襲撃から数日。
 動き始めたナラダの城内は修繕に向かって連日復旧工事が行なわれていた。

 大広間で気を失って以降、シアは眠り続けている。一度も覚醒することなく。
 父親の亡骸の下より助け出された双子の母は、覚醒と混沌とする意識の間を彷徨い続けていた。目を覚ましている間は比較的しっかりしており、記憶が錯乱するようなことはなかった。
 そんなある日だった。母が眠ったのを確認してからリーテはシアの部屋へと向かった。ほとんどの時間を母の部屋で過ごし、母親が目蓋を閉じている間はシアの様子を見に行くという日々を繰り返している。
 リーテにしてみればどちらにも自分が付き添っていたかったのだが、躯は一つしかなく、それでなくても闘い以降ほとんど休んでいない状況で、レフローに咎められた。
「しっかり静養して、怪我を治すことに専念するべきです。目覚めたシア様を心配させる気ですか? ショックで寝込んでしまうかもしれませんよ?」
 にっこりと痛いところを衝かれ、不承不承従うことにした。
 実際のところ起き上がっているのもやっとの状態で、典医からは絶対安静を言い渡されたほどだった。睡眠は充分とり、見舞い以外は何もしないのを条件に、寝台に縛り付けられるのだけは回避したのだが。兄が目覚めたらすぐ知らせるのを約束として、シアの付き添いはレフローに任せることにした。

 ノックを二回。なるべく大きな音にならないよう静かに叩いた。すぐに応答があり、レフローが顔を出す。
「様子は?」
 見上げた顔はゆっくりと首を振った。そっか、と呟き、足を踏み入れた。招き入れられ真っすぐに寝台へと向かう。
 落ち着いた呼吸を繰り返して、シアは眠りに落ちていた。寝台の脇に立ち膝になった。顔を近づければ静かな寝息が聞こえる。
「椅子を」
 気遣わしげにレフローの声が降ってきて、床に硬質な音がした。リーテはシアを見つめたまま、「いい。平気」とだけ呟く。毎度椅子を勧めてくれるのだが、その度に断っていた。こうしている方がシアを最も近くに感じられる。
 そっと手をとり両手で包んだ。口元に持ってきて、言葉を投げ掛ける。祈りを捧げるように。
 手首にはめられたバングルが、シアのそれとぶつかって違和感を覚える。
 双子の両手首にあてがわれた腕輪。母親の無事を確認した直後、リーテもまた気を失い、丸一日眠り続けた。
 そして目覚めた時にはすでに、はめられていたのだ。
 これはレフローが製作したもので、彼の念が込められていた。ゲリューオンと直接対峙した双子の身を案じ、念の為を思ってのことだと説明を受けた。
 負の感情を寄せ集め、崇められてきた魔の化身   ゲリューオン。
 倒しても尚、まがまがしいものが双子に纏わりついているのが見て取れたという。封じ込め、浄化させるのだと。
 ゆっくりと視線を足の方へと向けて、ぐっと息を呑む。何度見ても、痛い。二本ある筈の足の膨らみがない。かつてあった右足の部分が欠けている。
 幸い、あの痣のような紋様は切断部より上に這い上がってはいなかった。シアの躯にあるのは無数の傷で、手当ての甲斐あって順調に回復に向かっている。
 ――代わりに、リーテに穿たれた紋様。
 ゲリューオンの瘴霧が掠めた二の腕にはきつく包帯が巻かれていた。その下に隠された痣。シアを苦しめ右足を奪ったそれは、少女に残されていた。
 不安を煽りたくない一心で、このことは黙殺していた。占者であるレフローは気づいているのかもしれないが、触れてこないので自分からは敢えて何も伝えていない。
 時折蠢き、若干の熱感がある以外に特に害はない。時機を見て相談すればいい。今はまだ、そんなことに気を取られていたくなかった。
 たとえ、紋様が疼くのに呼応してバングルが振動しても、気に留めないよう努めていた。
「一度も目覚めてない?」
 シアの寝顔を見たまま、背後に控えるレフローに問い掛ける。
「ええ」
「…反応は?」
「全くありません」
 落胆の色を隠そうともせずうな垂れた。目覚めてほしいと、気ばかりが急く。どうしようもなく不安に押し潰されそうになるのは、ずっと、いつでも傍にあった同じ色の瞳が開かれないからだろうか。
 遠慮がちにノックが聞こえた。レフローが応え、立ち上がろうとしていたリーテを目顔で制した。私が出ますと言い、身を戸口へと向ける。
 首だけでよじって動きを見ていたリーテは、扉を開けた人物を凝視した。
「母様っ?」
 思わず大きな声を出してしまってから、シアを見た。変わらず瞳は閉じたまま。
 細く柔和に微笑んで、レフローに「入ってもいい?」と聞いた。リーテ同様驚き入っていたレフローは、はっとして立ちはだかっていたことに初めて気がついた。慌てて道を空ける。
 礼を言って入室してくる足取りはしっかりとしていた。
「起きていても平気なのですか?」
「ええ。もう大丈夫よ」
 以前と変わらない笑顔に、ほんの少しだけ安堵する。けれどその言葉を鵜呑みにすることはできなかった。
 代々皇室付騎士団の地位にある家へ嫁ぎ、陰で夫を支え続けてきた母は、頑強な精神を持っていた。そのことをずっと、幼心に感じてきた。こんな時、気丈に振舞うなど造作ないのだ。
 我が子の心情を読み取ったのか、笑みを深くしてそっと頭を撫でた。
 血にまみれた両親の姿を見た時には覚悟した。もう二度とこんな風に温もりを感じることは出来ないのだと。だから尚更嬉しかった。懸念を払拭し、笑みを返した。
「大丈夫よ。じき目覚めるわ。二人とも私の子供なんだもの。シアも負けないわ」
 誇らしげに、優雅に表情を作る。どんなに勇敢な騎士であっても、母親の前ではただの少女に戻ってしまう。それは決して恥ずべきことではないのだが、リーテは背筋を伸ばした。
「…はい」
 喉につっかえる感情を押し留めて、凛と答えた。
「…っ!?」
 母親の手がリーテの肩に置かれた途端、激痛が走った。不意を突かれた急激な痛みに思わず声が漏れ出る。紋様に触れたのではない。全身の神経が表面に出ているかのような敏感さで痛みが走る。空気が触れるのでさえ苦痛だった。
 母親がリーテの名を呼び続けていたが、耳が機能を果たさなかった。内側で【何か】が増殖するのを感じていた。
 掻き毟るほどに二の腕を押さえ、疼きを止めようとした。
 押さえ込もうとすればするほど巧くいかず、大きく痙攣し全身を仰け反らせた。息ができない。
 床に倒れこみ、うずくまり、必死に呼吸をしようとあがく。
 母親は傍らに跪き、自身の両手が行き場もなく彷徨っているのと、小さくなって苦しみに耐えようとする我が娘の姿をオロオロと交互に見た。狼狽して、次に取るべき行動の判断に迷い、背後に立つレフローに救いを求めて視線を投げ掛けて――頭の中が追い討ちをかけて、混乱に落とされた。

