島での暮らしはどこにでもある、平凡な、それが幸せな暮らしだったと、懐かしそうな顔をする。小さい頃の記憶とはいえ、愛情を受けて育ったことはちゃんと感じていたと言う。侑希の纏う穏やかな空気が眩しかった。
 島を出るきっかけとなった悲惨な現実を話しているのに、情景を思い出さずに話せる筈がないというのに、時間が経っているとはいえ、こんな風に穏やかでいられるのが不思議でならない。
 学校から帰った侑希を待っていたものは、できるなら、消し去ってしまいたい光景。一生忘れることは出来ないと、付け足した。淡々と話す努力をしているだけで内心はそうじゃないのだと、伝わる。
 話を聞きながら、純平を思い出していた。血に染まっていく姿はおそらく侑希のそれと被る。灼き付いて離れない、記憶。
 胸のあたりがきりきりと痛む。喉に感情が込み上げた。
 侑希に対してなのか、純平に対してなのか。それとも両方か。
 長野で暮らして数年経った――少しだけ大人の年齢に差し掛かった頃、真実を聞かされた。頑なに伏せられてきた事実。
 何故心中しようとしたのか。何故、侑希だけが残ったのか。
 侑希の両親は連帯保証人となっていた。同じ島に住む多重債務者だった友人は姿を晦まし、請求は両親へと圧し掛かった。初めのうちは少しずつではあるけれど返していたものの、やがて利息ばかりが増えていき、追い詰められた結果選んだ道は、最悪のもの。
 土壇場で母親は躊躇い、気を失った侑希を置いて、逝ってしまった。
 親として、子供をそれ以上傷つけることが出来なかったのだと、義母は涙ながらに言ったという。
「本当のところは判らない。ただ、俺がこうして生きているのは、たぶんそういうことなんだろうって。…そう思えるようになるまで時間はかかったけどね。本当のことを聞くまでは、特にガキの頃なんかは、なんで両親が死んだのかだとか、そんな事ばかりを聞いてた。……随分二人を困らせたと思う」
 当時を思い出してか苦り、それからぱっと笑顔になる。照れ臭そうな。
「本当の息子みたいに育ててくれて、すげー感謝してんだ」
 親からの愛情を知っているのだと臆面無く明言した。今の侑希を作り出したのが、長野での暮らしによるものなのか、島での暮らしからのものなのか。本人にも判らないことなのだろう。
 明確なのは、惜しみなく注がれる愛情はまごうことなくあったということ。そして侑希には素直に受け取る器があった。
 強い人間なのだ。陰惨な過去を持っていても、自分以外の誰かに優しくすることができる。いつだって笑顔で周りを明るくさせる。泣いても僻んでも憤っても変えることの叶わない事実を胸に仕舞っているなどと、誰が想像するだろうか。表面だけを見るならば、つまづきもなく安穏と生きてきたのだと、侑希の性格は見せ掛ける。那央も容易く騙されたくちで。
 間違いを即座に認めざるを得ない。自分の間違った解釈を。
 侑希は強い人間だが、乗り越えられてはいない。一生、乗り越えられるものではないのだ。傷痍は未だ、癒えていない。
 過去を抱えながら、生きようとしている。前を向いて。――膜を突き破り本来在るべき世界に戻って。
「長野の両親が事故で亡くなって、那央ちゃんの両親が一緒に暮らさないかと誘ってくれた。…だけど、長野には愛着もあったし、世話になった両親との思い出もある。なにより、長野を離れるのはなんの恩返しもできなかった両親に申し訳ない気がして。ずっと断わっていたんだ」
 侑希の顔が、大人びて見えた。いったん口を噤んで再び静寂が舞い降りる。フロアには他に誰もいない。
 花火を見る為に外へ出ている人達の明るい雰囲気は別世界のものだった。侑希はあちら側に戻った人間なのだと距離を感じる。
「産まれ育った場所に行って、んで、こっちへ来ようと決めたんだ」
「……島へ、行ったの?」
 聞き返した声はあまりにも訝しげになって、侑希は頷いて笑った。優しい顔だった。
「きっかけは写真だった」
「写真?」
