少し時間もらっていいか、とミウカが言ったのは、粗方の買い物を終えた頃だった。
「この辺にするか」
 フガードの群れを塞き止めた現場は未だ瓦礫の山が残っているが、屍の痕跡は跡形もなく片付けられていた。思慮深げにしばらくあたりを見渡していた少女は瓦礫の上に腰を下ろした。
 笛を取り出し唇にあてる。澄んだ音色があたりに響いた。
 瞳を閉じて音色を奏でる少女から距離をとって静かに見守る。森でこの音色に誘われなければ、出逢わなければ、今頃どうなっていただろう。
 目蓋の裏に、ほとりで佇む赤銅色の影が映し出される。鮮やかに焼き付く光景。自然の中に溶け込んで、それでいて絶対的な存在感。今こうして目の前にいるのに、遠い存在だった。
「ミュウ姉!」
 子供の声、小さな複数の足音。気づけばミウカの周りには人だかりができていた。内側の輪には子供達、それを囲むように大人の姿もある。莉哉はその二つの人垣の中間に立っていた。
 もっと吹いてとせがまれ、ミウカは嬉しそうに対応している。次の曲が始まって心地いい旋律に耳を傾けていた。
「ミュウ姉の笛は落ち着くね」
「うん」
「大好きなんだー」
「あたしも!」
 子供たちの小声は莉哉の耳にも届いた。シェファーナ同様、そこには好意が存在している。自分のことのように嬉しい気持ちが湧いていた。
 だが曲も終盤に差し掛かった頃、背後から囁かれる雑言に眉をひそめた。あからさまな嫌悪感。ともすれば敵対心にも似た感情の含まれた囁き。ごく小さく発せられる言葉は断片しか聞こえてこない。音色に耳を傾けていたい欲求を振り切って、耳をじっとそばだてた。
 それは明らかに、少女に向けられたものだった。
「…のだろう?【呪い】が…」
 呪い?
「だよな。…笛を使って洗脳しているのかも」
 洗脳だ?なに言ってんだ、こいつら。
「恐ろしい。見た目に騙されるな」
「騙されるものか。語り継がれてきた【呪い】なのだぞ?」
「子供たちを引き離した方が…」
「そうは言うが、当の子供達が言うことを聞かない」
「うちもだ…」
「最早手遅れなのでは」
 はっきりと中傷が聞き取れるようになるにつれ、むかつきが込み上げた。それでも恍惚に聞き入っている子供たちの邪魔をしたくなくて、奥歯を強く噛み締め我慢していた。
 が、彼の爆発スイッチを入れる単語が耳に入った時、様子にずっと気づいていたミウカが止めるよりも先に、後ろを振り返り怒鳴っていた。
「おい!今言った奴出てこい!!」
 笛の音はピタリと止み、素早くミウカが近づいてきた。勢いよく袖口を引っ張られ、躯が傾いた。ミウカの背後では不安な顔をした子供達が莉哉の動向を見守っている。
「陰でコソコソ言ってないで、出て来いって言ってんだよ!」
「リイヤ、怒鳴るな。どうしたんだ、急に」

 聞こえていなかったわけじゃない。毎度のことだから、彼女は聞こえないフリをしていた。まともに受けていたのでは、彼女の精神はとっくに崩壊の道を歩んでいただろう。
 だから平気なフリをするしかなかった。――たとえその度に、傷ついていたとしても。
 そうやって遣り過ごしてきた過去を、当然莉哉は知るわけもなく。

「ごめんな。今日はここまでだ。また今度な」
 子供達の顔を一通り見て、静かに言った。外側の輪はすでに崩れて離散しつつあり、その場にいた莉哉だけが怫然としていた。
 怒りの冷め遣らない莉哉を強引に場から離し、赤銅色の瞳は自嘲気味に笑った。
「なにを興奮している。疲れているのか?…悪かった。早々に帰るべきだったな」
「…違う」
 呻くように否定した。怒りに任せて早歩きになっていた彼の足の尺に合わせるには、ミウカは小走りになるしかなかった。腕を掴んでいるので今度はミウカがつんのめるようにくっついていた。
「とにかく落ち着けって。なにがあった?」
 少女は空とぼける。莉哉をどう宥めたらいいのか思案していると唐突に立ち止まられ、勢いのままその背中にぶつかった。
「リ、リイヤ!?」
 鼻をしこたまぶつけた。廻り込んで顔を覗き込む。なんでもない、と呟いて、莉哉は押し黙ってしまった。
 言えるわけない。口にもしたくない言葉だった。

