数刻前に動けなくなったのと同じ場所に立つ。先に進めんとする見えない境界線は消滅していた。
 規則正しく斜面を上がっていくリフトを見つめ深呼吸した。鼻腔を通過した冷気が身体の芯をしゃんとさせる。気持ちが先とはまるで違う。
 唇を引き結び、雪を踏みしめ進む。淀むことなくリフトに座れた。と、後から追い掛けてきた侑希が滑り込みで同じリフトに乗り込んだ。シートの端に座られ、バランスをとるのに那央も逆側の端に寄ったところでバーが降りた。
 鉄柱を通過する度に起こる振動に身を委ね、吐く息は白く霧散する。風が耳を掠め、その中に声を捜す。
 純平が呼んでる。そう、聞えた。――約束だから。一緒に来ようと言った純平は、もういないけれど。
 コースを滑る人影は数えるほどしかいなかった。山の上か下かで冬の花火を待っているのだろう。レストランを出ると人だかりが出来ていた。どの顔も幸せそうな笑顔だった。
 互いに黙然としたまま頂上へと運ばれて、リフト終点の建物から雪面を滑り抜けた時、燦爛たる採光があたりを照らした。同時に、咲く音が地響きが如く鳴る。
 天を仰ぐ。次々と咲いて消えていく花火を、からっぽの頭で眺めた。
 冬の花火。純平の横顔。嬉々として無邪気な笑顔が、様々な色に染まった。
 優しい記憶が溢れ出す。そっと目蓋を降ろした。目に映るのは現実だけだから、この刹那だけでも、少しだけでいいから、浸っていたかった。
 終盤に差し掛かり、最後の盛り上がりを見せる連続花火に混ざって、着信音が聞えてきた。内ポケットが振動する。取り出した携帯電話のサブウインドウに知らない番号が表示された。通話ボタンを押すと、機械的な口調のアナウンスが流れた。
「こちらはメッセージサービスです。お預りしていますメッセージを、ご指定の日時にお届けしています」
 花火の音と歓声に紛れて巧く聞き取れない。雑音の混ざるアナウンスが終わると電子音が続いた。直後、メッセージが流れ出す。――耳に届く声に、時が止まる。
 煩わしかった花火の音は瞬時に掻き消え、電話から聞えてくる声だけを拾う。
 純平。声に出さずに呟いた。
 かの有名な誕生祝の歌。一年前のこの日、このスキー場のリフトに乗っていた時に、唄ってくれた。不器用に懸命に、おおいに照れながら。
 心が、軋む。切なく締め付けられる。
 歌が終わるとひと呼吸分の間。
『誕生日おめでとう、那央。ついでにメリークリスマス!今俺は、隣にいるか?』
 冗談めかして、照れ笑い。生き生きとした明るい声。懐かしい、純平の声。
 電話の向こうにいるのではないかと、錯覚してしまいそうになる。
『俺、たぶん、那央が嫌がんない限り、傍にいる。面白いもんだよな、小さい頃からずっと一緒にいるのに、いつの間にか那央は俺にとって、幼馴染み以上の大切な存在になってた』
 今この瞬間に隣にいたら、純平はどんな顔をしていただろう。きっと真っ赤になって、背中を向けているに違いない。
 けれど隣にはいなくて、どこにもいなくて、それが現実で、目の奥が熱くなる。
『あの日、俺の気持ちを知っても那央の態度は変わんなくて、今まで通りの距離はすっげー心地良かったし、このままでもいいかって考えたりもしたけど、やっぱ…』
 柔らかく綴られる声。携帯を握り締める手が震えた。
『俺のもんだって公言したくなった。……傍に、いさせてほしい』
 誕生日に言うよ、の約束。
 純平が最期の日に言おうとしていたことは、このことだったのだろうか。
 花火の音が鳴り止んで、純平も喋らない刹那に、静寂が落ちた。
