これを聞くのは初めてのことだった。純粋に驚いた顔が莉哉の目の前にあった。
 誰から、と口を開きかけて、合点がいったように苦虫を潰した顔になる。
「優輔か…」
 気分を害したというよりは興を見つけたという風だった。
「正体不明。って言ったら怒るか?」
「別に怒ったりはしないですけどね。チラと聞いただけですけど、不思議だなって思いますよ。…誰とも付き合わないのは、その所為ですか?」
「せめて対象がはっきりすれば、理由になるのかもしれないけどな」
 そうじゃないから断るのに苦労するよ、と小さくぼやいた。
「胸にぽっかりと孔が開く、って感覚、判るか?」
 諒はずっと空を見上げたままだった。まるで天に召された恋人を見守るような優しい眼差しだった。
「虚無感、みたいなもんですか?」
「うん、そうかな。ずっとあんだよね、そーゆう穴が。ここにさ」
 胸のあたりを親指で差す。
「入院してたって言ったろ。目覚めた時にはすでにそんな状態で、ここに来ると埋まりそうな気がするんだ。大切ななにかをここで失った。捜しているものはここにある。…そんな気がしてならない」
 確実なものは何もない。失ったのか、人なのか、人ではないのか。そういう事実があったのかどうかさえも、定かではない。何もかもが不確かで。
 あるのは彼の中に根付く感覚だけで。
「おかしいと、思うだろ」
 自嘲気味に笑って人差し指でこめかみを叩いた。
「いえ。どちらかといえば羨ましいです」
 これまでに無かった反応だと言わんばかりに驚いた表情になった。莉哉は口元を僅かに持ち上げ、真摯な瞳で繰り返した。
「羨ましいですよ、そーゆうの」
 それは自分には経験のしたことない感覚だったから。
 心を、傷を、広げられないよう、抉られないよう、偽り、護るための手段を躍起になって捜してきた。いつだって表面を作ることに必死で、他に大切な『何か』が見つかることはなかった。
 諒には、失いたくないほど大切なもの、大切な想いがあった。それが何であったか本人にも判らなくても、自分ではない他にそういう感情を抱けたという事実が、羨ましかった。
「答えは見つからないかもしれない。もしかしたら単なる思い違いなだけかもしれない。それでも、自分の心に正直でいたいと思う」
 彼にはもう、明確な答えなど必要ないのだ。
「なぁ、莉哉」
「はい?」
「天の川、キレーに見えるな」
 つられて、見上げた。晴れ渡った夜空には満天の星が散らばり、降り注がんばかりに瞬いている。二人の真上に緩やかな曲線を描いた星の川が流れていた。
「…そうですね」
「知ってっか?フィンランドでは“光の橋”って呼ばれてるんだ」
「“光の橋”…?アメリカインディアンの間では天の川を『魂の道』という、ってのは聞いたことがありますよ。あちらこちらに光っている青白い星は、旅の途中の人々がとろとろと焚いている炎であるって」
「よく知ってんな」嬉しそうに笑うと諒は続けた。
「来世の土地へ続く道とも言われている」
 フィンランドの言い伝えはな、そう切り出して諒は目蓋を閉じた。

 昔、一組の夫婦が死後天へと昇った。だが、別々の星に住む運命となってしまう。
 二人は、愛する人と一緒にいたい一心で、千年もの月日をかけて、ついに天上に光の橋をかけ、両側からそれを渡ってシリウスで出逢い、そこで仲睦まじく寄り添うことができたのだった。

 講義する時の教師さながらに、滑らかに諒は話す。見上げた天の川は白く濃く、夜空を渡っていた。そこに道があるように。
「かれらはこつこつ働き、千年でつくりあげた。力強い愛の力で…。そして天の川はつくられた。星の光の橋のように…」
 ゆったりと詠うような諒の声は、夜気に優しく響いた。
「詩人、ザカリス・トペリウスの詩だ」
 死して尚、千年かかっても、想いは消えない。強い想いがあれば、再び出逢える。
「“光の橋”を作り渡ることができたなら、出逢える気がする」
 諒の独り言は、莉哉の耳に届いていた。
 明確な答えは要らない。でももしも、そんな奇蹟が起こせるのなら、知りたいと願う。
「早くそんな相手を見つけなさい、とゆーことだな。莉哉くん」
 がらりと口調を変え、ぽんと肩を叩いた。立ち上がり岩から飛び降りる。
「諒先輩」
 すでに歩き出していた諒は振り返らずに片手をあげた。
「先戻ってるな。遅くならずに帰ってこいよ」
 ひらひら振られた手が夜の色に紛れて消えるまで見送ると、首を元の方向へと戻した。俯くと、深い溜息が出た。
「お見通し、か…」
 腹立たしさより、満ち足りた気持ちが込み上げていた。
 朝香のこと、ちゃんとしなきゃな。
 彼女にも、自分にも、嘘を吐いているのは辛い。
 両手両足を投げ出して仰向けに寝転がった。日中の熱を吸い取った岩は冷め切っておらず、仄かに温かかった。
 とうとうと流れる天の川。天に抱かれてる錯覚に陥りそうになる。なだらかな時間。
 と、視界の端にキラリと瞬く光が入ってきた。
 上半身を起こし、そちらの方向を見つめた。林の中で、また光る。
 何かに反射して光っているわけではなく、自らの意志で、不定期な間隔で光っている。信号を送るように。
 昼間この辺りにきた時にはなかったもの。明るかったから目立たなかった、というほど弱い光でもない。
 しばらく動かずにじっと熟視していた。突然、天を貫く光の筋が天の川へ向かった。一瞬のことで、光が消えると地上には薄ぼんやりとした光源を残し、それも吸い込まれるように消えた。
「…なんだ?」
 怖い、という感覚はなかった。自然の豊かさにほだされたのは自分の方だったのかもしれない。そんなことを考える余裕すらあった。何より、自分を呼んでいるような気がしたのだ。
 光の残滓を求めて、莉哉は歩き出した。


 暗がりに浮かび上がる輪郭。雨風にさらされ、荒廃した古跡。今日の昼間には間違いなくなかった遺跡が今、莉哉の前に姿を現していた。
 林に足を踏み入れて幾許もしない内にそれはあった。壁は剥げ落ち、所々崩れ落ちている。外れ掛かりぶら下がるだけの扉。隙間から見える内部は闇だった。
 気後れはなかった。
 躊躇うことなく、誘われるように、莉哉の躯は遺跡へと吸い込まれていった。

 ――ひと雫でいい。波紋を投げ掛けて…。そして、助けてほしい。

 頭に直接響く声。不安、憂虞、悲涼、哀思、愁悶。内に対する呵責。負の精神が混濁した声。
 過去に何度となく耳にした。自分はそれに呼応している。この声が求める先にいたのは、自分だった。
 一寸先も見えない暗闇に包まれ、莉哉は目蓋を閉じた。響き流れ込んでくる声に、気持ちを傾ける。君は誰なのかと問い掛ける。
 誰も、何も、答えない。
 やがて引き摺られるように、意識は深く奥へと沈んでいった。
 次に目蓋が開かれた時には、彼の躯は砂漠の真ん中に放り出されていた。


[短編掲載中]