終業のチャイムと同時に教室を飛び出して、上履きを下駄箱に投げ入れる。全速力で帰路につこうと意気込んでいたのに、先回りして玄関で待っていた侑希にあえなく掴まってしまった。
「那央ちゃんっ、一緒に帰ろ!」
 いつでもご機嫌?と皮肉を飛ばしたくなるほど、侑希からは常に笑顔が絶えない。反面、背中の傷が何かを抱えている。その対極を思うと、普通に接してはいけない気がして、心がざらつく。保健室での出来事も相俟って、接し方が益々判らなくなってしまった。
「年下なんだから馴れなれしく呼ばないで。一人で帰ればいいでしょ」
 言ったそばから己の上乗せされた刺々しさに苦る。
「まだ怒ってる?」
 侑希にはこれまでと変わらないと受け取れるのか、さして頓着した様子はなかった。足早に通り過ぎていく那央の後を棄てられた仔犬みたいな顔でついてくる。侑希の言動が、くるくるとよく動く表情が、鼻につく。 説明できる理由はない。授業中ずっと、苛々していた所為かもしれない。だとすればこれは単なる八つ当たりだ。でも収まりがつかない。
「歳ったってイッコだけでしょ?それに、帰るとこ一緒なんだし。一緒に帰ろうよ。…あれ、そういえば今日って、篤さん来るんじゃなかったっけ?」
 口を開けばどツボに嵌まる予感しかしない。八つ当たりを続けない為にも丸無視が最善だ。そして真っ先に優先すべきは、篤に問いたい内容は侑希が一緒では叶わないという事実。
 ついてくる侑希に、振り払う仕草をして校門まで行く。いつもの場所に車を停めている篤を見つけた。まだこちらに気がついていない。このまま車に乗りこんだら話が出来ない。かといって、二人だけで話が出来るチャンスは今を逃したらいつになる?帰宅すれば余計難しくなるだけだ。
 迷っていると、校門を出た所で突然、侑希の真面目な声が背後から投げられた。
「彼を、解放してやんなよ」
 唐突すぎる言葉に、身体が強張る。背筋を冷たいものが撫で上げる。動けなくなる。
 ぎこちなく、鈍重に振り返ると、数歩離れて立ち止まってる侑希の射抜く双眸とかち合った。真摯な顔つきに、聞き直すことも、言い返すことも阻まれる。
「いつまでも那央ちゃんがそんな状態でいることが、彼の為になるとは思えないよ」
 彼…?
 心の中で問い返して、それが誰を指すのか容易く浮かんだ。が、感情はそれを拒んだ。触れられたくない部分。まだ、痛い。まだ、血を流している傷口だ。
 近づいてくる侑希が伸ばしてくる手を寸前でかわした。
「ほっといて」唸るように低く言い放つ。
 数秒の視線の交わし合いが無言で続き、侑希を置き去りに再び歩き出す。
 冷静を装いたくて冷徹に突き放した。心の中は目まぐるしく混雑している。心臓が壊れそうなくらいの盛大さで、高速に鼓動を刻んでいる。
 触れられたくない。ほっといてほしい。第一、何故侑希が知っている?
 知ったからといって、とやかく言われたくない。構われたくない。どんな気持ちでいるかなんて、判りもしない人間に。
 目の前で大切な人を失った。自分を庇った所為で、失ったのだ。
 今にも走り出しそうな歩速の那央に追いつくと、侑希は強引に引き止めにかかった。怯むことなく言葉をぶつけてくる。荒げる声音は初めて耳にした。
「那央ちゃんがこんなんじゃ、純平くんが心配してあっちにいけないだろ!?」
 心が痛い。悲鳴をあげている。壊れて、しまう…!!
