言葉を残したガルク。そこにある決意を双子が読み取った時には手遅れだった。閉じられた唇から一筋の液体が伝い落ちた。二人が延ばした手が到達する前にガルクは絶命した。太股の上に投げ出されていた手がずり落ちる。
「毒を、仕込んでいたのかっ…」
 奥歯を噛み締めた。
「なん、でっ」
 床に拳をぶつけ、リーテはうなだれた。
 何故、死を選ぶ。何故、歩み寄ることが不可能なのだ。いつ、この争いはなくなるのだ…。
「ぐっ!?」
「シア!?」
 ガルクを挟んで対極にいたシアは右足を押さえていた。
「ゲリューオンの瘴霧!?」
 本体を失って尚、黒い渦は蠢いている。それ自身が一つの命のごとく。這い上がる痣は太股の付け根にまで達しようとしていた。
 これまで押さえ込まれていた痛みが一気に解放され、全身を駆け巡った。ガクガクと痙攣する躯を押さえ込むことも叶わず、大きく傾いで床に崩れた。
「シア!!」
「…って」
「え?なに?」
 噛み締める歯の隙間から漏れ出る声。擦れた苦しげな。
「なにっ!?」
 耳をそばだて顔を近付けた。吐息がかかる。
「…の、足…を、斬っ、て…」
 リーテに剣を握らせ右足にあてた。
「な、にを…」
 自身が発した言葉とは裏腹に、兄の伝えたいことは充分判っていた。ゆるゆると首を振る。判ったからとはいえ了承できる筈もなく。拒否するのは至極当然で。
 どれほどの痛みなのか、判らないわけではない。兄がここまでの表情を見せたことはなかった。だからといって、斬れる筈はなかった。絶対に、ない。
 苦しむ姿から俯いて目を逸らした。兄の声が聞こえないようにと、首を振り続けていた。
「リーテッ…」
 がっと手首を捕まれ首を振るのを止めた。もう一度呼ばれ、鈍重な動きで顔を上げる。その瞳は濡れていた。兄の顔がぼやけるほどに。
「ダメだよ。…無理。絶対、無理。できるわけ、ないじゃないっ」
 真摯な瞳。縋るように揺れる。心情は痛いほど伝わる。逆の立場であったなら、彼女の主張は尤もだと、自分であっても同じ回答をしただろうと。
 だが、本能が悟っているのだ。この痣は寄宿した者を喰い潰すまで増殖するのだと。痛みよりも何よりも、それが恐ろしかった。喰い潰されるだけならまだいい。
 もしも、自身を喰い潰したそれが、新たなゲリューオンを産み出したとしたら?
「頼む、よ。リー…テ」
 言葉を紡ぐことすら難しくなっていた。せめてこの腕が動くなら、愛しい者にこんな懇願をすることはないというのに。
 悲鳴を上げないようにするのが精一杯だった。
「シアッ…!他にっ、他になにかできることは…。あ、あたし痛み止めを…」
 立ち上がろうとしたリーテの腕を掴んだ。離れてほしくなかった。無理だというならもう、斬れなくてもいい。残酷な頼みだと判っているから。ただ傍にいてほしかった。
 混乱、悲しみ、痛み、切なさ。様々な思いが少女の瞳の中に渦巻いていた。
 立ち上がれず座り直せず、中途半端な格好で固まった。見つめ合った赤銅色。悲しみに満ちていた。
 互いに抱き締め合い温度を確かめ合った。この温もりを護っていきたい。傍でずっと見守ってゆきたい。ならば――
 右足はもう、枷でしかない。
 ぬくもりに数秒だけ、痛みが和らいだ気がした。肩に顔を埋め泣きだした妹の頭をしっかりと抱えた。動きを悟られないようにと。
 そろりと反対の腕を動かして脇に投げ出されていた剣を手にする。
「――っ!」
 凄まじい痛みに音にならない悲鳴をあげた。ビクリと大きく痙攣し、異変に気づいたリーテが顔を上げた時には遅かった。
 本体から離れた右足が黒い瘴霧を吐き出しながら燻っていた。
「なんてことをっ…。典医を呼んでくる!」
 素早く止血し、今度はシアが掴むよりも早く駆け出したリーテだったが、その足は漆黒の気配に制止せざるをえなかった。
 一本の細い瘴霧がリーテの腕を掠めた。
 とっさに身を翻したのが幸いし、少女の腕に少しの焼け跡を残しただけでかわしていた。が、次々に少年の右足から発生する瘴霧がリーテを狙っていた。
 反射的に【保護壁】を自身に移し寸前で瘴霧が衝突した。みし、と嫌な音がする。
 【保護壁】の強度はリーテの意志の強さに比例する。少女にはもう、強靭なそれを紡ぎ出せるほどの余力は残っていなかった。
