傾倒は崩壊を導くものなのか…。

 漆黒の魔獣がゆらめいた。
 少女が気配を察知した時にはすでに遅く、ゲリューオンの巨大な口腔が唾液をひきながら開け放たれた。一瞬の遅れが招いたこと。――肢体が牙に貫かれる。
 リーテは判っていた。…予測していたのだ。シアを見つめる細い笑みは、そう伝えていた。
 意識を紡ぎ続けるのは容易ではない。闘いながらでは尚更で。限界は近かった。【保護壁】を他へ移す時に生じる隙を見逃される筈はなく、攻撃が降ることは承知で。
 それでも、自分の生命を顧みず、護りたいと切に願うものは少女にもあったのだ。
 かち合う赤銅の瞳。言葉がなくとも想いは流れてくる。二人にだけ伝わる情。少年の心が恐怖で慄いた。
 みるみる赤く染まっていく半身。半分以上ゲリューオンの口内に取り込まれ、牙の隙間から力無く垂れている腕が、指先が小刻みに痙攣していた。自分が傷つくよりも痛い。
 再びシアへと向けられたガルクの剣は透明な壁によって遮られた。
「まだ粘るか」
 ガルクは舌打ちし、剣撃を連打する。リーテの意識が強く紡がれている限り、【保護壁】が損壊することはなかった。透明で滑らかなそれは、幾度剣を衝き立てられようと僅かな傷もつかない。
 眠りに落ちるようにゆっくりと、少女の目蓋が閉じられた。シアの中の何かが、途切れる音が頭の奥で鳴り響く。
「消去しろ!聞こえてんだろ!?リーテ!!」
 握りしめた拳で壁を叩く。無我夢中だった。見えるのは真紅に染まった、対。
 内側からだとて壁が壊れるわけはない。そしてシアは失念していた。冷静であれば判かっていたことだった。壁があったとしても、剣を振るうことは可能なのだと。一個人を対象にした小規模の【保護壁】が動きを制限しないことを、シアは身をもって知っていたのに。それさえも思い返せないくらいに感情が錯綜していた。
「ちくしょう…」
 両の拳を壁にあてがったまま、シアはうな垂れた。
「…ア、シ…ア」
 小さく掠れた声。いつも隣にあった声。目の前に確かに存在する壁は彼女の強さを宿している。
 弾かれたように顔を上げた。少女の指先から血が伝って落ちる。落下地点には血溜まりがその面積をじわりと広げていく。ぎこちなくリーテの瞳が開かれた。その中には鮮烈な光が見えた。
 まだ、終わってない。僕が諦めるわけにはいかないんだ!
 きっ、と正面を見据えた。ゆるりと立ち上がり、剣を構える。【保護壁】はシアにぴったりと寄り添い形を変える。
 いつも、どんな時でも一緒だった。一人ではない。こんな状況でも二人で一人なのだ。約束は護る為にあるのだ。
 左足で踏み込んで横に薙いだ。光を伴って軌跡を描く。半歩下がってかわしたガルクに間髪入れず次の一手を繰り出す。
 足の痛みは不思議と無かった。消えたのではない。意識が当人の与り知らぬ所まで超越し、そこに留まらなかっただけのこと。這い上がる痣の感覚は確かにあった。けれど今はそれを気にするべきではないのだ。
 ガルクとて防戦に徹する気は毛頭なかった。充分な間合いができた瞬間に攻めに転向し、一触即発の攻防が続く。
 これまでのガルクであれば実力でシアに勝てることはなかった。幾多の闘いで雌雄を決してきたのは単に、グラザンの数が優っていたからに過ぎない。一対一であれば勝敗はとうについていたのだ。
 だがそれは、過去のものになっていた。――実力はほぼ互角。右足を精神力だけで補填しているシアの方が押されているくらいだった。
 足さえまともに動けば…。早くっ、早くしないと!
