進まなければ、いけない。
 前を向いて、歩き出さなければ、いけない。
 立ち止まっては、いけない。
 時は流れているのだから…。


 篤が退院し、実家での自宅療養を経て札幌の日常へと戻る頃には、侑希はますますスノーボード浸けになっていた。話題を掘り返すこともなく、時間は着実に流れていく。
 毎年やってくる繁忙期もピークを迎えていて、ペンション澤樹は慌しさに追われていた。
 純平がいなくなってから上手に笑えなかったのが、少しずつではあるけれど、自然に笑顔が出るようになっていた。
 篤が入院した日、病院から帰宅した直後にカレンダーに丸印をつけた。日に一回以上は丸の中の数字を見つめることが日課となっていた。近づくにつれ、決心が強固なものになっていく。
 十二月二十五日、クリスマス。那央の誕生日。
 カレンダーを見つめる度、純平の言葉が蘇る。照れながら言う純平の声が鮮明に蘇る。
『また、来ような。来年も、その先も…』
 クリスマスイベントと称して十二月二十四日に深夜営業をしたスキー場に、去年初めて行った。日付が変わるとすぐに、おめでとうと言ってくれた。
 来年も来ようと、同じように過ごそうと、約束した。…その純平は、もういない。
 少しも死を受け入れることなく、無意味に時間は流れていた。感情が動いて、変わらなければいけないのかと芽生えても、やはり、動けないでいた。
 きっかけになるかもしれない。だから、スキー場へ行こうと決めた。
 自分の中で何かが、変えられるかもしれない。やっと、動き出せるのかもしれない。


