建物の前にできていた人だかりは、すでにまばらになっていた。帰って行く後ろ姿がパラパラと見えるのみで、那央を気に留める者もいない。
 板からブーツを外し、握り締めていた携帯を見える位置まで持ち上げた。純平の声が聞きたかった。ふたつ折りの携帯を開け、そこにある筈のストラップが、無いことに気づく。
「う、そ…」
 レストランにいた時はちゃんとついていた。リフトに乗る直前に携帯をポケットに入れて。まだ、ついていた。その後は。メッセージを聞いた時はどうだった?
 時を巻き戻し記憶を探るも、いつ失くしたかなんて思い当たらない。足元を捜しても、見当たらない。滑ってる間に落としたか、上で取り上げられた時か。
 動揺が全身を駆け巡る。焦燥が募る。泣きそうになって、堪える。泣いてる場合じゃない。必死に頭を回転させようとすればするほど、混乱の波が押し寄せた。
 大切なものなのに。まさか落とすなんて。
 名前を呼ばれた。ぐるぐる廻っていた思考が弾けて、真っ白になる。茫然と声の方を向く。侑希が駈け寄ってくるところだった。
「悪気があったわけじゃないんだ。俺っ…!」
 侑希には目もくれず、板を置き去りに滑ってきたばかりのコースへと引き返す。意識が白濁する。支配するのは、ひとつのことだけ。
「那央ちゃん!?」
 走り出した那央の腕を掴んで止める。容赦ない躊躇いのなさで振り解いていた。
「うるさい。ほっといて」
 ほとんど怒鳴っていた。声音を選んでる余裕はない。
 雪が降り出していた。急がないと見つけられなくなってしまう。埋もれてしまったら、アウトだ。
 失くしてしまうなんて、二度と戻らないなんて、絶対に嫌だ。
「どこ行く気!?」
 なおも侑希は食い下がる。再び掴んだ腕を放すものかと気迫が漲っていた。
 花火が終わり、リフトも止まった。イベント用に増設されたライトも消された。通常ナイターで使用されている照明も落ち暗転したゲレンデは、月に照らされる雪明かりだけでどうにか見える状態だった。
 今行かなければ、今見つけなければ、一生還ってこない。
「行かせて。お願い。大切なものを失くしたの」
 懇願の響きに侑希の手が弛んだ。そうっと二、三歩離れると、踵を返して歩き出した。

 滑り下りたコースを丹念になぞらえ辿る。足取りはいっそ鈍重だった。見逃すものかと目を皿に、加えてゲレンデ登山は無情なくらい歩きにくい。雪に足をとらればかりだ。斜面に入ってほどなく息があがり、ますます速度は遅くなった。意志の深さだけが前に進ませる。頼りは他に無い。
 三分の一くらいに差し掛かった頃、那央とはリズムの異なる足音がした。半身で振り返り目を眇める。薄暗闇の中に光源が揺れていた。相当に距離を詰められて初めて姿を認めた。走ってきたのは懐中電灯を持った侑希だ。
 到着を待たずして歩き出した那央に追いすがり肩を並べた。完全に息が上がっている。
「懐中電灯を捜してたら遅くなった。はい、これ」
 整いきらない呼吸のまま懐中電灯を手渡して、再び捜し物を尋ねてくる。かぶりを振るだけで黙したのを返事としたか、侑希は重ねて問わない代わりに、付き添いの許可を勝手に取り付けた。
 以降の那央は同行者の存在を無視する態でいた。視線は足元を彷徨うだけだ。懐中電灯は受け取るくせに。心配してくれていると伝わるくせに。来てくれて、同行してくれて、実は心細かったのだと知らしめられてしまったくせに。
 最低な態度だと自覚はしていた。していたが、他に廻せる気がないのも事実だった。集中力を切らしてしまうのが怖かった。
 侑希も無言のままで、数歩後ろを同じ歩調でついてきながら、那央の足元を照らしていてくれた。
 目に見えて降雪量を増やしていく天を時折憎らしげに睨む。お願いだから。胸の内で願う。お願いだから、覆い隠してしまわないで。
 手が震えた。抑えようもないほどに。雪面の光がさざめき揺れる。不安が突き上げる毎にぶれが大きくなる。寒さの所為にして笑い飛ばしてしまえれば、少しくらい気持ちは軽くなれるだろうか。動揺を鎮めることができるのだろうか。
 焦るな。落ち着け。必ずある。必ず、見つける。大丈夫。純平が助けてくれる。いつだって助けてくれたのだから。いつだって近くにいて、
「……っ」
 慌てて口元を覆った。慌てた所為で、懐中電灯を持った手を使ってしまい、光があさっての方角に飛んでからしまったと苦る。不意に消えた足元の光源から顔を上げた侑希の気配が那央を見つめた。
 折れそうになる気持ちを保つのが精一杯で取り繕うのは不可能で。
 ――お願いだからこれ以上、取り上げないで。
「那央ちゃん。引き返そう。明るくなってからまた捜そうよ」
 前を見たまま大袈裟なくらい首を横に振った。声を出したら、泣きそうになっているのがバレる。柔和な声音で傾いでしまいたくなることを言わないで。明朝まで待てるわけがない。このまま雪が降り続けたら、見つけられなくなる。
 ここにくるまで一体どれだけの時間が過ぎているというのか。己の弱さに手折られてる暇などないのだ。営業が開始されるまでに見つけなければ永遠に戻ってこない。
 足を踏み出す。止めない。この手に戻るまでは止まれない。
 頑なな態度に侑希が小さく息を吐いた。呆れてるでも馬鹿にしてるでもない、慈愛の込められた吐息だった。
「りょーかい。最後まで付き合うよ」

 リフトの折り返し地点を視界に捉える。あと数メートルという位置だ。どれだけ目を凝らしても、丁寧になぞっても見つからなかった。ここにきて溜息が零れ、気持ちが引き摺られた。弱気になった途端、足が重くなり、辿り着くのが怖くなる。あそこでも見つからなかったら?――そんなの、
 侑希は唐突に立ち竦んだ那央の横に並んだ。
「大丈夫?」
 駄目。優しくしないで。
 懇願は声にもならなかった。視界が滲みそうになる。必死に挫けるなと叱咤する。
「平気」
 素っ気無い声が出た。それ以上は続けられない。続けたら絶対進めなくなる。見つかると信じて。信じていないと、萎れてしまうだけだ。
 体力的にはとうに限界だった。気力だけが那央を動かす力だった。だからここで折れられない。
 平らな地に足を踏み入れた。視線を細部にまで巡らせる。曲げ続けた腰が悲鳴を上げても目線の高度を上げる気はなかった。自分が動いた範囲は限られている。目を凝らす。無い。雪の表面を攫う。無い。範囲を広げ隈なく捜す。無い。片鱗さえ窺えない。
 見落とした?雪に深く埋もれた?誰かに拾われた?可能性をいくら思いついたところでどうにかなるわけでなく。
 雪は止んでいて、空は白み始めていた。
 見つからない。
 身体のの中心を現実が貫き、力という力が抜け落ちた。へたり込むと、完全に動けなくなる。足が痛い以上に、心が締め付けられて、痛かった。
「ごめん。…ごめん、純平」
 消え入りそうな、掠れた声が出る。両手で顔を覆い、しゃくりあげそうになるのを奥歯を噛み締め抑え込む。失くしてしまった。大切なものを、また。
 二度と戻らないものが増えてしまった。


[短編掲載中]