「黙れ」
 低く鋭く言い放つ。
 揶揄した態度。常時がそうであり、いつもの彼女であれば受け流すことくらい容易かった。――それを許さなかったのは、視界を染めた赤。
 真紅に濡れた小さな躯。怯えた目。自分を呼ぶ震えた声。
 昨日まで笑っていた顔が恐怖に支配されている。昨日、隣にあった温もりが締め上げられている。
 普段なら素早く隙を見つけ、躊躇うことなく飛躍できるのに、それが出来ないでいる。無力に思えるほどにもどかしい。
「なぁ。これがなんだか判るか?」
 ハルは小さな剣を見えるように目の高さまであげた。刃渡り十数センチの、ともすればナイフと呼べるくらいの懐剣。
 一度だってハルが持っているのを見たことはない。そして、彼が絶対に使わないと確信を持って言えた。ミウカは、おそらく誰よりも彼を理解していた。それは本能が感じること。理屈ではなく、意識が悟ること。
「誰のだ」
 言葉を受けて、ハルは愉快そうに顔を歪めた。
「はっ。さすが勘がいいな。…コイツのだよ」
 ザドーの腕に捕らえられているマトゥーサの頬に切っ先を向けた。微かに触れて肌を傷付ける。一筋の血が頬を伝った。
「やめろ!それ以上なにかしてみろっ…」
「ただじゃおかない、か?動けぬくせに、笑わせる」
 鼻で笑い、ミウカと数歩後ろにいる銀色の影を一瞥した。二人分の碧眼が真紅の瞳と同じように見据えている。
「戯弄はもういい。その子を解放してもらおう」
 長身の影はミウカに並ぶと抜剣した。
「兄様は顔に似合わず短気ですよね」
 呑気な口調でコウキとは反対側に並ぶもう一つの銀の影。やれやれ、と息を吐いた。
「タキ!」低く凛とした声が一喝した。
 タキは肩を竦めてから、のんびりと剣を抜いた。次の瞬間、ぴり、と空気が引き締まる。
「コウキ、タキ。待って」
 今にも地を蹴りそうな兄弟を冷静に押し止める。
 幾度も闘ってきた。やり方が変わっても、彼の目的は変わらない。揺るぎない、理由。
「さて、コイツがなんでこんなものを持っていたか、判るか」
「いい加減にしろ。貴様と話す気は毛頭ない。限界を越す前に、離せ!」
 コウキは激憤を露に、声を張り上げた。
「まぁ聞けよ」
 のんびりと、唄うように続ける。「ミュウ姉は僕が護る、だってさ」さも可笑しそうに嘲笑する。
「こんな小さな剣で、俺を殺すんだとさ。…その結果が、これだ。実に、滑稽」
「ハル!!」
「こちらに来ぬ限り、永遠に続くぞ。俺はナラダを手に入れる。このラスタール総てをな。共に世界を手にしようじゃないか。己の意のままに動く世界。…お前の決心が遅くなればそれだけ、屍の山が増える。…それもいいかもな。残るのは邪魔者のいない世界だ」
 達弁に、残酷に語るハルに――かつての面影は欠片もない。
 違われた互いの路。狂った未来。約束された筈の安穏は、産まれた時から砕け散っていた。
 過去を思い出す。幼き頃の記憶。今となっては遠い記憶。だが細部まで語れるほど鮮明な。
「聞くな。向こうへ渡ることの意味をよく考えろ」
 ハルを見据えたままコウキは囁いた。こんな時――局面に立たされた時、常に襲ってくる焦燥。不安。憂懼。
 コウキは危惧していた。背筋を伸ばし、危険を顧みない少女のことを。華奢な背中に背負うには、あまりにも巨大な宿命のことを。
 彼女は理解しているのだ。理屈を、頭では判りすぎるくらいに。――だが、心はいつも揺らいでいた。拒絶していた。
 彼女は多くの生命を救ってきた。それなのに、彼女を救える者はいなかった。親しみを込めて笑いかけてきても、誰にも気を許してはいない。心を許していない。精神を分厚い殻で覆っている。ヒビが入ることも叶わない。
 一番近くにいる自分は、彼女から一番遠い。
「判ってる。何度も言うな」
 真紅の瞳がゆっくりと細められる。
 こんな時でさえ、お前は笑うのか…!
