昼食を済ませ、莉哉は再び城下街にいた。
 シェファーナは女官としての仕事が忙しく、逆に莉哉にはすることがなかった。ぼけっと時間を過ごすのは性に合わないので、ミウカを捜しに街へと繰り出すことにした。
 本来であれば城に従事する者による巡回などは不要だった。街には独自の自警隊があり、城の者がそれをするのはいわば越権行為であり、あくまで散歩という名目で時間のある時は廻っているのだとシェファーナは言っていた。子供達はミウカの笛を楽しみにしており、それも目的の一つだった。
 ミウカが奏でる笛の音色は聞く者の心を穏やかにする。そこには大人達が勘ぐるような思惑も策謀も存在しない。見栄も体裁も、古の史実も拘泥しない子供達だからこそ、純粋に聞き入ることができた。

 市場に差し掛かった大通りで、向かう先から短い悲鳴が聞こえた。駆け出して行く者達に続けとばかりに、莉哉の近くにいた者も声のした方向へ走っていく。
 そんな中、流れに逆走する小さな影を見つけた。真っ直ぐに莉哉を目標として走ってくる少年。
「リイヤさん!」
 今にも泣きだしそうなのを懸命に堪えていた。走ってきた勢いのまま莉哉の足にしがみつく。
「セト!?」
 一向に状況の把握ができないまま、セトが指差す方向へ目を向けた。すでに人だかりのできている方へ。
「一緒に来て!ミュウ姉がっ…」
 躯ごと力を入れて腕をぐいぐい引っ張る。
 どうして彼女の名前が出るだけで、自分の心はこんなにも騒ぐのだろう。
 セトを抱き上げ駆け出した。何重にも重なった人垣を掻き分け中心へと進む。容易ではなく苦戦していると莉哉より高い目線にあったセトが小さく悲鳴を漏らした。
 どうした、と顔を上げようとして、視界に入った光景に息を呑む。
「ミウカ!?」
 人垣から抜け出て中心部の外周にセトを降ろした。服の裾を掴むセトの手が小さく震える。
 ――そこにあったのは、他の者の侵入を許さない空間。一歩として踏み込むことは適わない。
 壁際に追い込まれ動けずにいるミウカと対峙する男。莉哉からは背中しか見えないが、その手には短剣が握られていた。――狙いは赤銅色の影。
 黒いローブと同じ奴らか!?
 正体を突き止めるよりも、この状況の打開策を思案する方が先決だった。小さなセトの手が更に力を入れた。男に向かって、悲痛な感情をぶつける。
「やめてよっ!こんなことをしてもマトゥーサは還ってこないんだよ!?おばさんだって喜ばないよ!」
 男には何も聞こえていなかった。周りをぐるりと囲む大人達が己の名を呼ぼうと、悲鳴があがろうと。そこにあるのはただ、憎しみのみ。見えるのは、目の前にいる対象だけだった。
 取り憑かれたように虚ろな目。もはや男の中に正気はなかった。ぐらり、と男の背中が前のめりになり――莉哉の目の前から離れていこうとする。
 肩越しに見えるミウカの瞳は、真紅ではなかった。
 莉哉が伸ばした手は空をきり、男は離れていった。真っ向から衝突した。ミウカを壁に叩きつけて。
 …嫌な音がした。
 一歩、また一歩と下がる男の手にはもう、剣は無かった。足元に赤い液体がポツリポツリと地面に染みを作っていく。
 ガタガタと震える男。その手から滴り落ちる真っ赤な血。それは、男のものではなかった。男が下がるにつれ、ミウカの姿が莉哉の視界に現われた。
 左の脇腹を両手で押え、前屈みになって壁に寄り掛かっていた。そこには短剣が深く突き刺さっている。華奢な躯を貫いて、背中から血塗られた切っ先が見えていた。鮮血が音を立てて地面に落ちていく。
 どよめきと悲鳴と、場を離れようとする足音と。様々な音が交差する。
 ――頭の芯が、熱く弾けた。
「ミウカ!!」
 踏み出そうとして、赤銅色の瞳に射抜かれた。動くな、と。来るな、と。
 莉哉をその場に縫い付けて、少女は素早く周囲を瞥見した。目的の人物が近づいてくる。
「ラコス。この者を捕らえよ」毅然とした声が一人に向けられた。
 自警隊の腕章をつけ、部下を従え中心部へと入ってきた男――ラコスは目配せで命令を下した。血にまみれたミウカを見ても、眉一つ動かさない。無表情の能面が張り付いているような男だった。
 剣を振りかざした男は狂気に囚われ、二人がかりでやっと押さえ込まれている状態だった。暴れる間中同じことを繰り返し叫び続けていた。
「そいつは化け物だ」と。「殺しても死なない」と。
「息子は…妻は…お前に殺された」と。「全部お前達の所為だ」と。
 喚くのを止めると今度は放心状態になり、うわ言のように連行される間ずっと何かモゴモゴと言っていた。
 ラコスは連行を見届けると、硬直して様子を見ていた莉哉の前まできて正面に立った。
「リイヤ殿、ですか」
「え…」
 何故自分の名前を、と問うより前にラコスは腰を折って頭を下げた。
「私はナラダの城下街を警護しております隊の隊長、ラコスと申します。お怪我がなくて安心しました」
 失礼しますと、それだけ言い残し颯爽と去っていった。ポカンと見送った莉哉は呆けている状況じゃないと思い出す。
 捕縛を確認し、男の叫びを聞き終えた瞬間、少女の躯は大きく傾いた。まるでスローモーションのように、赤銅色の髪が軌跡を描く。
 莉哉の躯は瞬時に反応していた。が、その手は間に合わなかった。
 ――ごつり、と鈍い音がした。
 あと数歩が届かず、ミウカはうつぶせに倒れた。動きの止まった莉哉を追い越して走り寄ったセトは細い肩を揺り動かしている。
 何度名前を呼ばれても、目蓋が開かれることはなかった。


[短編掲載中]