陽が沈みかけてる。病室の中は、夕日色に染まっていた。
 落ち着いた呼吸で眠る篤も、頭や腕に巻かれた包帯も、オレンジ色に染まっていた。
 今はかろうじて止まっているけれど、さっきまでの涙の所為でヒリヒリと痛む。ベッドの傍らに座り、祈る格好で指を堅く組んでいた。俯いて目蓋を閉じる。
「…お願い、純平。お兄を助けて」
 繰り返し、繰り返し。幾度口にしても、応える声はない。記憶の中の純平は笑うのに。笑いかけてくれるのに。
「お願…い」
 規則的に繰り返される呼吸。血色の戻った寝顔。診断した医者の言葉。安心してもいいという条件は揃っているのに、何ひとつ不安を拭う理由にはならなかった。
「目を、覚まして」
 お兄を、連れて行かないで。
 手も声も震えていた。ここへ着いた時も、救急車の中でも。事故の直後から、ずっと震えてる。不意に、測りしれない恐怖が、一度は去っていた筈の脅威が、襲う。ブラックホールに吸い込まれていくように、突き堕とされたように。
 お兄も、こんな思いをした…?
 左手首に残る痕。ここから流れ出た血を見た時、こんな風に、底知れない恐怖に襲われたのだろうか。    
 心臓に杭でも打ちつけられた衝撃ほどの痛みが衝き抜けた。
「ごめ、んなさい…」
 ごめんなさい。こんな思いをさせるつもりじゃなかった。ただ、自分のことしか考えてなくて。世界に一人ぼっちにされた気分だった。自分だけが辛いのだと、思っていた。篤があんな風に泣いたのを、那央は見たことがなかった。それでも、響かなかった。生きようとはしなかった。自分が生きているという価値が、篤にとって、家族にとって、どれだけ大きなモノかなんて、考えることすらなかった。
「……やだ、よ。大切な人をなくすなんて…二度と、やだ」
 声が湿る。握り締める手に、力がこもる。零れた涙がシーツに染みを作る。呼応するように、微かに反応があった。
「お兄っ…?」
 顔を上げて見遣ると、目蓋が動き、うっすらと開いた。弾かれたように立ち上がる。勢い余って椅子が倒れ、床に硬質な音が響いた。
 目蓋が完全に開いても定まらない焦点のまま天井を眺めているだけ。そっと呼びかける。手を掴む。ゆっくりと顔を傾け、那央を見た。
「お兄?判る?…お兄っ?」
 焦燥に駆られるままにせっつく。篤の手がゆっくりと握り返してきた。微かに微笑むとか細い声で、那央の名前を呼んだ。
 それが合図だった。呆気なく力が抜け落ち、膝から崩れ、床へ座り込む。硬質な冷感が足から除々に沁み入ってきた。溢れ出した涙を止められずにいると、篤の手が頭に触れ、平気だよと呟いた。喉で言葉がつっかえて、代わりに何度も頷いた。
 ありがとう、純平。連れていかないでくれて。本当に、ありがとう。

 廊下にいた侑希が入室していたことを、那央はしばらく経ってから気がついた。
 目が合って、良かった、と微笑む。素直に頷いた那央を見届けてから、おじさん達に知らせてくるよと病室を出て行った。
 侑希の姿が扉の向こうに消えるのを見送った篤は、落ち着き払った声で那央を呼んだ。篤と同じく戸口を見遣っていた那央は振り返り、唇を引き結んだ。さっきまでは困ったような優しい顔で、ベッドに横になっていた兄は真顔だった。声色は何かを決心した芯のある声で。
 上半身を起す篤を手伝う。背中に枕を差し入れ状態を整えた篤は那央の方を見ず、掛布団の上で組んだ指を見つめた。
「那央に、話しておきたいことがある」
 何分くらい経った後だろうか、それまで黙ったまま手を見ていた目を、那央に移して言った。神妙な、でもどこか寂しげな顔が対面する。数分の沈黙が破られたというのに、篤の沈んだ声は部屋の空気を軽くすることはなかった。押し黙り、言葉を探している。話し出すきっかけを作ってしまったことを、悔いているようにも映る。
