あの時から君は、いつでも傍にいてくれた。
 いつかは別れがくると知っていても、気づかないふりをして、同じ時を過ごしてきたね。
 大好きだったよ。
 君は、あたしの隣にいて、幸せだった――?


 道端で、知らない人間に手首を掴まれたらどうするか。
 振り解いて逃げる。それが不可能な場合、大声で叫ぶ。
 あまりにも唐突すぎて、頭の中で答えが弾き出されても、行動に移せるまでには至りそうもない。
 真剣な眼差しを向けられ、視線を剥がすことも躊躇われた。
「あ、の…」
 ようやと花音の口から転がり出たのは、躊躇いがちな戸惑いだけで。
 足止めを余儀なくされて、たじろいだまま見つめ返しても、相手は無言のまま。道を尋ねるだの人を捜してるだの、何らかのことを口にしてくれたなら、花音としても対応のしようもあるのだけれど。千歩譲って、いきなり捕縛されたことは不問にするとして。
 それすらも無ければ、どうしていいのか全く判らない。
 花音の目線は少年の顔に置いてある。おそらく自分よりはいくつか年下であろう幼さがあった。
 ぼんやりと歩いていたからだろうか。何にも興味を示さず、上の空で歩いていたから?
 だからこんな風に、奇妙な状況に置かれてしまったというのだろうか。神様の悪戯なのかと過ぎれば、急速に泣きたくなった。
 記憶が呼び起こされ、目の奥が熱くなる。心を千切るほどの痛みが、身体の中心を貫いていく。

 数日ぶりに美大の講義に出席した今日、総てのことにおいて全く集中しないままに帰る時間を迎えた。
 男友達である久保山が気を遣ってくれて、講義終了後に友人数名とカラオケに行くことになっていた。そこへ向かっている途中だったのだが、正直、全く気乗りしていなかった。
 喧騒にざわめく歩道の上、花音は錆びついたロボットよりも鈍重な足取りだった。
 集まっている友人達が、元気づけようとしてくれてるのは判る。厚意は本当に有り難い。けれど、いつも通りに騒げる気分ではなかった。
 それが判っていての、あえての誘いだと判っているけれど。
 やっぱり帰ろうかと独りごちた声は、雑踏に紛れて消え去った。普段通りにできる自信など、皆無。
 あんなにも望んで入学した美大で、こんなにも休んだのは初めてだった。講義に身が入らなかったのも、初めてだった。やる気なんて、無くしていた。意識が今も、心の中には、無い。
 講義の直後教諭に呼び出され、友人達には先に行くようにお願いした。渡されたのは、休んでいた分の溜まりに溜まった課題。結局たいした時間はとられず、花音は一人で集合場所に向かうことになった。
 携帯電話を取り出し、メール作成画面を開く。目の前に迫る交差点を渡れば、皆が待つカラオケボックスはすぐだ。帰ろうかと声にしてしまっては、気持ちはそちらの方角に傾くばかり。ますます歩みは遅くなっていた。
 渡ろうとしていた横断歩道の信号が点滅を開始し、急いで渡るべきかこのまま止まってしまおうか、最後の選択を己の内側に問い掛けた。結論を待たず、機械的に動く足がアスファルトを踏みしめ身体を前に運んでいる最中、唐突に手首を掴まれた。空気を吸い込むような短い悲鳴を上げ、瞠目したまま、相手を確認する。
 見知らぬ少年が花音を掴んでいて、現在に至る。

