マトゥーサを目の前で奪われ、少年の魂が煙と共に天へと昇る総てを、赤銅の瞳はここから見つめていたのだという。
 その丘に莉哉は座り、コウキの話を反芻する。立ち尽くす少女の残影を見た気がした。
 彼女の胸中を考えるだけで様々な感情が頭をもたげる。

 ――泣かないのではなく、泣けないだけだ。
 ――人前で泣くことを自ら禁じている。

 悔しそうにコウキは言った。
 笑顔を見せても、悲しそうに顔を歪ませても、一番きついところで彼女は誰も頼らない。そうしなければ殻を護りきれないからと突っ撥ねるように。
 人は誰でも、独りで生きていけるほど強くはない。彼女も判っている。それでも、芯の部分に他を寄せ付けず、独り歩んでいこうとする。
 コウキは判っているからこそ、踏み込めずにいた。踏み込んではいけない領域だと。それを望むことさえも許されない領域なのだと。
 マトゥーサを失った翌日、莉哉が召喚された。赤銅色が揺らいでいたように見えたのは見間違いなんかではなかった。あの場所は、人目のない森の奥地は、心の均衡を保つ為に必要な空間だったのだ。

 ――泣けないのではない。おそらく誰よりも泣き続けている。

 笑い、喜び、怒り、嘆き、悲しみ、憤り、どんな感情が表面にでていても、その頬が涙に濡れるのを見た者はいない。最後に見せたのは、五年前だった。
 だが、心は涙を流し続けている。血を流し続けている。




 城へと戻り、ミウカの部屋を訪れた。深夜で躊躇う気持ちがなかったわけではないが、顔を見たいと思った。話がしたい、と。
 かける言葉も、どんな表情をすればいいのかも、判らないまま。衝動にかられるまま、部屋の前にいた。
 ノックしても返事はなく、部屋近くの廊下でしばらく待ってみたが戻ってくる気配はなかった。それどころか、城には誰もいないかのような静けさが降りていた。
 仕方なく自室にあてられた使用人の棟へと戻ろうと歩いていた時だった。
 角を曲がる直前で、声が聞こえてきた。抑えて話しているものの明らかに口論であり、すぐに誰であるか判った。足音を忍ばせて、壁に張り付くようにして、角ぎりぎりまで近づく。
 顔半分だけ覗かせて、二つの影を確認した。
 怒気を露わに食って掛かるミウカと、優然と受け流すコウキ。莉哉の位置からだとミウカの背中と抜きん出たコウキの顔が見える。冷たいほどに碧眼は澄んでいた。
「自分の役割は近衛隊ではないのか!?しかも長だ!行啓について行かないなんて馬鹿な話があるか!」
「こんなことぐらいでいちいち騒ぐな」
「こんなことだと!?」
 コウキは長く深く息を吐き出した。
「なんと言おうとも、決定を変える気はない」
「ふざけるな!!」
 少女は腕を掴んで高い位置にある顔を睨み付けた。均整のとれた顔はどこ吹く風状態。眉一つ動かさない。
「理由を言え!」
「それはさっきも…」
「納得できる理由だっ!」
 数秒、コウキは自分を見上げる少女を見つめ、ふと目を逸らした。ミウカに呼び止められてからずっと、平行線な押し問答が続いていた。少々辟易する。
 本当の理由など言えば、益々意地になるだけだろうが。
 このまま時間が経過しても意見が接触する様子は全く見えない。さてどうしたものか、と考えあぐねていた。
「とにかく、数日で戻る。その間はここを護ってほしい」
「自分は街の自警隊でも城の護衛隊でもない!――…っ!」
 突然、少女が上半身を折った。胸を押さえ、ぐらりと躯が傾ぐ。
 反射的に飛び出していた。届かない距離だと頭は冷静に判断していたのだが。
 コウキは総てを見通していたように、優雅に、優しく少女を受け止めた。動かない細い躯を抱き上げる。
「リイヤ。いたのか」
 驚いた様子はない。おそらく莉哉が物陰に隠れていたことを知っていたのだろう。
「ずいぶん冷静だな」
 軽く息があがり、心臓は騒いでいた。また、支えられなかった自身の不甲斐無さにも腹が立ったし、コウキの冷静すぎるさまにもかちんときていた。
「こうなることは明白だったからな」
「どういう意味だよ」
 尖った口調をそのままぶつけていた。目蓋を降ろしたミウカの白い肌が月明かりに照らされている。
「ミウカの特殊な能力の代償、とでも言うべきか…」

 莉哉が目の当たりにした二つの能力。【保護壁】を創り出す力、そして、驚異的な速度で回復する治癒力。前者は自身の意志により、後者はそれとは関係なく発動する。
 治癒力の代価として、それは時として、少女の内部を蝕んだ。目に見えない誰かが――躯の表面だけは回復したように見せかけてやる、だからお前は平気なフリをして強がってでも闘い続けろと、嘲笑うような代償。少女もその囁きを受け入れてしまっている。
 変則的に訪れるそれ。ミウカがどんなに取り繕おうと、コウキを騙すことは出来ずにいた。