「お兄?」
 警戒心が薄れたわけではなかった。再び沈黙が訪れるのを避けたかった。話の内容など想像もつかないけれど、きっと、那央の為に話そうとしてる。今までもずっと、そうだった。
 もう一度呼ぶ。さきほどよりも声が震えた。篤はそれで決心がつけられたか、僅かに吹っ切った表情で口を開いた。
「俺はさ、侑希を引き取るって話な、反対してたんだ」
 何故このタイミングで、と、思い浮かんだ疑問は喉から先に出せなかった。篤は無意味な話はしない。何よりも、目を見ていたら言えるわけがなかった。
「こっちへ来るまでに、俺が会うことは一度もなかったからな。いくら話では聞いていても、どんな奴か判ったもんじゃない。…今でも、よかったのかどうかなんて、判らない」
 静まり返った病室に、ゆっくりとした口調の、篤の声が響く。言葉の一語一句を確かめるように話す篤の目を、じっと見つめながら耳を傾けた。
 侑希の過去の、幼かった頃の話だった。うちへ来る前の、もっとずっと前のこと。
 侑希が産まれたのは、沖縄本島の西に位置する久米島という島だった。住んでいたのは六歳までで、その後は長野に移り住んだ。侑希は一年前に亡くなった夫婦の嫡男ではなかった。侑希を引き取って実の息子同様に育てたのは、侑希の父親の実兄。
 長野での暮らしは今の侑希を見れば判るように、幸せなものだったと想像できる。その暮らしの中で、侑希が受けた心の傷が癒されたかどうかは、誰にも知る術はなかった。
 身体の傷――那央が見た背中の傷と同様に、傷痕としてハッキリと穿たれているのかもしれない。
 島を離れる原因を耳にした瞬間、見えない錘が実体を伴って重く圧し掛かった気がした。震えが伝染して全身を侵蝕していった。耳を覆いたくなる。
「心…中?」
 聞き返さずにはいられなかった。声に出してなお、呟いた単語の意味を測りかねていた。単語として知っている言葉なのに、実際に起こるものとして捉えられない。自分に関わり無かった事柄だから、どこかで起こり得るものだと知っていても、自分には無関係なのだと無責任に意味を知っていただけだと知らしめられる。
 篤の目に迷いが生じた。話すべきではなかったのかという後悔が浮かんでいた。膝に置いていた手が拳を作り、制服のスカートをしわくちゃに握り締めた。
「続けて」
 掠れた声になった。頷いて、篤はゆっくりと深く呼吸した。
「……学校から帰った侑希が見つけた時にはすでに、父親は動かなくなっていたそうだ。傍らに立つ母親は、包丁を手にしていた。そして、侑希を斬りつけた。…そこで侑希は意識を失った」
 震える呼気を吐き出したのは篤だったのか、自分だったのか。
「目覚めた時には長野の病院だった。意識が戻るよりも先に、父親の兄夫婦が島から連れ出した」
 平坦な話し方は、声だけ聞いていたなら無感情に話す冷たい人間に思えただろう。だけど、篤の顔は今にも泣き出しそうで、心情は痛いほど伝わる。息苦しいほどに胸が締め付けられた。
 言葉が出ない。何も言えない。何も訊けない。――そして、思い出す。
 侑希に投げつけた言葉を。酷いことを言った。侑希も身近な人を亡くしているのは、忘れてはいけない事実だったのに。どれだけ傷つけたか測り知れない。
 篤から目を逸らし、握り締めた拳を睨み付けた。謝りたい気持ちが充満する。なのに、思い浮かぶのは侑希の明るい顔ばかりだった。
「那央…」
 篤の手が俯むいている頭に伸びてきて、宥めるように落ち着かせるように撫でていく。那央を気遣うその手は、震えていた。
「100%侑希の気持ちを判ってやれ、とは言わない。侑希の心の中は、侑希にしか判らない。言ってやれることがあるだろとか、慰めてやれとか、そんなことを言うつもりもない」
