「…ルーリの花、枯れちゃってる」
 リーテは崖っぷちから身を乗り出して、萎れて茶色く変色した花を見つめた。乳白色の美しい花弁を凛と咲かせていた花の、かつての姿を思い描く。
「ほんとだね。…また、捜さないと」
 リーテ同様覗き込んでいたシアは小さく溜息を吐いた。崖の底から吹き上がる冷風に身震いし、淵から身を後退させる。
「どうしようか。この辺りには無さそうだね。香りが全くしない。シアは判る?」
 諦め切れずに絶壁に視線を巡らせているリーテ。どうしても今日摘んで行きたかったのだ。焦燥にかられる妹の気持ちは判らないではなかったのだが、新たに群生場所を捜すとなると、とてもこの時間からでは無理だった。
「今日は諦めよう。城に戻ってレフローに視てもらお?」
「けどっ…」
「リーテ。しょうがないよ。これから大事な夜会があるだろ?さぼるわけにはいかないんだ」
「うー…。じゃ、じゃあ!明日朝一で捜しに来よう。ね、約束!」
 小指を立ててシアの顔の前に差し出す。同じように立てた小指を絡ませて、二・三度上下に振った。そのまま手を取ると繋いで元来た道を引き返した。
 今朝、双子の母親の病状が悪化した。元々躯は丈夫ではなく、産後は伏せがちになっていた。そんな母親が病床で楽しみにしていたのが、ルーリの花だった。
 死期が近いことは、本人も、誰もが知っていた。子供達には隠し通すようにと周囲は留意していたが、当人達は気づいていた。言葉にされなくても、感じていたのだ。
 だから、どうしても母親に花を渡したかった。微笑みの裏に隠された心労を、少しでも和らげてあげたかった。綻ぶ顔が見たかった。
 そんなことにばかり集中していたから、幼すぎたから、二人は知らなかった。花よりも何よりも、子供達が少しでも多くの時間を共に過ごしてくれることが、安らぎになるということを。


 準備は滞りなく進んでいた。
 豪奢な装飾をそこここに飾り立てた大広間。天井は見上げるほどに高く、そこにも均整のとれた彫刻が施されている。数々の豪華な美術品は惜し気もなく配置され、立食式の会場には数えきれぬほどの料理が運び込まれていた。
 広大な城のとある一室では、双子が支度に追われていた。実際忙しく立ち振る舞っていたのは数名の女官達で、双子はその中心にいて着せ替え人形さながらに突っ立っていただけなのだが。
 正装は堅苦しく早くも開放されたい気持ちで一杯になっていたのだが許される筈もなく、されるがままになるしかなかった。
 本来であれば警護にあたるのに会場に配備されることはあっても、いくら皇室付とはいえ夜会に正装で参加することなど有り得なかった。今夜は特別だった。
 通例のそれとは違い、栄誉の授与式が行なわれる。まだまだ少年少女の域を出ない年齢だとはいえ、双子の力量を疑う者はおらず、あくまで形式的なものではあるが確然の地位を手にすることになる。
「さ。出来ましたよ。素敵でございます」
 初老の女官は皺々の手をリーテの手に重ね、穏やかな笑みを向けた。普段着慣れないドレスに身を包まれ、動く度にじゃらじゃらと鳴る装飾品に口を尖らせた。鏡に映る自分はほんのり化粧をされ別人のようだった。
「あら。そんな顔をされては折角のドレスが台無しでございますよ」
「動きずらいよ。飾りとか邪魔くさいし。もっと簡素なものはないの?」
 もぞもぞと居心地悪そうに身じろぎする。
 初老の女官は双子が産まれるよりも以前から城に仕えており、女官長で二人の教育係でもあった。厳しい顔つきの多い彼女が今日は浮き足立っている。
「ねえ、マデラ。なにかいいことでもあった?」
 不満げにドレスを引っ張りながら、終始笑みのこぼれる女官長――マデラの顔をまじまじと見つめると疑問を口にした。マデラはそんなリーテの手をやんわりと押し退け、仕上げを整える。
「リーテ様もシア様も、本当にご立派になられました。このようなお姿を拝見する日がくるなんて…。こんなに嬉しいことはありません。お母様もお喜びになられていますよ」
「ほんと?母様も嬉しいことなの?」
 母親という単語に素早く反応して、喜色を露わにする。その反応に女官は笑みを深くした。頷いたのを見て、笑顔のままシアを振り返る。
「聞いた?ね、母様に見せに行こうよ」
 うって変わって上機嫌になったリーテはドレスの裾を持ってくるりと回ってみせた。
「ゲンキンだねー、リーテは。でもその意見に賛成!…ちょっとくらいならいい?」
 最後はマデラに向かって言った。遅れて支度の整ったシアもリーテと同じ顔で嬉しそうに笑っている。双子の母は起き上がるのもままならないほど体調を崩し、夜会の欠席が決まっていた。
「では、今から参りましょうか。少しだけですよ?」
「うん!」
 声を揃えて手を取り合った双子は軽い足取りで部屋を出た。
 だが、目的の部屋に辿り着く前に、轟音にその歩みは遮られた。
 城が揺れた。瓦礫の崩れる音。悲鳴。
「なに!?」
 素早く見渡し、音の原因を探る。あどけなさは掻き消え、騎士の顔へ変化した。
「リーテ!あそこ!」
 指差す方向は、夜会の会場となる場所だった。天井部に大きな穴が開き、煙が見えた。この時間ともなればすでに参加者の大半がそこにいる筈だった。
「急ごう!」


