激しく雨が窓を叩きつける。
 日が暮れる頃になって振り出した雨は徐々に激しくなり、今では強い風に煽られ、さながら台風然として大荒れになっていた。
 携帯電話の切ボタンを長押しした。「See You」と数秒表示され、ぷつりと電源が落ちた。
 深く溜め息を吐く。真っ黒になった画面を見つめ、今だ残る朝香の笑顔を振りきるように首を振った。
 画面が見えないようたたむとベッドに放り投げた。突然窓の外から閃光が飛び込んでくる。少し遅れて、巨大な何かを転がしているような低い音。雷が混ざるようになっていた。
 激しく叩きつける雨の音に混ざって、ノックの音がした。シェファーナだった。
「雨戸を閉めに来ました」
 部屋に入ってこようとするシェファーナをやんわりと留める。彼女の手を煩わせることではない。
「そうだね、やっておくよ」
 莉哉の笑顔の意味を受け取って、申し訳なさそうにペコリとお辞儀した。おそらく彼女は他の部屋も廻るのだ。走っている所為だろう、少し息があがっていた。
 廊下を走って次へと向かう背中を呼び止める。
「手伝おうか」
「とんでもございません。お休みになっていて下さい。ありがとうございます」
 判った、と手を上げて部屋へ戻ろうとして、今度は莉哉が呼び止められた。
「うん?」
「あのっ…。一つお願いしてもいいですか?ミウカ様のお部屋がまだで。さきほど眠られたんですけど…」
 最後まで聞く前に「了解」と応じて部屋を出た。
 役目を与えられて嬉しかった。単純で些細な事なのに、子供じみてると嘲笑する思いすら、気にならない。
 元いた世界では絶対に湧かなかった――湧かないようにしていた――感情。胸の奥がくすぐったかった。

 扉の前で小さく深呼吸をしてノックした。
 雷雨は激しさを増すばかり。返答はなく、外音に紛れたのかもしれないともう一度叩こうとし、扉の内側から物がひっくり返り、落ち散らばった音がして、後先考えずに中へ飛び込んでいた。
「ミウカ…?」
 明かりの点いていない部屋は暗く、時折轟く雷光が室内を照らした。暗がりに差し込んでくる光に浮かび上がる塊が部屋の片隅にある。布に覆われたそれは、人がしゃがみ込んでいる形になっていた。
「ミウカ」
 びくん、と揺れる。顔は覗かない。更に小さくなる為に布を手繰り寄せた。遠くでゴロゴロと狭い間隔で鳴っている。
 恐いもの、あるんだな。
 剣を振るい、強い眼差しを持つ少女。恐れを知らぬそのさまは、時折少女であることを忘れさせた。だから、もともと小さな躯を更に縮込めて布に覆われている姿に、何となく安堵していた。
 膝をついて手を伸ばしかけた時、一際眩しい閃光と立て続けにお腹に響くほどの音。受け留める準備をする隙を与えず、胸に衝撃がきた。勢いに尻餅をついたが腕で支え、かろうじてそれ以上倒れずに堪えられた。
 胸の上に布の塊がくっついていた。細い指がそこからのぞいて、莉哉の服を握り締めている。
 布ごしに感じる鼓動が、莉哉以上に脈打っていた。無防備でか弱い存在。抱き締めようと動かした腕を寸前で止めた。片手を床につき、余った方で頭と思われる膨らみを宥めるように撫でる。
「大丈夫だよ。遠ざかってる」
 光と音がほぼ同時にきたのは一つ前のが重なったからだ。着実に間隔は広がっていっている。
 諭すように囁いた莉哉の声に隠れる音量で、何かが呟かれた。細い肩が震えている。
「なに?」
「…めん…さ…」
 紡がれる声も震えていた。何度も同じ言葉を繰り返してる。
「…なさい」
「ミウカ?」
 耳を寄せて初めて、言葉は形を成して届いた。それは、素の彼女から零れ落ちた思い。彼女の意識は、ここにはいなかった。
 単に雷が苦手なのではない。音や光に怯えているのではない。もっと深いところで、何かが彼女を突き動かすのだ。
「ミウカ…」
 カタカタと震える細い躯に触れぬよう、そっと抱き締めた。


◇◇◇


「目覚めはいい方なのか?」
 寝起きだからそうなのか、昨夜のことを聞いたからなのか、タキは莉哉の隣に座りながら、相当不機嫌だった。大儀そうに欠伸をし、中庭で鍛錬に勤しむミウカを見つめた。
「よくはない」
 別に喧嘩しているわけではないのだが、どうしても銀髪の兄弟には尖った口調になってしまう傾向があった。明確な理由がないのに、面白くない。
 この世界でなければ、こんな態度をとることは皆無だった。元の世界にいた頃は、いかにして巧く立ち回れるか、そればかりを考えていた。今だ元のペースに戻せずにいる。このままでも構わないか、という気さえしてくる。
「昨日はほんと参ったよ。兄様に頼まれたのに…」
 昨夜とはうって変わって快晴の空の下、タキはおよそ似つかわしくない辟易した顔をする。
「なんだって駆け付けたのがお前なんだよ」
 やっぱり不機嫌の原因は後者の方だったか。
 莉哉がミウカの部屋にいた頃、タキは皇帝に呼び出され放してもらえなかったそうだ。長兄がいない間も政は淀みなく進むもので、代行をタキが務めるのは当然で。
 徹夜明けだという。
 ミウカの様子で、コウキが心配していたのが躯のこと以上に、雷に対する怯えだということは判った。
 ごめんなさい――雷鳴轟く中、繰り返された言葉。
 理由を知りたい気持ちがない訳ではないが、本人にはとてもじゃないが聞けずにいた。タキならば知っているのだろうが、それを訊ねるのも憚られる。
「ミュウは、大丈夫だったのか?」
 心配しているのはこの弟も同じ。悔しがるタキに、少しだけ優越に浸ってしまった自分を反省する。
「なんとか、って感じかな」
「兄様がいればもっと違ったんだろうけどな」
 独り言のように呟いた。切ない想いを垣間見る。感情が伝染しそうで、つと視線をずらした。
「なぁ…」
「なんだ」
「……いや」
 二人で並んで座って、稽古に余念がない少女を見つめる。聞きたいことを聞ける気がしたのも束の間、やはり口を噤んでしまった。
 何でもない、と呟きかけて、タキの声が重なった。
「ミュウが何故、雷を恐れるのか」
 隣を見た。銀髪の少年は少しも顔を動かさずにミウカを見つめている。冷たい色の瞳に、ぬくもりを携えて。
「それが聞きたいんだろ?」
 お見通しだよと言いたげに。莉哉は何も言えなくなっていた。
「僕が話してもいいことではないから、本人に尋ねるといい。一つだけ言えるのは、あれは彼女の心の傷に深く関係している」
 相槌を打つことさえも許されない空気があった。聞くなという、暗黙の警告なのだろうか。
「生半可な気持ちでは、ミュウを受け止められないよ。覚悟があるなら聞けばいい」
「……」
 不意に、碧眼とかち合った。そこにはもう、ぬくもりなど微塵もなかった。あったのは――
「ただ君は、いずれここから去って行く身だろう?」

 言葉が、痛かった。


[短編掲載中]