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寝台の傍らに座った広い背中に見守られ、少女は眠っていた。憂憤を深く顔に刻んだまま、コウキは押し黙っている。
夜もだいぶ更けた時刻だった。街で倒れて以降昏々と眠り続け、寝息がなければ永遠の眠りについているような、静かな寝顔だった。
額から目尻のあたりまでかかる、擦り傷が痛々しい。顔から落ちたために出来た傷だった。
俺の手が間に合っていれば…!
処置を終えてすぐ、莉哉を一瞥した碧眼。叱責を暗喩していた。それがなかったとしても悔しかった。爪が食い込むほどに握り締めた拳を睨み付けた。――そして思い出す。
コマ送りするみたいに悔恨の場面を思い起こし、頭の中を巡る度、同じ所で停止しては莉哉の心に引っ掛かる。
「ちょっといいか?」
静寂の中に、躊躇いがちな声が響いた。
ミウカが運び込まれてからずっと考えていた。彼には伝えるべきだと思った。コウキは振り向かない。ピクリと肩が反応し、ミウカから目の前の窓に視線を移した。闇におぼろ月が浮かんでいた。
「…なんだ」
「俺の思い違いかもしれない」
「構わん」
「刺される寸前、避けようとしてなかったと思う。…むしろ、隙を与えたようにさえ見えたんだ」
身のこなし、フガードを斬り払った舞うような剣撃。思い出すのは無駄のない動き。
それなのに、あの男に対して、腕を広げ受け入れようとするようにも見えた。対人間だからとか、そんな理由ではない。そう思った。
沈黙が落ちた。
まるで見当違いなことを言ってしまったかと後悔し始めた矢先、深い溜息が吐き出された。
「……またか…」
「それ、どういう意味…」
がたり、と音が鳴るのも構わずに立ち上がり、無言で部屋を出ていった。銀の影を追い掛けて問い質す気にはなれなかった。
――端正に整った横顔にあった積憤の色。棘のように尖った空気が彼を包んでいた。
コウキが去った後、閉じられた扉からミウカへ視線を移す。変わらず眠りの淵にいる美麗な少女。傷があって尚、美しさは損なわれない。コウキが空けた椅子に座り、夜が明けるまでじっと寝顔を見つめた。
声に出さず、謝りながら。
◇
翌朝、莉哉が目覚めた時にはすでに寝台はもぬけの殻だった。
狼狽したまま扉を開けると慌ただしい朝の風景が飛び込んできた。その中にミウカの姿はない。
…あんな怪我で…!無茶だ!
どうしようもなく焦燥にかられる。
気づかずに寝ていたなんて…!!
責めるのも悔やむのも後でいくらでもできる。
塞ぎ込むのは後回しだ!
自分を叱咤し、部屋を飛び出した。
傷の程度からして城外へ出てる可能性はゼロに近い。しかし限られた敷地内とはいえ面積は壮大であり、部屋数も数え切れぬほどある。一日では到底無理だった。その上、どこから捜していいのか検討もつかない。
くそっ…!
手当たり次第に走り廻り、肩で息をして中庭に目を向けた時だった。捜していた色が視界の隅に入った。弾かれたように見、凝視した。流れの尾を引いて、毛先が角の向こうへ消えていった。
「ミウカ!」
勢いのままに角を曲がり急ブレーキをかける。地下へと続く階段。先は闇で見えないほどに暗い。頼りなく灯された燭台の明かりだけが等間隔で浮かびあがっている。冷たい空気が底から流れていた。不気味な闇。
ミウカの姿は欠片もなく、物音もない。引き返そうかと迷い、瞬時に打ち消した。
他を捜すのはここを確認してからでいい。
それに、根拠のない確信めいたものもあった。ここには何かがある。喉を鳴らし息を飲み下し、階段への一歩を踏み出した。
距離間隔が判らず下って行くという動作は、思いのほか時間をくうものである。足元は全く見えない状況で探り探り踏み外さないよう下りて行った。
平地に辿り着き顔を前へ向ける。壁の切れ目から灯かりがぼんやりと床を照らしている。
角から顔だけを覗かせて様子を伺った。視界は明るく、闇に慣れてきた莉哉の目には眩しいくらいだった。
長く続く石の廊下。両サイドには鉄格子のはめられた小部屋が延々と連なっている。じとりとした重苦しい空気が漂っている。そこは、地下牢だった。
最奥に数名の人影が見えた。莉哉は壁伝いに張り付くようにして慎重に足を運び、物音を立てぬよう近づいていった。
輪郭がはっきりと見えるまでの距離で留まる。支柱の陰に隠れて奥の様子を窺った。
ミウカが鉄格子内にいる者と対峙していた。その後に二名の衛兵が立っている。
空気が張り詰めていたのは、現況の所為ばかりではなかった。
「傷の具合は、どうなんだ」
鉄格子の中から、呻くような低い声がした。莉哉からは姿を確認することはできないが、どこかで聞いたことのある声だった。
少女の表情は動かない。何も刻まれていない表情。陶器のように滑らかで白い頬が、蝋燭の灯かりで橙色に映えた。
男の声を受けて、上着を捲り上げた。顔よりも白い腹部に巻かれた包帯。それをやおら外し始める。
包帯の下から現れたのは――治りかけの傷痕。
目を瞠った。錯覚ではないのだろうかと、諦視した。呼吸が苦しくなって初めて、息を止めていたことに気づく。
治りかけ、というより、ほぼ完治している。あれだけの出血量だ、今だ寝込んでいたっておかしくない。
今更のように少女の顔を見た。そこにはもう、跡形もなくなっていた。
『化け物』『殺しても死なない』
狂気に満ちた男が叫んだ台詞が思い出される。――これが、そういうことなのか?
「なんっ…でだ!?なんでっ…!!」
悲鳴に似た叫びが、少女に向けられる。鉄格子を掴み、それが無ければ目の前の少女に噛み付かんばかりの勢いで声を張り上げた。牢の中にいたのは、ミウカを刺した男だった。
「なんでお前が生きてる!?何故だ!?…マトゥーサを返してくれ。お前が殺した!あの子を殺したんだ!!」
男の叫び声と共に、鈍重な音が通路を駆け抜けていった。
少女が前へと、男の手の届く距離まで間合いを詰めた途端、男に胸倉を掴まれ、力任せに鉄格子へと叩きつけられていた。
長い髪が少女の顔を隠す。腕は力なく脇にぶら下がっていた。少女は、無抵抗だった。間近で一部始終を見ていた衛兵は、冷ややかな視線を送るだけで。
「あの子は…あんたを慕っていた。なのに、どうして護ってくれなかった」
男の言葉が、ゴトリと音を立てて床に落ちる。陰気な空間に、再び沈黙が訪れた。誰も、動かなかった。何も、言わなかった。

[短編掲載中]