 うん、と頷いた。篤の言いたいことは、判った気がした。
 十年も前のこと。だからといって、忘れられることじゃない。忘れたくても、消せない記憶。
 那央の言葉を、侑希はどんな気持ちで受け止めたのだろう。誰よりも今の那央を理解できる人なのに。
 ごめんなさい、と心の中で呟いた。
 周りにいる、総ての人達に。そして、侑希に。

 医師の話を聞きに行っていた両親が、侑希と一緒に顔を出した。あんな話を聞いた後で、平常を繕うのは至難の技だった。それでも、いつも通りにしていなくてはと焦燥感が募る。那央の様子がおかしいことに誰も触れてこなかったのは、篤のフォローのおかげだった。
 父親が復唱した医師の説明で、怪我がたいしたことなかったと聞いて、侑希が深く安堵した顔をしたことに正直驚いた。演技なんかではなく本当に篤のことを心配していて、安心した顔だった。うちにきて数ヶ月の侑希が、そんな顔をするとは思ってもみなかった。でもすぐに、身近にいる人がいなくなることに、計り知れない恐怖心を抱いているのだと気がついた。
 もう二度と、そんな思いをしたくはないのだと。
 那央と同じ。侑希の抱える深い傷も、どうにも出来ない心の闇も、同じだった。
 父親が話し終える頃には面会時間はすでにオーバーしていて、両親は入院の手続きがあるからと、侑希と先に帰るよう言われた。残りたいとの願望は、宿泊客だけを残している状態の前に言い出せなかった。後ろ髪引かれるまま病院を出る。
 病院前のバス停で並んでベンチに座り、降り出した雪を眺めていた。外灯に照らされて、小さく光っている。音もなく降り注ぐ。
 いつもはうるさいくらいの侑希が黙っていた。とても静かに時間が流れている。以前は二人でいるのが苦手だったのに、平気だった。侑希の過去を聞いたからなのかもしれない。同情するとか仲間を見つけた気分とか、そんなんじゃなくて。本当の侑希を、ほんの少しだけ知ったから。無神経からの言葉じゃなかった。那央の為に言った言葉も、多くあったのではないかと、今なら思える。
 侑希の強さが、羨ましい。乗り越えられる強さが、必要なのかもしれない。
「平気?」
 あとどれくらいだろう、と時間確認の為に携帯を取り出したのと、侑希の声が重なった。一瞬の間が開き、侑希に視線を送って「なにが?」と返す。
「お兄のこと?」
 思い当たるのはそれしかない。
 事故直後のことは、あまり覚えていなかった。動かなくなった篤を見て、流れ出た血を見て、かなり取り乱していた筈で。自分の言ったことは記憶に無いし、その声が自分のものだったとも自覚がない。目の前がぐらぐら揺れてて、どこか暗い闇へと堕ちて行く感覚さえあった。
「篤さんは大丈夫だよ。見た目ほどひどくなくて、良かったよな」やんわりと否定する。同時に肯定した。「それもあるけど…」
 真意が汲めなくて、疑問符を浮かべ那央は見つめ返した。
 ひと息つき、ゆっくりとした口調が続けられる。
「那央ちゃんは平気?…思い出してない?」
 目を見開き、硬直する。
「……そう、思ったの?」
 掠れる声で侑希に問い返しながら、思い返していた。言う通りだった。だぶって見えていた。目の前で血を流していたのは篤なのに、純平が重なっていた。
「思い過ごしなら、いいんだけど」
「……う、ん…」
 どう返事をすべきか、判断がつかない。数秒の沈黙後、侑希は謝った。
「え…?」
「ごめんね。俺の…ここも、」
 侑希は自分の額を指差す。そしてもう一度謝る。
 目を逸らし、俯いて、小さくかぶりを振った。それ以降はバスが来るまで、互いに黙ったまま、雪を眺めていた。
 少しだけ、少しずつ、穏やかな気持ちが降り積もっていく。侑希がいてくれるからなのか、言葉のおかげだったのか、判然とはしないけれど。


[短編掲載中]