「ここでなにをしている」
 前ばかりを気にしていて、背後の気配に全く無防備だった。否、いつかのミウカ同様、気配を消していたのかもしれない。不意打ちの声に飛び上がる。
 声の主は莉哉に並ぶと、状況を値踏みする視線で見つめていた。いっそ冷たいほどに澄み切った碧眼。
 莉哉の返事を待たず、ゆっくりと歩き出す。姿を認めた衛兵が、姿勢を正して礼をした。
「手を、離してもらおうか」
 端然と言い放つ。そこに含まれる威圧感は向けられた者でなくても恐怖に感じるほどだった。
 男の手から解放されて、ヨロヨロと後退したミウカには、少しの輝きもなかった。艶やかに照らされる髪でさえ、色彩を失っているかのように。瞳には一筋の光もない。
 深く上半身を折り曲げた。髪の隙間から見える表情は、闇よりも暗く、泣きそうなほどに歪むのに、見開かれた瞳は乾ききっている。
 重く綴られる謝罪の言を、男は無言で拒絶した。
「行くぞ」
 抑揚のない低い声。言い終わるが早いか、コウキは出口に向かって歩き出す。莉哉の前を通り過ぎる時、目もくれなかった。衛兵も早々に持ち場へと戻っていき、莉哉の視界には少女のみが映る。
 あとに残されたミウカは、依然同じ体勢でいた。痛々しいほど、儚い。そっと動き近づいた。
「ミウカ…。戻ろう」
 おず、と肩に触れる。
「戻ろう。な?」
 支えがなければ、倒れてしまいそうなくらい脆い存在だった。
「歩けるか」
 のろのろと上半身を起こし、莉哉を見る。視線がかち合った。途端、彼女の中に何かが戻ってくる。儚い存在に思えたものは掻き消えた。
「…大丈夫だ。行こう」
 出口へと向かう華奢な背中はしっかりとした足取りだった。
 呆気にとられ、少女の後に続く前に、チラリと牢獄内を見た。男の目には、複雑な思いが見え隠れしていた。


◇◇◇


 泉のほとりで見たのは、間違いじゃなかったのかもしれない――

 一人になりたかった。だけど部屋にも、城にもいたくない気分だった。
 城を抜け出し、小高い丘の上で風に吹かれて座っていた。少し冷たいくらいの空気は心地いい筈なのに、渦巻く思いに気分はすぐれない。
 コウキの言葉を、頭の中で反芻していた。
 執務室に乗り込んで机に両手をついたのは数刻前のことだった。莉哉がくるのを予想していたらしく、さして動じる様子も見せないコウキは悠然と構えていた。
 つい先ほど繰り広げられた監獄での顛末の理由をコウキが知らないわけはなく、偶然とはいえ居合わせた自分に隠すのは許さないと息巻いてきたのだが、あっさりと話をされて拍子抜けしたくらいだった。
 だが、その中身は決して生ぬるいものではなかった。
 莉哉がこの世界に降り立つ前日、一つの小さな生命が終わりを告げた。――マトゥーサという名の少年が、殺された。

「マトゥーサは、本当にミウカを慕っていた。ミウカもまた、あの子を弟のように思っていた」
 執務室の窓際に置かれた椅子に腰掛けた銀髪の青年は、静かに話し始めた。机を挟んで向かいに莉哉が座っており、部屋には二人だけだった。
 窓からの陽を受け均整のとれた顔を沈重に歪ませるコウキをじっと見つめた。
「牢にいるのはマトゥーサの父親だ」
「俺がナラダに初めてきた日、セトがミウカに言ってた。マトゥーサの母親が死んだって。父親は二人の死はミウカの所為だと言っていた。…そうなのか?」
 コウキはゆるりとかぶりを振った。
「マトゥーサの母親は重患だった。遅かれ早かれ逝くのは変えがたい現実だった。支えであった息子を失い、生きる気力を失った。あとを追うように亡くなった。そして彼は――父親は立て続けの不幸に自我を失い、狂気に走ったのだ。…これが真実であり、実状だった。が、民衆の意識は…とりわけ親世代は、凶事の総てをミウカの所為とする風潮がある」
「……」
「いや、思い込もうとしているのだろう。誰もが知っているのだ。真実はそうではないと。…だが」
 吐き出すように流暢に語っていたコウキは閉口した。――それは拒否だった。言葉にすれば認めてしまうことになるから、と。沈黙は何より重い。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうに先を促した。堪え難い重圧だった。
「…当の本人も、そうだと決め付けている」

 カルダナール大陸には二大国家が存在する。
 何千年も前より敵対関係にあった。正確には、大陸の北に位置するクエン国がナラダ国を支配しようと戦を仕掛けてきているのである。広大な砂漠を隔て南にあるのがナラダ国であり、隣接する小国フィーゴスとは国交が盛んだった。
 二大国家の境にある砂漠――莉哉がカルダナール大陸に召喚された砂漠は、常人が足を踏み入れたら最後、生きては帰ることも向こう側へ行くことも叶わない『不帰の砂漠』と呼ばれる場所である。
 砂漠を抜けることができるのは、ナラダ皇室付騎士団――つまりミウカ率いる隊か、クエン国グラザン隊の先鋭部隊だけだとされてきた。戦闘能力に長けた者でないと到底無理であり、自身を護る術を持たない街人や商人などは近づくことすら恐れた。
 砂漠には魔物はもとより、飲み込まれたら二度と地上には戻れないとされる流砂。そして、一番厄介だったのが砂嵐だった。どんな刄よりも鋭く、巻き込まれれば原型を留めぬほどに切り刻まれるという。
 それが近年、崩れつつあった。グラザン第一部隊以下である第二部隊までもが、攻撃を仕掛けてくるようになったのだ。
 砂漠を渡る以外に経路はなく、兵力を削ぐ事無くナラダへ侵入してくる。グラザンを指揮する隊長――ハルは、ナラダ皇帝の生命とミウカを執拗に追い求めていた。

「ミウカを?」
 じっと耳を傾けていた莉哉は思わず聞き返していた。
「彼女の能力を、と言った方が納得できるか」
「能力?」
「【保護壁】を作り出す力だ」
「…あ。もしかしてあの時の…?」
 黒ずくめの男が放った矢を弾き、ウィルの俊足でも風の抵抗を全く感じなかった。
「体験済みのようだな。あれは…あの力は、国一つを護るくらい造作ない。ナラダは今までそうやって護られてきた。それをクエンが手に入れたらどうなる。グラザン隊隊長のハルは、攻撃の特殊な能力を持っている。二つが揃えば、最強になるだろう」
「でもそれはミウカの意思がなきゃ意味ないだろ?」
「そうだ。だが、従わねばならぬ状況があるかもしれん」
 弱味を握られれば従わざるを得ない。
「にしても。ミウカは感謝こそされ、逆恨みを受ける謂われはない筈じゃ…」
「その意見には同感だ。…が、現実はそう簡単にはいかない」
「そんなん、納得いくかよ。なんでミウカは思い込むんだ?理由がある筈だろ」


[短編掲載中]