黒い異形のモノは長い二本の首の先にある二つの頭を忙しなく動かし、双子の登場にそれぞれ咆哮した。耳障りな叫び。狼の顔型に赤い瞳孔が邪悪に光り、それはゆっくりと縦に細められた。ドラゴンのように骨張った翼が熱風を捲き起こす。
「なんだよ、こいつ…」
 熱風が去ると顔を覆っていた腕をどけ、目の前の魔物を凝視した。
「こんなの見たことない」
 口々に所見を述べたからといって答えが返ってくるものではなかった。だが、状況を把握するには充分な人物を見つけ、歳に似合わぬ皮肉な笑みを口元に刻んだ。
 魔物の影から姿を見せたのは、クエン国グラザン隊の第一部隊隊長――ガルクだった。
「ガルク…!」
 噛み付きそうな勢いを押し殺してシアは低く唸った。
 チャキ、と剣を構え直し、今にも飛び掛かりそうな気配を露にしたリーテを制した。
「どうやって侵入した」
 含意のある言い方だった。リーテにも、シアの質問の意図するところは判っていた。
 …まさか…?
 浮かんだ疑惑を慌てて消した。彼を疑うなど、あってはならない。否、疑いたくなかったのだ。
 今は、この闘いに集中する!
 視界の端に捕らえているシアも同じ考えでいた。ガルクは沈黙している。興を見つけた目で二人を見下ろして。
 魔獣は後ろに控え攻撃の様子はなかった。低く威嚇をしてはいるが、動き出す気配はまるでない。
 ガルクが操っているのか?人に従う魔獣など、聞いたこともない。
「ゲリューオン」
「…なんだ」
「御方の名前だ」
 そう言ってガルクは掌で背後を示す。一瞬、二人には何を言っているのか理解できなかった。予測していなかった台詞に茫然とするだけで。
 ガルクは更に興の色を濃くして、いっそ笑い出しそうなくらいに顔を歪めた。
「人の言葉が話せないのでな」
 ふざけるな、と言い掛けて飲み下した。目に宿るのは真摯な光。戯言を口にする人物でないのは百も承知だ。
「御方、だと?」
「そうだ。…ナラダの守護神。赤銅の剣聖なる騎士。誉れ高き双子。称賛を浴びる月日は堪能されたか?」
 謡うようにガルクは抑揚をつけて両手を広げた。
「それも今、この時で終わりを告げる。遺言があれば承るが?」
「戯言を!」
 言葉と同時に飛躍したシアの剣が軌跡を描いた。あとには刃のぶつかり合う音。
 両手で剣撃を繰り出したシアに対し、片手で剣を持ち、防ぐ。過去幾度となく剣を交えてきた相手だ。力の底を知っている筈だった。こんな簡単に防がれることはなかった。
 力を出し切っていなかったということか!?…それとも、僕の慢りだったというのか!?
 愕然として意識が一瞬闘いから逸れた。リーテの声で覚醒する。あと一息遅れていれば肌を切り裂いていた。
 ガルクの剣を寸ででかわし、後ろに飛び退いた。服の表面が裂ける。まがまがしい何かが、ガルクから感じられた。
 今までと、違う?
「ゲリューオンは赤銅を食い潰す。今宵は双子の命日となる」
 ガルクの言葉を合図に、脇に控えていたグラザンの先鋭が一斉に仕掛けてきた。
 先程までゲリューオンに対峙していたナラダの騎士は驚愕に目を見開き、震える手で握り締めた剣を構えながらも、少しづつ後退していた。魔獣の放つ異彩な威圧感は、双子でさえも息を呑むほどで、いくら鍛えられたナラダの騎士でも仕方のない反応だった。護らねばならぬ対象がいるというのは弱味を握られていると同等。闘えぬのならこの場より退却してもらうのが先決だ。
 グラザンは戦意の無い騎士には見向きもせず、双子だけを攻撃している。柱にもたれかかり立っているのもやっとの騎士がシアの視界に入った。ゲリューオンを凝視し、すでに剣を構えてもいない。
 絶え間なく攻撃してくるのをかわしながらでは顔どころか目線を送ることも不可能だったが、その騎士に向かって声を張り上げた。
「今のうちに、早く!!」
 シアの怒号に我に返るとぎこちなく首を動かして双子の方を見た。
「他の者も!退却をっ…!!」
 やっとのことで頷くと、他の数人も踵を返す。次々と出口を目指す背中に声を張り上げる。
「マデラを、頼む!!」
 シア同様に複数のグラザンを相手にしていたリーテが去っていく者に向かって叫んだ。最初にシアに声をかけられた騎士が振り返り、返事をしようとして、
 奇妙な音がした。
 双子の脇を、漆黒の瘴霧を纏わり付かせた【何か】が通過した。完全に振り返ることなく、騎士の首から下が中途半端な方向によじれ、崩れ落ちた。
 黒く伸びた【何か】の先端から赤いものが流れ落ちる。頭部を失い倒れた騎士の上に、小さな滝のように。
 ゲリューオンから何本もの触手が伸び、退路を目指す騎士を次々と喰っていく。ぷつりと悲鳴が途切れ、骨の砕ける音。肉の噛み下す音。飛び散る赤い液体。ほんの数秒間の地獄絵図。
 闘う意志を失った者にも容赦はない。
 やめろ、と叫ぶ間も与えられぬまま。異様な静寂が訪れる。
 マデラ…!
