久保山との通話を切り、申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになる。じっと電話を見つめる花音を、またもや龍は掴んだ。
 今度は手首ではなく、手を繋ぐ格好で。
 抵抗する気は起きなかった。引っ張られるままに店を出て、しばらく歩き、辿り着いたのは河原だった。水の流れる清涼な音が、聴覚を埋め尽くす。
 連れてこられた場所に、喉に込み上げる感情を抑える。少し視線を延ばせば、夕陽に染まる工場が見えた。
 背丈の低い草が生え広がる広場のような場所では、散歩の途中であろう犬とその飼い主が、フリスビーで遊んでいた。その様子がよく見える位置で龍は腰を下ろし、花音も隣に座った。
 宙を舞うフリスビーを跳ねる軽やかさで追い掛け、キャッチした得意満面でしっぽを振りながら飼い主の元へと戻っていくさまを見ているうちに、視界がぼやけてきた。
 ずず、と洟をすする音に、龍の顔が向けられたのが気配で判った。そちらを向くことは、できなかった。俯かないよう、目の淵に溜まっていく涙が零れてしまわぬよう、堪えるので精一杯。
 龍は無言のままで、理由を聞くでもなく、隣にいた。何も言わないあたたかな空気が、ひどく心に沁みる。
「…昔はね、うちの子も…あ、飼い犬なんだけど、フリスビーが好きな子で」
 龍には不思議な雰囲気がある。そう思ったら、自然と言葉が零れていた。じっと、頬にあたる龍の視線が、花音をそうさせる。
「おじいちゃんになってからは散歩するだけだったけど、やんちゃ盛りだった頃はいっつもせがまれた。あたしは投げるのがちっとも巧くならなくて、よく川に落としたりして。でも、あの子は泳ぎがすごく巧くって、失くしたことは一度もなかった」
 何度か久保山も一緒に散歩をしたことがあって、そういえば久保山は投げるのが巧かったな、と思い出す。
 言葉を綴るほどに感情がせり上がる。一度落涙してしまえば、止めようはなく。あふれるばかりに想い出が駆け巡っていた。
「あの子からは本当に…本当にたくさんのものを、もらったの。形に残るものじゃない、すごく大切なものを、いっぱい」
 感情を敏感によむ子だった。落ち込んでいる時は必ず傍にいてくれて、柔らかくあたたかな毛並みに顔を埋めているだけで、心は安らかになった。
 助けてくれたのは、数え切れないほど。そのほんの少しでも、返すことができたんだろうかと、ずっと自身に問い掛け続けている。
 動かなくなった、あの瞬間から。

 老衰だろう、と両親は言った。
 一緒に住むようになって十七年が経つ。出逢った時は仔犬だった。平均寿命はまっとうしたよと、涙に濡れる花音に言った。
 ペットロス症候群というらしい。
 たかだかペットが死んだくらいで、と考える人はいるかもしれない。大学を休む理由になどなるわけがない、と。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑われようと、笑いたい人は笑えばいい。
 自分にとっては、あまりにも大きな存在だった。
 時間の流れはとてつもなく遅く、暗く、重たいものだった。
 こんなことではいけない、と己を奮い立たせることもしなかった。両親の雷が落ちなければ、放置しておいてもらえたなら、まだ自分の部屋に篭っていただろう。
 立ち直るには、まだまだ時間が必要だった。否、喩えそれが余りあるほどにあったとしても、立ち直ることは不可能かもしれない。
 この子は幸せだったよ、と母親は言った。まだぬくもりを残す亡骸を撫でながら。
 お前が笑っていなければ、この子は成仏できないだろう?と父親は言った。何日経っても沈んだままの娘に。
 けれどそんなのは、あの子じゃないのだから、正解だなんて言えない。適当なこと言わないでよ、と反発心だけが湧いた。

「幸せだったよ」
「え?」
 それまでじっと、花音の独白に耳を傾けていた龍が発した言葉の意味が、飲み込めなかった。
 龍の目線は、遠くを見つめていた。オレンジ色に染まる工場がある方角を。
「僕らが出逢った場所が見えるね」
 ゆっくりと、静かに、慈しむように言う。懐かしげに、目を細めた。
「……龍之介…なの?…そう、なんだよね…?」
 半信半疑に問い掛けながらも、確信は芽生えていた。
 理性ではない、本能ともいうべき部分が、ずっとささやきかけていた。説明し難い感覚が、内に蠢いていた。
「懐かしいね、花音ちゃん」
 ゆるりと龍――龍之介は微笑む。
「どうしても遣り残したことがあって、少しだけ時間をもらったんだ」

 小学低学年の時、花音は龍之介と出逢った。
 工場で、友達とかくれんぼをして遊んでいた日。いつの間にか寝てしまった花音が目覚めた時には、陽はすっかり落ちた時刻だった。
 暗闇が怖く、帰り道が判らず、動くこともできなかった。友達の名前を呼んでも反応はなく、一人ぼっちの心細さに泣きそうになっていた。小さな物音に怯え、身を硬くしてうずくまる花音の真後ろに、息遣いが近づいてきた。
 思うように身体を動かすことが叶わず、更に身を縮めた花音の腕に、ふわりとした感触が触れ、おそるおそる目蓋を開けた先にいたのが、仔犬だった。
 つぶらな瞳で花音を見上げ、短いしっぽを千切れんばかりに振っていた。
 仔犬を抱いた花音が見つけられたのは、その後すぐのこと。