 言われるまでもない。とっくに知っていた。
 いつまでも、永遠に、触れずにいくわけにはいかないことなのだと。頭の中で判っていても、理性が囁いていても、どうにもできない。できないから、こんなにも苦しい。
「こんなんってなに!?判った口、きかないでよ!」
 那央と侑希の周りを帰宅していく生徒が、チラチラと気にしながらも通り過ぎていった。周囲の目など関係なかった。喧嘩越しのまま、侑希をじっと睨みつけた。侑希は怯まない。淀みなく決定打を言い放つ。
「止まったままじゃないか。進もうとしてない」
 見据えられ、逸らしたくても、無理だった。侑希は間違ったことを言っていない。だからこそ、腹が立った。――目の前の相手にではなく、自分に。
「侑希みたいな人間に、あたしの気持ちなんて判んない!」
 放った瞬間だけ、大切なことを見落とした気がした。失念してはいけないことなのに、昂ぶった状態では掴めない。掴もうとすることも、即座に諦めた。自分の感情しか考えられず、声を荒げる。
「皆が自分みたいに幸せだと、公言出来ると思ってんの!?無関係な人にとやかく言われたくない!」
 叫ぶように声をぶつけるや身を翻す。もう、聞きたくなかった。何も言われたくなかった。抉られるのが、怖かった。
 少しも離れないうちに再び侑希に腕を掴まれ、走り出した足はあっさりと止められた。振り解けなかった。侑希の掴んだのは、純平が最期に触れた場所で。
 思考が弾ける。記憶が堰き止めようのない速度で鮮明に蘇る。感覚と共に。――永遠の別れの前の感覚。
 刹那、頭の中が真っ白になり、純平の笑顔が浮かんだ。真っ赤に染まる。笑顔が掻き消える。一秒一秒の光景が、まるで映画のフィルムを一コマずつ切り取って目の前に見せつけるように、事故を再現していく。
 時間が、巻き戻る。
「いっ…やぁ!放してっ!!」
 ほとんど反射的に手を払っていた。体中が震え、大きくバランスを崩し、那央の身体が傾いだ。のけぞる形で車道へと倒れていく。
 何も出来なかったのと、もう、何もしたくなかったのと。無気力が支配し、このままで構わないと、決断が下される。
 侑希の手は掴んでいた時と同じ格好のまま。道路へと倒れていく那央を見つめていた。
 スローモーションの時間軸で、ゆっくりゆっくり、時が流れる。――神経は凪いでいた。
 侑希を見つめ返す。視界の端に車影を捉える。
 焦ることもなく、むしろひどく冷静で、これで純平の元へ逝けるという、喜びにも似た感情だけが湧いていた。自分はまだ、それを望んでいたのかと、ほんの少し驚き、叶うのだと、満たされた気持ちになる。一瞬一秒がとても長い時間。ひどく遅い流れに、従順に従う。
 ブレーキの音に時間の速度は一気に戻る。目の前に影が現れた。腕を捕らえられ、侑希の立っている方向への引力が生じた。
 あっという間の出来事で、状況が掴めない。刹那の眩暈の後に見えたのは、自分自身の手の甲だった。アスファルトに両手をつき、膝や掌が擦れて熱かった。直後、鈍い衝突音。
 しゃがみ込んだ侑希が那央の肩を揺する。しきりに何かを言ってる。怒鳴るくらいの音量だと、開く唇の大きさから推察してぼんやりと思う。那央の耳には遠く、遥か彼方から聞こえてくる音だった。膜が張って、ぼやけてしか聞こえてこない。
 ひとつひとつを巻き戻して思い返していくうちに、自分を引っ張ったのが誰だったのか、純平と同じように助けたのが誰だったのか、思い出す。
 強い衝撃が落ちた。すりむいた手や膝の痛みも熱さも、消え去っていた。壊れかけのロボットが、錆びに負けないようにとぎこちなく動くが如く、もどかしいくらいの速度で振り向いた。
 そこにあったのは、予測はしていても絶対に信じたくない光景だった。へたり込んでいるのに、グラリと視界が歪んだ。
 全身が総毛立つ。悲鳴は詰まる喉に押し戻され掠れた呟きが落ちた。
「お、兄…?」
 数メートル先で、ぐったりと横たわっていた。
 ようやと正常に機能を戻した耳が、集まってきた人達の声を、足音を、次々に拾っていく。雑音でしかない音たち。篤の身体から真っ赤な血が流れ出て、容赦ない速度で範囲を広げている。自分の中の力という力が、総て抜け落ちていく。必死に抗い、立ち上がろうとした。巧くいかない。差し伸べられる侑希の手を無視し、篤を直視した。
 激しく震える足を叱咤して立たせる。走り出そうとして足がもつれた。地面に衝突する。すぐに立ち上がり、よろめきながらも篤の傍へと駆け寄った。
 血溜まりの中へ座り込む。篤に触ろうとして、侑希に止められた。動かしてはいけないと言ってるのをかろうじて理解して、出していた手を引っ込める。
 何度呼んだか判らない。何度呼んでも、篤はピクリとも動かなかった。変化があったとすれば、血の気が失せていく顔だけで。
 怖かった。…ただただ怖くて、仕方なかった。


[短編掲載中]