 痛くなるほどに強く掴まれているわけでもないのに、真摯な眼差しが鎖となって、花音をその場に縫い付けた。
 ひどく長い時間こうして掴まれている感覚に陥っていたのだけど、視界の端に映る点滅がいまだ続いていて、ほんの数秒しか経過していないのだと知れる。
「あの…。手を、放して」
 少年側からの要求がないのであれば、こちら側の要求を明示するまでで。
 真剣そのものの双眸に見つめられ、その真摯さが怖く、振り解こうと動く。
「お願いだから」
 耳に届いた少年の声も、真剣そのものだった。たじろぐ花音に、更に続けた。
「お願いだから、少しだけでいいんだ。ここにいて」
 懇願する響きで、泣きそうにも見える。
 初対面の相手に、この懸命さは何なのだろうか。要求する内容にも、目の前の相手にも、心当たりはない。訳が判らない。なのに、振り解こうとする意思は、消滅していた。
 時が止まる。互いに見つめ合う。世界さえも止まった気がした。
 その停止を切り裂いたのは、耳をつんざく不快音。
 金切り声かと思った音は、車のブレーキ音だった。耳を塞ぐ間もなく、見遣った先では、半回転した車が横断歩道の上で停止していた。
 ざわり、と空気が動き、慌しく周囲の音が動き出した。急停止した車の陰から、横断歩道を渡る途中だったであろう人影がぱらぱらと姿を見せた。運転手が慌てて降りてきて、怪我人の確認を行なっている。
 蒼白なのは運転手や轢かれそうになった人達だけではなく。
 この数瞬の間、足止めされていなければ、花音もあの場所にいたかもしれない。現場を凝視する花音のすぐ傍で、吐息が零れた。
「よかった。間に合った」
 それは確かに、足止めを懇願した声。今は心底安堵に染まっていた。
 弾かれるように振り返り、いまだ手首を掴む少年を見上げた。何から口にしたらいいのかと唖然としている隙に、少年はにっこりと笑む。
「じゃあね」
 何事もなかったかのように踵を返そうとする。その腕を、今度は花音ががっちりと掴む。
「……知って、いたの?」
「うん?」
 とぼけているようで、その双眸は肯定しているようでもあった。


 現場からそう離れていないファーストフード店を指差し、少年は「あそこがいい」と言った。
 お礼をしたいと、誘った。話がしたいと思った。そうして二人は、歩道に面する形で設けられたカウンター席に並んで座っている。
「ほんとにここでよかったの?」
 そりゃあんまり高いお店は無理だけど、と呟くように付け足した。彼の表情を見ていれば、本当に充分なのだと判断できるのだけど。
「うん。一度入ってみたかったんだ」
 無邪気に笑う。ついさっきまでの、真剣さは見事に消えていた。
「入ってみたかったって…まさか、初めて入っただなんて、言わないよね?」
 冗談まじりに問うと幼子がするようにこっくりと頷いた。
「初めて」
 回転する丸椅子をくるりと店内に向けたかと思うと、足をぷらぷらさせる。その様子だけ見れば、まるで幼稚園児だ。
「歳、聞いてもいい?」
「うん、もちろんっ。十七歳だよ」
 高校生くらいだろうな、という目算に間違いはなかったらしい。どんな環境で育てば、こんな風に子供っぽくなるのだろうか、と考え巡らせてみる。
 少なくとも、花音の周囲にはいなかったタイプだ。それとも、たった数年で自身の感覚が変わったということなのだろうか。
「名前聞いても?」
「りゅう」
 吐き出された名前に、一瞬、呼吸を忘れた。淀みなく答える彼の無邪気さと、いなくなった愛しい影がだぶる。
 慌てて意識を掴み直し、そっと深呼吸した。
「りゅう?この一文字?」
 宙に指で「龍」と書く。
「え…、うん、そう。そっちは?」
「あたしは、かのん。花に音って書くの」
「うん」
 知ってるよ、と聞こえたのは、幻聴なのだろう。彼の表情がそう言っているように見えた。
 不思議な人だな、とは思うけれど、一緒にいても嫌な感じはしなかった。
 またまた椅子を回転させ、今度は正面を花音に向けて静止する。椅子の軸は固定されていて間隔はそう広くはなく、身体を向けられると急速に距離が縮まった。
 ささめきだした鼓動を悟られないよう、花音が店外へと視線を注いでいると、着信が鳴った。小窓に「久保山」と浮かび上がる。


[短編掲載中]