「花音ちゃんは僕を離さなくって、一緒じゃなきゃ絶対帰らないって駄々こねたんだよね」
 龍之介は可笑しそうに笑い、花音は顔を赤く染めた。
「だ、だって、お父さん反対するんだもん。あたしを最初に見つけてくれたのは、龍之介だったのに」
「龍之介、って呼ぶの、珍しい」
「え…、そ、そう?」
 非現実的な現象が起こっているというのに、自然と受け入れていた。龍之介の纏う空気が、それを可能にしているのかもしれない。
「自分で龍之介って名づけたくせに、あんまり呼ばなかったよね。大体が龍くんとか龍。そうやって呼ばれるの、なんだかくすぐったい」
「…そう言われたら、そうかも」
「でしょ?――短い時間だけだったけど、嬉しかった。こうして花音ちゃんと話ができて」
 足元から冷たい予感がよじ登ってきて、身震いした。
「龍、いなくならないで。お願い。ずっと、傍にいてよ」
 無意識に、腕を掴んでいた。指先に力が入る。離すものかと、焦燥だけが募る。
「花音ちゃん」
「や、だ…」
 聞き分けのない子供みたいに、首を横に振る。龍之介は困ったように笑んで、花音の手に自分のそれを重ねた。
「人間バージョンの僕、どう?」
 おどける龍之介の顔が、溢れ出てくる涙に阻まれ、見えなくなっていく。
「十七年も生きたらさ、立派なおじいちゃんなんだけどね。花音ちゃんとデートしたかったから、それじゃあ格好つかないって不満洩らしてみたんだ。…なんてね。本当は花音ちゃんを少しだけ引き止められれば、どんな姿でも良かった。まぁ、できれば十七年生きた人間の姿がいい、とは言ってみたんだけど」
 お願いしてみるもんだよね、と龍之介のトーンは変わらず明るい。
「龍之介、ねぇ、どうにかならないの?もっとお願いしたら、戻ってこられるんじゃないの?あたしもお願いする。龍之介を戻してって、お願いするから…っ」
 まるで駄々っ子だ、という自覚はあった。けれど、そんな冷静な部分に構っていられないほどに、必死だった。
「花音ちゃん、ありがと」
 ゆるりと龍之介は首を振った。その表情は満ち足りたもので。
「そう言ってくれるの、すごく嬉しいよ」
「龍之介っ…」
「僕のこと、忘れないで。花音ちゃんが忘れないでいてくれたなら、僕はずっと、心の中で生き続けられるんだ」
 頬を伝う涙を、龍之介の指がぎこちなく拭う。真っ直ぐに覗き込まれれば、もう我侭を口にできなかった。
「幸せだった。だからもう、泣かないで」
 どうしても伝えたかったんだ。そう言った瞬間だけ、切なげに目を細めた。
 龍之介が言った『遣り残したこと』とは、このことだったのだろうか。
 泣き暮れて、動けずにいた花音を、心配したのかもしれない。
 そう解答が見い出せれば、安心させてあげることが、花音にできる唯一のことで。
「花音ちゃん」
「…うん」
「花音ちゃんは一人じゃないよ?花音ちゃんが周りの人を大切に想うのと同じで、周りの人達も大切に想ってくれてるから」
「……うん」判ってる、というのは飲み込んだ。代わりに、ついと視線を上げ、龍之介の顔を見つめる。「ねぇ、龍…」
「うん?」
「……龍之介、本当にありがとう。…大好きだよ」
「うん」無邪気に、安心したように笑み、つと表情を変えた。「それでね、お願いが、あるんだ」
「なに?なんでも言って?」
 龍之介はどこか照れくさそうにしている。
「抱き締めさせて、ほしいんだ」
「え?」
「いつもさ、花音ちゃんは僕を抱き締めてくれたよね。だから、一度でいいから、僕が抱き締めたい」
 言うや、花音の返答も待たず腕が伸びてきた。これは幻影と呼べるものなのに、実体は確かにあって。そのぬくもりに、ひどく切なくなる。
「こうやって抱き締めてくれて、こうやって頭を撫でてくれて、僕は本当に幸せだった。花音ちゃん、絵描いてね。描いてる姿を見るの、好きだったよ。花音ちゃんの笑った顔、好きだよ。笑ってて、ほしい。――大好きだよ、花音ちゃん」
「あたし、龍のこと、絶対忘れない。絶対に」
「うん。…花音ちゃん、大好き」
 ふ、とぬくもりが離れて、龍之介は消えた。宙に浮いたままの自身の腕を見つめ、唇を引き結ぶ。
 幸せだったと、言ってくれた。大好きだと、言ってくれた。
 最期に見せた龍之介の表情は、なんの心残りもない清々しさがあって。
 龍之介の言葉だから、信じられる。
 前へ進もう。心配させないように。
 だって龍之介は、いつもいつでも、傍にいてくれる。




[短編掲載中]