「それは、どうかな」
 残酷な通告。冷酷な声。――とす、と嫌な音がした。

 ずるりとマトゥーサの腕がミウカの肩から落ちた。
「ミュ…ね…」
 愛らしい口から、赤いものが流れ出る。ミウカの腕に、抱えられた少年の全体重が圧し掛かった。突然の重みに、躯がよろめく。
「マトゥーサ?」
 閉じられた目蓋は応えない。小さな背中に廻した手が温かいものに濡れた。見える位置まで持ち上げて、息を飲んだ。頭の奥で、強く熱く、悲鳴が弾けた。
「それは、返すよ。な?マトゥーサ」
 血に濡れた自身の手が、震えているのを見た。
 見る間に白くなっていく肌。マトゥーサの背に、深く突き立てられた短剣。的確に急所を貫いていた。永遠の眠りに堕ちた顔は涙に濡れている。
「マトゥー…サ?」
 声にならない叫びがミウカを切り裂いた。


◇◇◇


 夜気よりも濃い闇の色が、悲しみの空気を重く包んでいた。
 夕暮れの刻に起こった惨劇は瞬く間に街中へと広まり、マトゥーサの死を悼む参列の中に、ミウカの姿はなかった。そこに入ることを許されなかったのだ。
 街の外れにある広場で荼毘に付され、天へと昇るマトゥーサの煙を丘に立って、見送った。
 何度も、何度も、心の中で謝り続けながら…。

「ミュウは?」
「部屋にいる」
 弟の方を見もしないで窓の外を向いて素っ気無く答えた。窓に映る端整な顔は険しい。
「まだあのままですか?」
「……ああ」
 ミウカの中で何かが音を立てて崩れた時、すでに銀色の兄弟は剣撃を繰り出していて、少女は小さな亡骸を固く抱き締めたまま立ち尽くしていた。
 ――幾度繰り返せば終焉は訪れるのか、祈りは天には届かない。あるいは、神さえも見離しているのか。
 怯え、嘆き、悲しみ、震え、怒り、憤る。負の感情の淵に取り残されている彼女を救う手は、なかった。救いたいと願う手は数多あれど、それを取るのを躊躇うばかり。
 総てを抱え込むなど、出来ぬ筈なのに。
「ところで兄様。気づいていましたか」
 示すように右手首を触った。振り返らず、ガラスに映る弟の仕草を見て頷いた。
「ここ数ヶ月、グラザンの侵攻が頻繁になってきていることになにか関係があるのでしょうか」
「バングルを外すという行為は力を増幅させると聞く。片方が無いということが砂漠縦断を容易にさせているのかもしれん。…いや、おそらくはそうなのだろう」
 ハルの手首にはめられていたバングル。能力の目覚めの時よりつけ続けなければならない腕輪の片方が、今日見た時にはなかった。【呪い】を制御する為の腕輪。それを外すということは彼の能力を完全に解放、そして、同時に【呪い】の解放にもあたる。
 それが何を意味するのか、彼自身がよく知っているのに。
「やはり、そう思いますか。流れが大きく変わるかもしれないですね」
「警戒を強めなければな」
 それきり、兄弟は口を噤んだ。それぞれの思考が交錯する。

 長い沈黙の末、タキは退室を伝えそっと部屋を出た。
「タキ様…」
「ターニア」
 廊下に佇む細身の女性。質素な黒を基調とした着衣を纏い、タキに向かって静かに礼をした。
「兄様に用事?中におられるが、今はよした方がいい」
「早急にお伝えしたいことがございます。『波紋を投げ掛ける者』の兆しが色濃くなっております」
「いよいよ、か。…兄様には僕から伝えておくよ」
 下がるように命ずると、ターニアは深々と頭を下げ去っていった。
 《透察眼》をもつターニアは、未来を垣間見る能力があった。城の占者として籍を置き、予言をする。それは決して明瞭なものではなく漠然としたものではあるが、これまで幾度となくナラダ国の危機を回避する助言をしてきた。
「『波紋を投げ掛ける者』か…」
 深く溜息を吐いた。
 グラザンの襲撃。【呪い】の解放。問題は山積みだ。そして、『波紋を投げ掛ける者』
 兄様も、ミュウも、抱え込もうとするからなぁ。
 更に深く息を吐き出して、天を仰いだ。天の河が静かに、見下ろしていた。




 戻れないと思った。この世に生を受けた瞬間から、戻る場所などなかった。自分には――自分達には、どこにも居場所などなかったのだ。

 マトゥーサが天に召されるのを見送った後、ミウカは自室に籠もりきりだった。赤銅色の瞳は闇が宿り、濁っている。寝台に腰掛け、灯かりも点けずに虚を見つめる。膝の上に投げ出された両手に、感触だけが残っている。ともすれば、その温もりも感じられるほどに。
 爪が食い込むほどに拳を握り締めた。
 月明かりだけの仄暗い部屋。赤銅色の髪が震えていた。
 あの時、温もりが還ってきたあの瞬間を、悔やんでいた。自分を責めていた。他の誰でもない。
自分が――あの子を殺した。
 何度繰り返せばいい!?何度同じ過ちを…!
「……っ!」
 両手で顔を覆う。馬鹿みたいに震え思い出しては血が逆流する。記憶の波が押し寄せる。
 ハルが昔のままだとでも!?
 いくら自身の甘さを罵り、嘲り、叱咤しても――信じられる彼はもういないのだと、五年前にしらしめられたとしても。
 それでも彼女は、彼女の心は信じようとしている。
 その想いに縋りつきたかったのだ。末端までは、奥の奥までは、朽ちてはいないのだと。そのために、同じ色を持ち、運命を分かち合ったことを周りから疎まれようと、憎まれようと、自分の中に吸収して押し込めておくことができた。
 自ら生を終わらせることも叶わない宿命を、甘んじて受け止められた。そう簡単には割り切れない感情が彼女の中に根付いていたから。


[短編掲載中]