 剣をかわし、攻撃を繰り出し、隙を捜してはリーテを見た。目に判る速度で蒼白になっていく。心が逸るばかりで、シアの攻撃にむらが生じ始めていた。
 心地の悪い汗が額を流れた。
 足元を揺るがす咆哮が耳を貫いた。大広間がビリビリと振動した。シアもガルクも、思わず静止し、蛮声の方向に顔を向けた。
 漆黒の巨大な影が風を巻き起こしながら前足を振りかざした。開け閉てられる喉の奥から獰猛な音が発せられる。
 魔獣を凝視した。ゆっくりと落ちてくる前足の動きを目で追う。ゲリューオンの足が着いた衝撃で床が揺れ、シアは躯のバランスを崩した。咄嗟に近くにあった柱に手をつく。
 それでも視線は外さなかった。ある筈の姿が、見当たらない。牙の隙間にも、地にも。欠片も、ない。背中を寒いものが流れ落ちる。
 ゲリューオンの口から、おびただしい量の鮮血が音を立てて床に落ちた。
 呑まれた!?
 名を呼ぼうとして、開いた口がそのままの形で固まった。捜していた色が、ガルクの背後に現れた。狙われたガルクは振り返る間も与えられず、光が薙いだ。
「ぐぅ…っ!?」
 完全に油断していたグラザンの将は、呻いて上半身を折った。ぐらりと傾いだ男の陰から鮮やかな赤銅の長い髪を流した少女が凛と立っていた。
 致命傷ではない。だが闘い続けるには大きすぎる傷がガルクの脇腹にあった。
「生きてたのかっ…」
 苦い物を噛み潰したような顔をする。少女の愛らしい口元は雄毅に満ちていた。
「あたしは死なない。あんた達を倒すまではね」
 剛勇なさまは今までの彼女と何ら変わらない。声も、表情も、話し方も。けれどその体躯は痛々しいほど血に染まっていた。牙に貫かれたのは一箇所のみ。鮮血は総てを奪うかのごとく生々しく流れ出ている。
 ガルクの鼻先に剣を突き立てたまま、ぐるりと廻ってシアの傍へ寄ってくる。柱についてない方の腕を支えるようにして掴んだ。還ってきた温もりにほんの少しだけ安堵した。
「平気?」
 覗き込んでくる瞳に揺らぎはなかった。
「僕は…」
 大丈夫だと言おうとして、激痛が全身を貫いた。びくんと躯を仰け反らせ、痙攣を押し留めようとする。
「シア…ッ!」
「…っぶ!だい、じょ…ぶ。…っ!」
 うずくまったシアを抱き締める。しばらくして震えも止まり、数回背中を撫でて宥めるとリーテはすっと立ち上がってガルクに向き直った。
 漆黒を身に纏ったガルクも姿勢を正し対峙した。はたから見れば両者共剣を振るうどころか、立っているのも不思議なくらいだった。
 奇妙な静寂が落ちた。
 動くものは何もない。息づくものは何もいないかのように。――奇妙な時間だった。
 広間の外で繰り広げられる惨劇は、まるで彼方での出来事のように遠く聞こえた。
 獣の呻き声がガルクの背後からした。口内から血を垂れ流しにしたゲリューオンの真っ赤な瞳孔が凶悪に細められ、リーテを捕らえた。前足から覗く鋭利な爪が床を蹴って不快な音を発する。
 傷を負って尚、魔獣の動きは敏速だった。ガルクには目もくれず跳躍したゲリューオンが途次にいた彼を弾いた。避けるのが遅れた所為でガルクは数メートル飛ばされ壁に叩きつけられる。
 少女はその場から動かずに向かってくる漆黒の影を睨み付けていた。再びリーテを噛み砕こうと口が開けられる。血の混じる唾液が飛び散った。
 心は凪いでいた。恐怖も、憤りも、憂いも、何の感情も湧かない。
 覆い被さる口。陰が少女を隠す。喉の奥から吐き出される湿気を帯びた呼気が全身を纏った。
 リーテは構えていた愛剣を天に向かって衝き立て、踏み込んで飛躍した。肉の裂ける音が耳のすぐ傍でする。