 コウキは自身の腑甲斐なさに歯噛みする。剣を握る手が白くなるほどに力を込めた。
「だから…」
 少女はゆっくりと歩き出す。一直線に、同じ赤銅の瞳を持つ者の元へ。
「ミュウ!?」
 少女の突飛な行動に、タキが名前を呼んだ。振り返らず歩みを止めず、右手で剣を抜き、左手で背後にいる兄弟を制止した。
 背中の鞘から音もなく抜かれた刃。流れるような滑らかさでハルの鼻先に剣をピタリと定めた。
 グラザンの控えていた三人の男は身じろぎした。が、剣先を向けられたハルも、斜に構えていたザドーも微動だにしなかった。
「この自分を必要だというのなら、くれてやろうか」
「なんっ…ミウカ!」「ミュウ!?なに言って…」
 兄弟の声が揃う。ミウカは左手を軽く上げた。近づくな、と。
 そして、その手を緩徐な動作で柄に持っていくと、剣先動かした。弧を描いて天を向き、後方へと切っ先が動く。そして、刃を自身の首に当てた。
「なんの真似だ」
 動揺も見せず、冷淡にハルは口を開いた。ミウカの口元には笑みが刻まれている。
「この首をくれてやる。マトゥーサを離せ」
「…戯言は止めて頂きたい。貴女様に死なれては元も子もありません」
 無言のハルに代わってザドーが口を開いた。
 対峙する真紅と赤銅の瞳。ぶつかり合った視線。言葉無き会話がそこにはあった。
 ハルの本当の目的は、ミウカの能力ではなかった。それ以上に、本当に手に入れたいと願うのは――
 ふ、と表情を緩めたのは、ハルの方だった。
「上等だ。やれるもんならやってみろ」
 脅しではないことは、その場にいた全員が知っていた。誰もが、彼女の死など望んでいない。それはハルとて同じこと。だが彼は臆することなく言い放った。
 振りかざされた剣が、夕日に輝いた。
 地を蹴った銀色の影。少女と同じ色を携えた少年。刹那の合間、総てが混濁に呑み込まれた。
「ミウカ!!」「ミュウ!!」
 惨状は起こらなかった。
 ミウカの剣は目標を斬り落とすことなく、地に落ちた。見開かれた真紅にハルの動きがコマ送りのように緩慢に映る。
 ザドーの手よりもぎ取られた小さな躯が、ミウカに向かって放り投げられた。考えるより先に少女の手は剣を放棄し、しっかりとその躯を腕に抱き留める。
「マトゥーサ!」
「ミュウ姉っ…」
 震える小さな腕が少女の首に絡みついた。溜まっていた涙が途端に流れ出す。
「ごめんな、さいっ…。ごめ…っ。ミュウ、ねぇ…」
「いい。謝んな。…セトは無事だ。怪我もたいしたことない。だからもう、謝るな」
「ぼ、く…、ゥ姉に…」
 しゃくりあげる喉からは、途切れ途切れにしか言葉は出ない。背中を優しくさすった。
「しゃべらなくていい。…帰ろう。母様が待ってる」
「…リの、花を…」
「うん。また摘んでくる。泉の水もな。一緒に渡そう。だけど、マトゥーサの笑顔が一番の薬だろう? 早く帰って安心させてあげないとな」
 諭すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。混乱し、怯え、小刻みに震え続ける小さな少年が、少しでも落ち着けるようにと。
 少年の母親は重い病に苛まれ、残りの生を寝て過ごしている。ルーリの花が好きで、泉の水を飲めば僅かな時間だけではあるが家の外に出ることも出来た。ミウカに頼らずとも、花を母に見せたいと、少年はいつも思っていたのだ。
 その小さな心の隙間に、ザドーは、強いてはハルは捻じり込んだのだった。――おびき寄せる為だけに。
 ぬくもりが帰ってきた。その事実に安堵した。
「無事で、よかった」
 マトゥーサの頭を抱え込みしっかりと抱き締めた。
 だから――そこに、油断が生じた。たとえ一瞬だけだったとしても、絶対の隙間。


[短編掲載中]