「うん。家の中を片付けてた時に、兄弟で撮ったやつが出てきたんだ。島で撮られたもので、母さん達も写ってた。仲が良かったってのがハッキリ伝わるくらいでさ」
 侑希は財布から一枚の写真を取り出して寄越した。幸せに溢れた笑顔の四人が写っている。
「行ってみたら、なにかが変わるかもって、期待した。事件以来一度も行ったことがなかった島へ、帰ったんだ」
 十年経っても、変わらない風景がそこにあった。
 住んでいた家は取り壊されて空き地になっていたけれど、島は以前と変わらない顔で侑希を迎え入れた。思い出すのは楽しかった頃の、優しい両親との記憶だけ。大好きだった家族のことだけだった。
 自分の生きる場所がどこにあろうと、自分が自分であることに変わりはない。思い出がそう囁いた気がしたと、那央の目を見つめて言った。
 答えを見つけた者の目だった。
「それにさ、」侑希ははにかむ。「本音を言えば、パウダースノーで思う存分スノボが出来るってのはかなり魅力だったし」いつもの侑希らしい口調を付け足す。
 それからこれ、と言ってポケットから取り出したのは、背中の傷を知った日に壁から剥がした写真だった。
「まだ持ってたの?」呆れた声が出た。
 へへへと笑って頷く。「実はさ、那央ちゃんは覚えてないと思うけど、この写真、俺がシャッター押したんだよね」
 聞き返す前に先を続けられた。
「長野で家族を亡くした後からずっと那央ちゃんの両親は俺を呼んでくれてて、首を縦に振らない俺に一度遊びにきなさいって招待してくれたんだ」
「うちに宿泊した?」
 コクリと無邪気に頷いた侑希を見つめ、記憶の引き出しを片っ端から開けていく。可笑しそうに肩を竦めて、侑希は続けた。
「那央ちゃんには沢山の中の一人だから、覚えてなくても当然だよ。で、一緒にゲレンデに行った帰りの時に、写真を撮ろうとしてた那央ちゃんを、お客さんの方に入れて俺が撮ったの」
「あ、」
 じんわりと光景が思い浮かぶ。侑希だったと断言できるほど明瞭にはいかなくても、そんなことがあったかも、という程度には。
 思い出してもらえたのが嬉しいといった風に侑希は笑った。ちょっと嘘ついちったけどご愛嬌ってことで、と写真を持ち出した時に人聞きした風を装ったことを謝る。
「那央ちゃん、ほんといい表情してるよ」
 写真をまじまじと眺めて独り言のように呟く。取り戻してほしいんだ、と聞えるかどうかくらいの音量で付け足しながら。そしてすぐに照れ笑いを見せた。
 侑希がニセコへきてから篤に話を聞くまで、侑希の表面しか見てなかった。明るいところだけを見て、本当の彼を知ろうともしないで、人物像を勝手に決め付けた。勝手に腹を立てていた。
 いつでも笑顔でいられる侑希と正反対な自分に、もがくことすら出来なかった自分に。
 侑希の強さを感じ、妬んでいたのかもしれない。必死の上に成り立った『強さ』だとも気づかずに。
 自分の気持ちを理解できないだなんて、どうして帰結したのだろう。侑希は大切な人を、両親を、二度も失ったというのに。
 侑希が口を閉ざす。しん、と静まり返る。外の喧騒はいつの間にか無くなっていた。みんなリフトに乗ってしまったのかもしれない。
 ――那央。
 不意に聞えた声に、耳を疑う。凝固し、息を呑んだ。遠くからのようで、すぐ近くで囁かれているような。
 確かなのは、目の前にいる侑希のものではなく、痛切に逢いたい願う人の声。間違えるべくもない。
 派手に椅子を鳴らし立ち上がる。目まぐるしく周囲を見回した。誰もいない。自分と侑希以外に、人の姿はない。冷静であれば容易くつけられる単純な判断ができずにいた。
 侑希は驚いた表情で見上げていた。涙腺が弛まぬよう鼻の付け根に力を込める。
 空耳でもなんでも。
 強張りを弛緩させ、深く空気を吸い、息を止めた。そろそろと吐き出して、吐き切る頃には不思議と気持ちが落ち着いていた。
 本当の意味で、決心がつけられた気がした。
 座ったまま那央を見上げている侑希に「行ってくる」宣言をする。侑希から言葉が返ってくるよりも先に歩き出していた。


[短編掲載中]