 彼は、破顔していた。

 開いた唇から言葉が出せなかった。何を、何から言えばいいのか判らない。目が離せない。
 ――なにを、笑っているの?

 ばん、と大きな音がして母親はびくんと躯を強張らせた。直後の悲鳴に寝台へと視線を移す。
 寝台の上で、床の上のリーテと同じく、シアがもがいていた。消えてしまった右足の方へと手を伸ばし、まるでそこが痛むのだというように。
 驚愕に目を見開いた母親の視界に飛び込んできたのは、逸らしたくなるような姿。
 瞬く間にシアの全身に漆黒の紋様が穿たれた。
「ゲリューオン、なの」
 見ると、リーテは脂汗を滲ませながらも立ち上がろうとしているところだった。その手には剣が握られている。
「無理よ。動いちゃ駄目!」
 母親の制止の声に微笑んで応えた。それでも動かなければいけないの、と。
 可笑しいほどに震える膝を叱咤して立ち上がる。剣を構え、数歩近寄った。少年は寝台の上でのたうちまわり、何も見えてないようだった。
 ようやと開かれた瞳は、待ち望んだ覚醒は、決してこんな形ではなかったのに。悔しさで歯を噛み締め、いったん目蓋を降ろしてから次に開けた時には、騎士の顔となっていた。
「シア!…シアッ!聞こえる!?あたしの声、聞こえる?」
「く…る、なっ…」
 内側から突き破ろうとする【モノ】を意志の強さだけで押し留め、シアは奥歯の隙間から漏らすような声を出した。
 剣を握っていても、構えていても、それを向けるなど出来る筈もなく。剣を投げ捨てて今すぐ兄を抱き締めたかった。できるなら、その痛みを、苦しみを、消し去ってあげたかった。シアの姿に感応して蠢く二の腕の痣。それさえもどうすることも出来ずにいるのだ。
 何一つ方法が判らない。


[短編掲載中]