 数秒前、シアは目を見開いて目の前の光景を見ていた。
 自分が立てないことも、痛みが蝕んでいることも忘れ去り、ただ凛と立ち尽くし、魔獣を迎え撃とうとしている己の半身を凝視した。
 軽捷な筈の動きはひどくゆっくりに見えて。何故避けないのかと、叫んでいた。
 一瞬、少女が振り返り、微笑んだ。そして大きく開け放たれた口内へ再び取り込まれていく。
 考えるよりも、感じるよりも、躯が動く。少年は少女の名を呼び、魔獣の頭上目掛けて跳躍した。脳天に剣を衝き立てる。

 耳をつんざく悲鳴が大広間の遥か高い天井まで木霊した。

 ゲリューオンから飛び降りると同時にリーテを連れて横に飛び退いた。数転、一緒くたになって床を転がった。回転が止まり互いに抱き起こすと、のたまう魔獣を見守る。
 正気を失い、触手をあちらこちらに縦横無尽に伸ばし、そこここにある物を破壊していた。目は大きく開かれ、おぞましい雄叫びを発している。
 我を失い、破滅的に暴れているだけの獣。照準は双子になかった。
 やがて動きが鈍くなり、力を削ぎ落とし、流れ出る血もなくなって、ゲリューオンは屍と化した。漆黒の塊から闇色の噴霧を全身から吐き出し、本体ごと拡散した。
 跡形残らず、消え失せる。
 しばらくの間、呆然とゲリューオンの消えた箇所を見つめていた。
 小さく呻く声が聞こえて覚醒すると、壁に寄り掛かり足を投げ出しているガルクに近寄った。彼の剣を手の届かぬ位置まで蹴り飛ばし、目線を合わせてしゃがんだ。
「クエンはどんな状況だ」
「…お情けを、与えて下さるというのか」
 ガルクは自嘲気味に鼻で笑って双子を睨み返した。少年は無表情のまま見据えていた。
「勘違いするな。僕達が危惧しているのは皇帝やグラザンの兵ではない。過酷な環境下にあって更に虐げられてる民衆を憂えてる」
 だがもしも、ゲリューオンなど崇めることもなく、侵略の意志を改めるのであれば、酌量の余地はあるのだという含みはあった。
 相変わらず、甘い。ガルクは心の内で毒づいた。皮肉な笑いが込み上げそうになる。
「あんたからは聞きたいことは山ほどある。死ぬのはそれからにしてくれ」
 突き放した言い方をしていても、根っから冷徹に撤せないことは承知していた。それは彼等の弱さでもあり、強さでもあった。
 情報収集の為に生かしておく、第一にある理由に違いはなかった。だが真意が別にあることを、ガルクは知っていた。
 無益な血を流すことを最も嫌っている。
 闘いに迷いを見せたことは一度もない。向かってくる者には徹底して剣を振るい続けてきた。微塵の迷乱もなく。
 そうしなければ生きてこれなかったのだ。けれど誰かを斬る度、息を引き取る瞬間を見取る度、その小さな躯に隠した本懐が悲鳴をあげてきた。
 ガルクは幾度もの闘いを思い起こして苦笑した。おそらく、情報を得ようと…得られずとも、捕虜として生かし続けるだろう。
 のうのうと生き恥を晒すなど笑止!
 剣は取り上げられ、どちらにしろ指一本動かす力もガルクには残されていなかった。僅かに俯いた頬に乱れた髪がかかり顔を隠した。だから双子は気づかなかったのだ。その口元に笑みが浮かんでいたことに。
 つと上げた瞳とかち合った。挑むような視線だった。騎士としての、最期の誇り。
「私は、道案内役にしか過ぎぬ」


[短編掲載中]