『あれは排除すべき存在だ』――悪意の籠もった声だった。

「お前は、変な奴だな」
 少女は曖昧に微笑んだ。
 自分が激怒した理由を知らないミウカにとって、突然怒り出した上その理由を言わないとなると訳が判らないとなるのは当然だろう。急にバツが悪くなって、ミウカの笑顔から顔を逸らした。
「ほっとけ」
「では、戻ろうか」
 無頓着なのか切り換えが早いのか、さほど気にした様子もなく横に並ぶと、ミウカは城へと続く道を歩き出した。向けられた華奢な背中を刹那見つめてから、一歩遅れて歩き出す。
 だが、その僅かな距離は思わぬ引力に、一気に引き離された。
「…っ!?」
 突然口を押さえられ、建物の間に引き摺り込まれた。引力に囚われる瞬間、ミウカの背中が見えた。前を向いて、気づいていない。
 暗がりに引き込まれ、抵抗する間もなく壁へ押し付けられた。目の前に、切っ先があった。寸前で止められているが、ピタリと莉哉の左目を狙っている。
「大人しくして頂きたい。怪我を負わせたくはないので」
「…くっ!!」
 大人しくする気はなく、手を剥がそうともがいた。身長も体躯も莉哉と変わらぬくらいなのにビクともしない。
 黒いローブに身を包み、目深にフードを被っている。口元しか見えず、その唇には余裕ともとれる笑みが浮かんでいた。
 この服装…!?
 確かに見覚えのあるものだった。
「リイヤ殿」
 躯が硬直した。抵抗をやめ、見えない相手の目を睨みつける。
 何故、名前を?
 聞いたことのない声だった。
 危害を加える気がないのは判る。もがいて動いた時、剣先は定められたままであっても、それが莉哉に当たることはなかった。が、警戒を解く気は皆無だった。
 剣を向けたまま、黒ローブの男は上から下まで莉哉を観察した。
「ミウカ殿は御方の創る新世界に必要な御方だ。くれぐれも邪魔立てはせぬよう」
 淡々と紡がれる言葉の意味を、莉哉は一つも理解できずにいた。
「貴方に傍にいられては困るのです。一緒にきてもらいましょう」
 口元を押えていた方の手で莉哉の胸倉を掴んだ時だった。
「離せ。お前には必要のない人間だろう」
 陽の届かぬ路地裏に閃光が走った。違う角度からの剣が、男の喉元にあてがわれていた。動じる様子を微塵も見せず、男は無言で莉哉から視線を外さない。拮抗状態が何分にも感じられた。息をするのでさえ躊躇われる。
 それを切り裂いたのはミウカの鋭い声だった。
「離さなければ剣を引くのみ!下がれ!ザドー!!」
 ゆるりと男は顔をミウカの方へと向けた。鋭い刃で僅かに斬れ、男の首に鮮血が浮かんだ。
「最後の警告だ。…離せ」
 真紅の瞳はどこまでも澄んでいて、凛と相手を見据えていた。男は口端で笑う。スッと自身の剣を下ろし、鞘に収めた。
「血の気、多いですね。貴方達は本当に、そっくりだ」
 穏やかな語調だが、嘲戯が感じられる言い方だった。一瞬少女の柳眉がひそめられ、だがすぐに然らぬ顔に戻った。
 黒ローブの男――ザドーはフードを取り払い、一歩後退した。
「できれば彼をお連れしたかったのですが、貴女様が傍におられてはやはり無理でしたね。また改めて。以後お見知りおきを、リイヤ殿」
 優雅に騎士の礼をしたかと思うと小さな風が巻き起こり、砂塵が舞い上がる。目を開けた時にはザドーの姿は消え去っていた。
「…怪我はないか」
 剣を鞘に収めてミウカは向き直った。
「ない。平気だ」
 呆然と壁に張り付いたままの莉哉は、ザドーが消えた方向を見つめていた。
「何者なんだ、あいつ」
「…悪かった。油断した自分の落ち度だ」
「ミウカ、あれは誰なんだ?」
「……」
「ミウカ!」
 大声を出してしまってから後悔した。豪健な真紅は赤銅色になり、いっそ脆弱な光を宿していた。
 彼女は護ってくれたのに、これじゃ単なる八つ当たりだ。


[短編掲載中]