◇◇◇


 十二月二十四日。
 二十三時をまわっているのに、ゲレンデは煌々とライトアップされ、普段のナイターより何倍も明るかった。まるで、これからの時間帯こそが本番ですよ、とでも言いたげな雰囲気が漂っている。クリスマスなだけあって、恋人達の姿が多い。一年前の記憶と見事にリンクする。
 ゲレンデの麓に位置する建物の二階にあるレストランの窓際に、那央は座っていた。両腕を組んでテーブルに乗せ、顔だけを外に向けている。楽しそうにしている人達が、笑顔でリフトへと乗っていく様子を漠然と眺めていた。
 決心が揺らがないままスキー場へ来たものの、あとはリフトに乗るだけなのに、並ぶ列にどうしても入っていくことができなかった。見えない力が、那央を縫い止めていた。
 怖気づいたつもりはなかった。むしろ果たすまでは帰らないと、強固な気持ちが宿っている。動けない原因が不明で不可解だった。
 ゲレンデから離れることはできなくて、こうして独りで座っている。迷いはない。それは確信を持って言えるのに。
 フロアに人影はなく、静寂が満ちていた。レストランの営業はとっくに終了時刻を迎えていて、従業員も帰った後だ。テーブルが並ぶエリアは照明がついているが、厨房は暗闇に閉ざされていた。休憩をとる人すらもいないのは、零時になると花火が打ち上がるので今のうちに滑っておこうとしてるのだろう。窓の向こうには楽しそうな笑顔も幸せそうな人達も溢れている。
 純粋に、羨ましく思う。一年前は、あの中に那央と純平もいたのだ。たった一年が、ひどく遠い。
 かつんと音がして手の中で玩んでいた携帯に視線を落とした。掌から零れたストラップのガラス玉が鈍く輝く。無意識に指が動き、メールセンター問い合わせをした。数秒後、着信無しの結果が表示された。純平からのメールはもう届かない。判っているのに。
 唇を噛み締め、胸の痛みが凪ぐのを待つ。不意に、記憶の引き出しが開け放たれた。純平の怪訝そうな横顔を思い出す。
『なんで奈央はいちいちRe:消すのよ?面倒臭くね?』
 携帯を何気なく手にしながら純平が言った台詞だ。
 数秒真剣に考えてみるも答えは特に無く、正直に返した。
『なんとなく、かな?』
 どうでもいいことを尋ねる態で言ったくせに、純平は返答が明確じゃないことが不満げだった。
『なんとなく、で手間かけんなよ』
『別にいいじゃん。たいした手間じゃないよ』
『まぁ、そうだけど』などと言いつつも眉を寄せている純平のメールには必ず、Subjectに「Re:」が入っていた。
『純平は消したことない?』
『無いな』あっさり即答。宙に目線を漂わせ、にんまりする。『――あった方が、ちゃんと見ましたよ、お返事ですよって意思表示になるんだって。繋がってる、って感じしねぇ?』
『うっわぁ……くっさ。しかもそれ間違いなくたった今思いついたでしょ』
 失礼なこと言うな、と笑い飛ばして、それからも互いにスタイルを変えることはなかった。
 画面を閉じ、今度は電話帳を引き出す。純平の名前を導き出し通話ボタンを押した。耳にあてる。応える筈のないことを承知していて、期待している自分は確実にいて。何度繰り返そうとも同じ結果。アナウンスが繰り返される。力無く手を下ろし、終了ボタンを押した。機械的な声が途切れ、静寂が取り巻いた。
 急速に孤独感に苛まれる。
 もう、純平から「Re:」付きのメールが届くことはない。――繋がっていない、ということ。
 当たり前に隣にいた、純平がいない。幼馴染みで、ずっと一緒で、何でも話し合えて判り合って。きっとこの先、あんな人とは出逢えない。
 純平はもう、いないのだ。
 ぱたぱたと、テーブルの上に水が落ちた。奥歯を強く噛み締め嗚咽を必死に押し留める。
 ここへ来れば何かが変わるかと期待した。結局はあと一歩が踏み出せなくなっただけだった。純平との楽しかったことばかりを思い出して、辛くなっただけ。
 誰もいないと知っていながら、泣いていることを見咎められたくなくて、テーブルへと突っ伏した。どうしようもなく寂しさが込み上げる。
 心が痛い。
「那央ちゃん、」
 躊躇いがちな声がした。言い淀んだのが空気で伝わる。声の主は浮かぶのに声音とは掛け離れた笑顔が思い出された。
 見つからないようにと家を抜け出してきた。誰もここにいることを知らない。ゲレンデへ行くと知ったら、きっと篤は反対した。純平の思い出から今は距離をとるべきだと、言い続けてきたのだ。思い出の濃い地へ赴くことをよしとする筈がない。
 兄の思いが判らないわけじゃない。同じ恐怖を味わった今となっては充分すぎるほど。
 忘れる為じゃない。那央が前に進む為に必要なのだ。ちゃんと思い出にできるように、離れる時間は必要だ。――純平を失って言われ続けた言の葉たち。
 兄の言う通りなのかもしれない。違うかもしれない。
 考える気力すら持っていなくて、自分がどこで生活しようと、生きることに意味を見出せずにきた。それが今、篤に怪我を負わせ、那央の中で衝撃が起きた。だから、ここにいる。
 再度名前を呼ばれて無言のまま顔を上げる。涙は止まっていたが泣いていた事実は隠しようもなく、侑希が痛い顔をする。
「…侑希。どうしてここが?」
 問いには答えない。向かいの席を指して座っていいかと尋ねる。数秒待っても返事が得られず是と勝手に解釈した侑希は静かに動いて向かいに着座した。那央の目を見据える。何か言いた気で、口にするのを迷っているように映る。
「お兄、来てる?」
 侑希は無言で首を横に振った。近くにいないことを判っていて、確かめておきたかった。
 無言の時間が流れた。実際はたぶん数分。間に落ちる空気は数十分にも思えるほど重い。リフトの前で動けなかった自分が今更ながらに腹立たしく苛々が浮上する。
「なんの用だったの」
 明らかに不機嫌な声になってしまう。普段の侑希らしくない雰囲気も鼻についていた。
 沈黙を破ったとたん向い合っているのが居心地悪く、腰を浮かしかけて手首を掴まれた。引力を加えられ、座り直す。口を開けばまた棘のある声を出してしまいそうで、目顔で同じ問い掛けをした。
 侑希がひと呼吸置いて静かに切り出したのは、過去の話だった。


[短編掲載中]