 大広間は惨憺たる有様だった。
 絢爛豪華な内装はその輝きを失い、塵と破片に煤けていた。煙が燻ぶり、動かぬ屍となった者達の死臭が鼻を衝く。足を踏み入れ急停止し、思わず後退る。油断して空気を吸い込んでしまったリーテがむせ咳き込んだ。
 視界は悪いが見えないほどではない。リーテを庇うように一歩前へと立ちはだかったシアは、状況を把握しようと通観した。その間にも生命のある者は我先にと双子の脇をすり抜け出て行く。
 奥で蠢く巨大な影を見つけた。人のそれとは掛け離れた異形のモノ。
 数多ある闘いの中には、敵が人でなかったことは勿論あった。魔物が当たり前に存在する世界で、人害が及べば討伐に出ることも一度や二度ではない。戦況を潜り抜けてきた双子にはその経験は知識として、また文献から知りうることも多々ある。だが、その培われた知見をフル回転しても当てはまらない。
 勇気ある者なのか、取り残され退路を絶たれてしまっただけなのか、異形のモノに対面している数名の騎士の背中があった。剣を構えているが逃げ腰で、完全に戦意喪失だった。
 相手が誰であれ侵入者であることに変わりはない。幼い頃より叩き込まれてきた騎士精神には退却という文字はなかった。敵がいれば、向かうのみ。
 一見しただけでも被害は甚大だった。これ以上の犠牲者を作るわけにいかない。
 床を蹴り駆け出そうとして、腰元に手を当てた。常とは違う感触に視線を落とす。そこにあったお飾りの剣を腹立たしげに床へ叩き付けた。
 夜会に臨席するにあたり愛剣の帯剣が禁じられていた。豪華な虚飾の剣。今更になって気づいた失態に舌打ちし、傍に倒れていた警護兵の剣に手を伸ばした。
「シア様!これをっ…」
 息を切らしながら走り寄ってきたのはマデラだった。腕に二本の剣が抱えられている。
 愛剣を受け取るや抜剣する。リーテは動くのに邪魔な装飾を総て外し、ドレスの余分な部位を切り捨てた。
「ありがとう。ここは危険だからすぐに離れて」
 はい、と応じようとして、マデラの視界に異形のモノが入った。短い悲鳴をもらし、ヘナヘナとその場にへたり込んでしまった。長く生きてきたマデラでさえ、知り得なかった魔物。
「マデラ!」
「も、申し訳ありません。すぐに…」
 立ち上がろうとする意志は汲めるのだが、躯が応じてくれない。震える腕を床に押し付けるのが精一杯だった。
「無理に動こうとしないでいいよ。だけど動けるようになったらすぐにでも退却して。他の者もできれば城の外へ」
 肩を掴まれ、力強い言葉にマデラは大袈裟なくらい大きく頷いた。

 この世に生を受けてから十数年しか生きていない赤銅の瞳。闘う為に育てられ、己の生き方に疑問を抱いたこともない。その強さはどこから湧き上がるものなのか。
 肩に触れる手は、こんなにも小さいというのに…。
 闘いの場面に出くわす度、マデラの胸中は痛いほどに騒いだ。城下街では同じくらいの年頃の子供は親の加護の元、のびのびと育っている。宿命などという重い枷を持つこともなく。
 不憫に思ってしまうのは、単に自分が傲慢なだけなのだろうか。
 身を翻し颯爽と敵に向かっていく小さな背中を見送りながら、マデラは目の奥が熱くなるのを懸命に堪えた。


[短編掲載中]