 間に合うわけはなかった。頭では冷静に事実を黙認していても、理屈じゃない心が衝動を突き動かす。躯が翻る途中で再び空気の切れる音を耳にした。
 自分達を容易に追越し、触手はマデラを的確に捕らえていた。名を呼ぶ叫び声と同時に到達した触手は、マデラを食い千切らず胴に巻き付いた。
 恐怖に見開かれた瞳と刹那、見つめ合う。
 もう一度名を呼びマデラの口から声が発せられる前に、ぐんっと彼女の躯が歪んだように見えた。伸びた時と変わらぬ速度で触手は本体へと戻っていく。
 双子の目の前を通過する時に伸ばした指先が彼女のそれと僅かに触れた。掴めず、温もりも判らないほどの触れ合い。
 幼き頃、時には叱り時には抱き締めてくれた温もりが、瞬時に遠退いていく。他には何も目に入らなかった。視界に捕らえていたのはマデラだけ。せめて彼女だけでも救わなければ。でなければ一瞬で生命を奪われ、救いの手さえも出せなかった騎士達に顔向けできない。
「人質など、らしくないな」
 口元を僅かに持ち上げた。少年特有の滑らかな頬に、冷たい汗が滴った。
「そう、思うのか」
 ガルクの笑みは背筋が凍るほど冷淡だった。人間味のまるで感じられない、絶対零度の微笑み。人間の皮を被った、他のモノになったかのような。――後ろに控えるゲリューオンの化身のような。
 合図を送っていなくとも、双子は同時に地を蹴っていた。シアは上段へ。リーテは這うように低姿勢で。
 リーテは上辺だけ攻撃すると見せ掛けて、ガルクに対し剣を振った。そのまま通り抜け、ゲリューオンの脇へと滑り込む。大きく飛躍したシアはマデラを捉える触手よりも上に飛んで狙いを定めた。
 二人の目にはマデラしか映っていなかった。自分達の背後で、ガルクが優雅に手を挙げたことなど、見えるわけもなく。
 あと数ミリが、届かなかった。
 振り下ろされたシアの剣が、空を切った。落下するマデラの衝撃を少しでも和らげる為、下に構えていたリーテの目が見開かれる。
 ぐわっと大きく開かれた先端が、獲物を丸ごと飲み込んだ。喉を通過するように、触手の中をマデラの形をした塊が胴へ向かって流れていく。引力に躯が傾いていたシアは、触手に右足をかけ、塊目掛けて一蹴りした。胴に繋がる部分に狙いを定めたリーテが下から仕掛ける。
 双子の剣が上下から触手を切り落とすよりも先に、塊は吸い込まれた。
「マデラーッッ!!」
 切り落とされた触手はのたまり、瘴霧を拡散した。床にどす黒い痕が残る。腐敗した匂いが鼻をついた。
「…っつ!?」
 着地と同時に片膝を折り、体勢を崩したシアが右足を押さえうずくまる。
「シア!?」
 触手に触れた部分が床と同じように燻ぶっていた。どす黒い痣が穿っている。額に脂汗が滲んだ。
「ゲリューオンの癪霧は猛毒だ。その身が滅ぶまで蝕み続ける」
 さも可笑しそうに声を低くしてガルクは笑い、顔を歪めた。
「だが安心するがいい。マデラとやらにはすぐに会えるよ。このゲリューオンの中でな。…もっとも、お前達が行く頃には形も判らないくらいに溶けているだろうがな」
「貴様…」
 奥歯を噛み締めた。柄を握る手に力が入る。怒りで音がするほどに震えた。
 シアをその場に残し、ガルクへ刃を向け駆け出した、制止の声を振り切って。頭の芯が煮えたぎる。赤銅の髪が軌跡を描いた。
 脳裏に、マデラの記憶が鮮明に蘇る。様々な表情が巡る。
 ――こんな形ではない。
 彼女が自分達より先に去っていくのは、決してこんな形ではなかったのだ。


[短編掲載中]