 無数に襲ってくる黒い霧に、細かなヒビが入り、亀裂を作り、中にいる者を狙っていた。
「ちくしょう!やめろ!やめてくれ!!」
 必死に叫び続けたシアを嘲笑うかのように瘴霧は勢いを増した。
 握り締めていた剣にシアは意識を紡いだ。透明な陽炎が刃に纏わりつき絡み合っていく。閃々と光が刃の形をなぞらえる。
「これで最後だ!」
 声を張り上げ離れたばかりの右足に剣を突き立てた。
 光は吸い込まれ瘴霧が一瞬その動きを止めた。そしてもがく様に激しく動く。足の内部から光が放射され、眩い光と共に、シアの右足は拡散して消えた。
 あっという間の出来事で、リーテに止める術はなかった。ふっと壁が掻き消え、膝から崩れ落ちた。シアの判断が一歩遅かったなら間違いなくリーテは喰われていた。へたり込んで立ち上がることもできず、腕の力だけでシアの元へと辿り着く。
 精一杯伸ばしたリーテの手がシアの頬に触れ、少年は柔らかく微笑んだ。
「よかっ…た…」
 本当に心から安堵した、満ち足りた笑顔。
 ぷつりと意識が途切れ、シアの躯が傾いだ。受け止めようにもそれ以上動くことは叶わず、倒れていく顔を見送るしかなかった。床に落ちて以降、途切れたように沈黙する兄の顔は安らかだった。
 頭をもたげる不安がリーテの背筋を凍らせた。
「リーテ様!?」
 鋭い声が耳に届いた。濁った空気越しに人影が見えた。走り寄ってくる影を見つめた。上半身を起こしているのがやっとで、少しでも気を抜けば崩れるのは必至だった。気力だけが彼女を支える。
 やがてはっきりとしてきた相手の顔に安堵を隠せずにはいられなかった。一瞬でも彼を疑ったことは忘れ去っていた。
 ぐらりと倒れ掛かったリーテをしっかりと抱き止める。
「レフロー…」
「シア様は…気を失われてるだけのようですね。大丈夫ですか」
 最後の言葉はリーテに向けて言っていた。
「立てますか?」
 急かすように、申し訳なさそうにリフローは問う。彼のこんな焦った形相を見るのは初めてのことだった。
 前任の占者から引き継いで数年だが、いつも落ち着き払っている彼の《透察眼》は確かだった。城の者の信頼も厚い。城壁の外へとなかなか出してもらえなかった双子にとって、彼から教えてもらう外の世界のことはどんな物語よりも興味を引いた。
 ただならぬ雰囲気に、躯はとっくに音を上げていたが精神力で掩蔽する。大袈裟なくらい頷いてみせる。リフローはシアを抱き上げ出口へと促す。
「リフロー、その血は?怪我したの?」
 黒い服を着ているので躯にかかっているかは見て取れないが、頬に拭った血の跡があった。ぎくりと躯を強張らせたのを見逃すわけはなく。
 真っ直ぐに見上げてくる少女を見返した。誤魔化しは通用しない。
「私のものではありません。これは…」
 口籠もる顔色の悪さ。それだけで悟ってしまった。
「まさか…。父様と母様になにか!?」
「…急ぎましょう」


 勢いよく開けられた扉が内側の壁にぶつかってビリリと震えた。今だ生々しい血が着衣を赤く染める躯で、リフローに支えられながら戸口に立つ少女の目に飛び込んできた光景は、あまりにも惨過ぎた。
 折り重なるように床に倒れている二つの肢体。上に覆い被さる父は、明らかに母を庇っていた。その母も、血に染まり動かない。
「…父様?…母様?」
 ぎくしゃくと足を動かし、のろのろと部屋の中へ入る。鉄の匂いが充満していた。数歩手前で立ち止まり、再度名前を呼んだ。動かない。
 目は見開いたままで小さく嗚咽を漏らし、首を振り続けた。ぐにゃりと視界が歪み、立っている感覚が失われる。後ろへと倒れそうになって、背中がリフローにあたった。
 その腕にしっかりと抱かれたシアを見上げる。目蓋は依然閉じたまま。
「嘘…。なん、で…」
 頭の芯が熱かった。感情が渦巻く。受け止めきれない現実に叫びそうだった。
「私が着いた時にはもう…」
 リーテの肩を支えながら、リフローは顔を逸らした。
「……!」
 背中にあたる温もりに支えられながら、リーテは凝視していた。目を逸らすことができなかった。だがそれが幸いした。
 下になっている母親の投げ出された指先が、ぴくりと動いた。
「母様?」
 声に反応したのか、また動く。
 弾かれたように駆け寄り、母親の頬に触れた。目蓋が僅かに開かれ、リーテを見た。
「母様!!」


[短編掲載中]