資格がないことも、判ってる。でもなんか、最近やっと、澤樹が還ってきてる気がして、衝動的に声掛けてた。びっくりしたろ?」
 純平のことがあって以来、芯が消滅していて、『澤樹那央』がいなくなっていて、人を寄せ付けない雰囲気があったと、高志は言った。
「魂が抜けてた?」
 冗談めかして那央は軽口を叩く。軽口が飛び出したことに驚いて、対して高志は困ったように顔を歪ませただけだった。
 表情の語るところが疑念をもたげる。もしかして――
「ずっと、気に掛けてくれてた?」
 見つめたまま、おおいに躊躇いがちに、高志は頷いた。それを自分の口から言うには、あまりにも見当違いだと言いたげでもあって。彼の根底は変わっていなかったのだと、安堵が込み上げる。
「俺、」
 言い掛けて、噤む。高志が本当に、衝動的に行動していたことの証明だ。内容未決のまま。落ち着いた面が多かった高志にしては、珍しい言動だった。
 さして気に留めていないと繕って、那央は首を傾げ先を促した。
「……後悔、してたんだ。ずっと、悔やんでた。幼稚だった。仕返しとか…自分勝手な理由捏ねて、澤樹を傷つけた」
「……」
「ごめん」
 深々と腰を折って頭を垂れる。
「ちょっ…。頭上げてっ」
 慌てて止めさせる。申し訳なさを全面に、ゆっくりと顔を上げた高志は、泣きそうにも見えた。
「ごめん。…俺、勇気出せなくて、依怙地にもなってて、二人に謝りたくて、なのに…純平があんなことになって…」
「…うん」
 目尻に滲む雫を、高志は乱暴に拭った。
「取り返しのつかないことが、悔しくて。許してほしかった。戻りたかった。…謝りたくて、でも、出来なくて。意地とか、なんで馬鹿みたいにしがみ付いていたのか…」
 取り留めもない羅列に、本心は見える。吐き出される感情任せの言は、心からの懺悔で。
「……うん…」
 那央は頷くことしかできなかった。
 後悔なら、吐いて棄てるほどしてきた。永久に続くだろう。枷となり、纏わり付く。縛り付ける。それでも構わないと思っていた。投げ遣りだと非難されようと、闇に囚われていようと。
「あたしはね、」
 続ける言葉を失い、俯いていた高志は顔を上げる。今にも咽びそうだ。
「あたし、もね…同じなんだ。純平の存在がどれだけ大きかったか、いなくなって…気づいた。遅すぎるんだよ、ね。なにもかも」
 ああしていたら、こうしていたら。考えたって正しい答えなんてなかった。
「…澤樹、変わったよな」
「え?」
「いや、戻ってきた、といった方が近いかな。兆しが見えたんだ。…見えた気がして、思わず声を掛けてた」
「兆し?」
「浮上の、兆し。本来の澤樹が還ってきた、兆候。…転校生の影響?」
 家の中、とりわけ澤樹家の両親が微妙に変化してきていることは、那央も感じていた。それを拒否するつもりも責めるつもりもない。自分に合わせて、引き摺り堕ちる必要はないのだ。そんなのは、一人で、充分だ。自分には関係のないことだとも、考えていたくらいで。
 那央もそうなのだと、高志は言う。純粋に、驚いた。無自覚だった。庄野もそれを、伝えようとしていたのだろうか。
「澤樹先輩!」
 緊迫した声が那央と高志の間に飛び込んだ。湿った空気が一気に霧散する。
 帰宅部の那央を先輩と呼ぶ人物に思い当たる節は無く、咄嗟には自分が呼ばれたのだと判断がつかなかった。声のした方向を見遣る。ただならぬ形相で数名が那央を一直線に見据えていた。バタバタと駆け寄ってきて、那央の正面にくるや、いきなり手をとった。
「えっ!?」
「すみません!一緒に来て下さいっ。水原がっ…」
 戸惑う那央に有無を言わさず引っ張っていく。呆気に取られたまま引き摺られ、状況説明を求める言葉は切迫した空気に飲み込むしかない。
 察するに、侑希と同じクラスなのだろう。体育着のまま駆けつけていた。ただならぬ雰囲気に、緊張が走った。
 御多分に洩れず、着いた先は保健室だった。前を走っていた子が扉を開け、続けて那央を引っ張る子が飛び込む。
 走りながらでは訊ねることも出来ず、早鐘のように鳴る鼓動に急きたてられた状態で、侑希と対面した。悪い方向にばかり思考が傾いでいた。当然といえば当然なのだが、当の本人はといえば、
「那央ちゃんっ」
 予想を大きく裏切って、呑気な声が返ってきた。脱力しそうになるのをかろうじて堪える。
 確かに侑希は治療中だった。肌が見えている部分のあちこちに擦り傷が見える。白い体育着を血で汚していた。発生源は、額だ。ガーゼが当てられるところだった。
「水原っ。お前大丈夫なんか?」
 那央を呼びにきた子が傍に寄り覗き込む。問われた方はといえば、きょとんとして、相手の切迫した表情を明るく退けた。
「へーキ、ヘーキ。大騒ぎするほどのもんでもないない。頭って少し切れただけでも、どあっと血ぃ出るからねー。びびった?」
 歌でも歌い出しそうな節回しだ。茶目っ気たっぷりにおどけている。
「んで、なに。那央ちゃん呼んできちゃったの?」大袈裟だなぁ、とでも続きそうな口振りだ。ひょこっと那央の方へと顔を向けると、そのままの言い回しで言う。「…ごめんね?」
 あまりに軽い語調だ。返す言葉を失った。
 那央は押し黙り、ここに辿り着くまでの自身の心境を思い返していた。思い返し、素直に認めるのは悔しくて、あえて真逆を自身の内側に唱えた。
 心配したわけじゃない。訳も判らず、連れてこられただけだ。心配する義理なんて、どこにあるというのか。
 強がりに似たそれも、侑希の反応には水泡に帰する。頭の片隅で何かが切れた音がした。
 ほぼ無意識に、歩み寄って、平手打ちを繰り出していた。周囲を囲む唖然とした視線が、那央の頬に突き刺さる。
 背中の傷痕を見てしまったという謂われの無い罪悪感だとか、血を見た瞬間に蘇ってしまう記憶だとか、綯い交ぜになる感情を一掃したかった。
 虚勢を張ろうと、自分自身を欺こうとして、失敗した。鼻の奥が痛い。目がじんじん痛い。
 即座に立ち去りたかったのに、願望に反して、ヘナヘナと座り込んでしまった。堅く唇を噛むことだけが唯一、涙を堪える堰となる。
 さっきまでの空気を微塵も残さず、侑希はしゃがんで目線を合わせた。表情を感情に支配されないようにと凌ぐ那央に、謝った。篤実に、心から。


[短編掲載中]