「こんな状態で警護など務まるわけがない。そもそも、実力は私の方が数段上だ」
「どこかへ行くのか」
「明朝、隣国フィーゴスへ発つ。このところ魔物の出没が頻繁にあるらしい。今はまだ国内の兵力だけで何とかなっているようだが、悪化するようだと援護も必要になるかもしれん」
 中庭で襲ってきた異形のモノ。姿を思い出し、身が硬くなる思いだった。
「とにかく、ミウカを連れていくわけにはいかない。数日で戻る予定だ」
「納得していなかったみたいだけど…」
「否応無しに、ついてはこれない。明日になれば判る」


◇◇◇


 ミウカを部屋まで送り、シェファーナに看病を頼んだ後、コウキは城のはずれにある一室に顔を出していた。
 テーブルを挟んで向かい合うターニアに真摯な視線を返していた。彼女もまた、悲色を含んだ瞳を向けている。
 予言を告げる度向けられてきたこんな視線に気圧されているようでは国専属の占者など務まるわけはなく、ターニアとしても慣れていた筈だった。が、この時ばかりは逸らしたい気持ちがふつふつと湧いていた。
 正直に見たものを告げるのが彼女の仕事であり、そこには含みや憶測が、ましてや脚色など混ざるのは言語道断だった。それさえ破ってしまおうかと迷わせる色が、目の前の碧眼にはあった。
 このまま話を打ち切ろうかと一瞬考えたが、すぐさま押し込めた。導くことこそ自分のやるべきことなのだ。
「なにか、手を打つべきです。このままではコウキ様は…」
 コウキは先ほどと同様に、無言で首を振った。自身の死期が近いと告げられて冷静にいられる者などいるのだろうか。ターニアの頭の中にはそんな疑問が浮かんでいた。――いる筈がない。
 長年近いところにいたのだ。幾度も予言を告げた直後の顔を見てきた。だからこそ判る。彼の中で、心の水面が波立ったのが。
 それでも尚、首を横に振るというのか。予言を受け入れるというのか。
「運命は変えられるのです。方法を捜しもせず、諦めてしまうのですか。貴方様はこの国を、次代を背負っていくことをお忘れですか」
 彼女にしては珍しい声色だった。感情を織り交ぜるなどこれまで一度もなかった。
 コウキはゆっくりと深く息を吐き出した。
「諦めるのではない。おそらく私の運命を変えることは可能だろう。…だが、ターニア。前に言っていたな。死の矛先を変えるに過ぎないと。そして、その先端が向くのは、その者の身近な者であると。…かつてのスラがそうであったように」
 コウキは遠い目をした。思い出すのは柔らかな微笑み。この手で二度と触れることのない、愛しい者。
「あの日、死の運命はミウカにあった。スラは知っていた。だからこそ、自ら犠牲になったのだ。お前の《透察眼》によって未来を伝え知り、スラは矛先を自身に向けさせた」
 ミウカもタキも、城の者誰もが知らない事実。コウキだけが気づいていた事実なのだと、彼は思い込んでいる。――それは間違いであるのに。
 ターニアは迷っていた。話すべきなのか否か。
 彼女の逡巡を意を突かれたのだと判断したコウキは黙って言葉を待った。
 ターニアは押し黙り、考えを巡らせ、小さく深呼吸をした。真実を告げるには、それを聞かなければいけないと結論付け、静かに口を開いた。
「無礼承知でお聞きしたいことがございます」
 口にするのさえ躊躇われていたこと。一人として投げ掛けることのなかった疑問。
「なんだ」
「ミウカ様を恨まれる気持ちは…」
「ない」
「コウキ様がミウカ様を大切にされておられるのは誰の目にも明らかでございます。ですが、」
 それ以上を続けるのは、憚られた。言い淀んでいるとコウキは皮肉な笑みを刻んだ。
「…ない、とは言い切れぬかもな」
「……」
「なくなった、と言うべきか。スラを失ってすぐ、ミウカに抱いた感情は、まさにそれと言えよう」
 五年前の過去に囚われ続けているのは、コウキだけではないのだ。果たすべきことは、真実を伝えること。
「スラ様はご自身でお持ちでした。私よりも遥かに明瞭な《透察眼》を」
 ここにきてはっきりと困惑の色を見せたコウキは瞠目する。自身の死期を知らされた時よりも動揺していた。
 最後まで言わなければ、ここで止めるわけにはいかない。畳み掛けるつもりでも、責めるつもりでもない。告げることが、彼女の責任なのだ。
「私が見るよりもずっと以前より、スラ様はあの日に起こる総てを知っておいででした。ミウカ様に死の運命が向いているのも、あの日、このナラダが滅びる運命にあったことも」
「スラは…知っていた?総て?」
「死の運命は、ミウカ様のみに向けられていたのではありませんでした。…皇族は、血筋は、根絶やしにされる筈でした」
 両手で顔を覆い肘を足の上に置くと、コウキはそのまま固まった。動けなかったし、それ以上口を開く気にもなれなかった。
 長く重い沈黙が落ちた。


[短編掲載中]