 電話が切れるわけでもなく、電子音やアナウンスが入るわけでもない。耳から離そうとした時、軽い咳払いが聞えてきた。慌てて携帯をあて直す。次を躊躇っているのが判った。
 じっと待つ。それ以外にできることなどなかった。
『…あー、えっと。…好きだよ、那央』
 面映さに染め上がった純平の顔が浮ぶ。耳まで真っ赤だ。
 そしてまた、少し間があく。名残を残しつつも、落ち着きを取り戻した声が聞えてきた。
『まぁ、とりあえず。これからも宜しく、ってことで』
 じゃあ、と言って、メッセージの終わりを告げる電子音が鳴った。
 涙が頬を伝う。幾筋も、幾筋も。
 純平からのメッセージが、じんわりと心に沁み込んでいく。あたたかく、素直に嬉しい。そして、ひどく残酷な。声だけ残されるなんて。
 純平がいてくれる以上に、生きていてくれる以上に、願うことなど有りはしないのに。
 保存するなら一番を、消去するには二番を…と繰り返されるアナウンスが、電話から洩れていた。かすかに聞こえてはいたけれど、力の抜けた腕は携帯を持ったまま身体の脇に垂れ下がる。
 花火の余韻から戻った侑希が振り返って、那央を見て、半分笑顔のまま瞠目した。携帯からの音に気がついて、那央から取り上げる。メッセージを聞き直す。侑希は厳しい顔つきを隠そうともしなかった。
「こんなん残していたら駄目だ」
 憤りを最小限に抑え呟く。木偶の坊と化していた那央からの反応が得られないことに苛立ちが上乗せされたのか、携帯を目線の高さまで持ち上げ、見えるようにして二番へと指を動かした。
 引っ叩かれたように動き出し、那央は飛び掛かっていた。
「やめてっ!返して!!」
 思い切り伸ばした手は身長差に阻まれ掴めない。高く持ち上げられた携帯からは抑揚なくアナウンスが繰り返されている。
「消さないで!返して、侑希っ」
「那央ちゃんは独りじゃない」
「そんなのっ…」知っている。
「過去には戻れないんだ」
「そんな、のっ…。判ってる…」それでも、
「必要ないだろ!?想い出に縋ってちゃ駄目だ!進まなきゃ駄目なんだっ」
「…っ!聞きたくない!!」
 涙声を張り上げて、侑希の胸を拳で叩いていた。形振り構っていられなかった。
 睨み据えた先の、侑希の表情が愁嘆に染まるのを目の当たりにし、那央は言葉を失った。直視出来ず、手はしっかりと侑希のジャケットと掴んだまま、上半身を折った。
 雫が雪面にいびつな模様を描いていく。
「……お願い…」
 膝から崩れ落ち、両手で顔を覆う。
「ごめん」声が降る。「俺は、もう誰も、消えてほしくない」
 優しく柔らかい想い出は、時に人を闇へと誘引する。那央は一度、その淵に行っているのだ。ひどく甘くあたたかな誘惑に抗うことは困難だった。
 記憶を棄てきれない。縋ることも、時には必要だ。
 ピッと操作音が聞え、機械的なアナウンスが保存を告げた。傍にしゃがんだ気配があって、もう一度ごめんと言う。手を取られ、携帯が乗せられる。
「なん、で?…最期の声なのに。どうして、こんなひどい…」
 侑希を睨ねつける。那央に対峙するのは真剣で、悲しい感情。
「侑希なんて大っ嫌い!」
 全身から絞り出し叫ぶ。立ち上がりざまに被っていた帽子を力一杯投げつけた。後退り距離をとる。深く吐き出し呼吸を整えた。
「もう、構わないで。侑希には関係ない」
 季節に負けないほどに冷たい声で低く呻くような声で突き放す言い方を。
 凍てついた顔から視線を剥がし手早くブーツを装着すると、携帯を握り締めたまま滑り出した。呼び止める声を振り切る。止まる気は皆無で、涙でぼやけた視界にも構わずに、一気に下まで滑り下りた。


[短編掲載中]