――紋様は、双子に残されたというのか。
 シアは獣のような悲鳴を上げた。小刻みに震える躯。両腕で自身を抱き締め、必死に震えを、これから起ころうとすることを押さえ込もうとしていた。
 視界がぼやける。泣いている場合ではないのに、目の奥が熱くなる。
 寝台の上で顔を埋めうずくまるシアは、低く唸っていた。喉の奥から発する、獣の呻き。
 なにか、なにか…!
 頭の中はぐちゃぐちゃで、必死に考えようと思考を巡らすのだが、足は根がはったみたいに動かなかった。柄を握る手に汗が滲む。
 小さな漆黒の塊。自身の腕に爪を突き立て、内側と闘っている。孤独な闘いを挑んでいる。
 彼の苦しみを切実に感じているのに、木偶の坊と化した自分に憎悪が込み上げる。
 リーテの脇をスッと通り越した影があった。躊躇いなくシアに近づいていく。
「レフロー!?危ないよ!」
 止めようとする声を背中で聞き、レフローは口元に笑みを浮かべた。振り返りもせず、速度も落とさずシアの真正面に立つと流れる動作で長衣の下に隠していた短剣を抜いた。狙いを定め、的確に目的に衝き立てる。
 シアの両腕にはめられていたバングルが粉々に砕け散った。
 唐突に、呻きが途切れた。ぶるる、と頭の先から足の先まで躯をさざめかせ、すぐにピタリと止んだ。両手、左膝をついて顔を起こすと鋭く室内を見回す。不気味な光の宿った瞳だった。
 シアの輪郭が徐々にぼやけ始める。紋様が黒い霧を発散していた。
 これは…、この姿は…。
 全身を紋様に穿たれ、黒ずみ、瘴霧を纏い、鋭い牙を口から覗かせる。長い爪がシーツを切り裂いた。
 かつての美しい容姿は失われた。目の前にいるのは、かろうじてシアの形を残した魔物に過ぎない。少年の内側から産まれた小さなゲリューオン。
「い、やだ。しっかりしてよっ。負けないでよっ!」
 涙声を張り上げる。僅かに反応して見せたのは、幻で。
「がああぁぁぁっっっ!!」
 獣のごとく哮り、シアだったものはリーテに向かって飛び掛る。咄嗟には動けなかった。構えていた筈の剣は、ただのお飾りに成り下がる。ひどく遅い時間の流れだった。飛躍した黒いモノが、自分に向かってくるのを直視していた。
 時間の流れが元のそれに戻った瞬間、全身に重みを感じた。
 後方へ傾ぐ。背中に硬いものがあたる。反対に、自分に覆い被さった重みには、柔らかいあたたかさがあった。
 視界の端に黒い影が軽やかに着地したのが見えた。上半身を起こそうとして、リーテの上にあった温もりがズルリとずれた。
「え…?」
 姿を認めて、状況を把握して、手がカタカタと震えた。
「母様!」
 背中の服は破り取られ、その下から覗く爪痕が血に濡れていた。
 獣は容赦なく飛び掛ってくる。今度は考えるよりも先に手が動き、剣を横にして防御する。鋭い牙でも鋭利な刃物を折ることは不可能だった。腕を動かし横にずらそうとして、獣はいち早く退いた。微かに切っ先が相手を傷つける。
 着地と同時に身を翻し、軽やかに床を蹴り、寝台を蹴り、窓を蹴破って外へ出て行った。
 細く冷たい指先がリーテの頬に触れた。シアを追っていた視線をそちらへと移す。
 母の手はリーテの顔から離れ、残骸となったバングルを掻き集めようと動いた。躯を支えながらそれを手伝い、掌に握らせた。
「シアを…救って」
「でもっ、あたしはどうしたら…」
「あなたの、心のままに」
 両手でバングルを包み込んで、母は目を閉じた。それは祈りを捧げる時と同じ、静かな表情だった。
 リーテは息をするのも忘れて見守った。
 目蓋が開かれるのと同じ動きで開かれた手の上に、復元されたバングルが乗っていた。レフローが双子に与えた時とは違い、色が変わっている。
「これをシアに…」
 娘の手を取って、宝物を扱うような慎重な手つきだった。疑問符を浮かべて見せたリーテに真摯な瞳を向ける。
「制御のバングルなの。…レフローは、私達を欺き続けてきたのね」
 にわかには信じられない言葉だった。信じたくない言葉だった。だが母の目は覆す隙も与えないほどに真剣な色を宿している。それでも、
「これは、レフローがあたし達にはめたものです。ゲリューオンの闘いの後、彼はあらゆるものから護るから、と言っていました。違うのですか?」
「護りたかったのは、内側で時を待つゲリューオンだけ。シアやリーテが眠っている間に潜んでいることを、存在を悟られないようにしていたのでしょう」
 確かに双子との闘いで魔獣は弱体化し、再び目覚めるには時間が必要だった。しかし真の目的は他にあったのだ。
 遥か昔より、侵略の前に立ちはだかる邪魔な存在を消し去る手段。【呪い】として紋様を穿ち、敗北のふりをして双子に宿る。赤銅を滅ぼす為に。
 クエンの魔獣が最も畏れたものは、二つになった赤銅色。

 ――私は、道案内役にしか過ぎぬ。
 ガルクの最期の言葉。あれはこういうことだったのか。

「ゲリューオンは、生きている?」
 リーテは自分の胸に手を当てて、ぎゅっと拳を作った。心臓を握り潰す動作。今ここで、内に息づく生命諸共止めてしまおうとするかのように。
 母親はそれに自身の手をそっと乗せた。硬く握られた拳は、小さく震えていた。優しく引き寄せ胸に抱く。
 こうして抱き締めるのは、いつ以来だったか。
 皇室付騎士団の家に産まれ、厳しい父に育てられてきた。その地位に君臨するのは当然であるべきで、道を外すなど以ての外。加えて、産まれ落ちた瞬間に双子には使命が課せられていた。
 泣き言を吐いたことは、一度もない。聡明すぎるが故に、総てを悟っていたからだ。
「再びこれをはめれば、シアは戻れますか?」
 芯の通った声に顔を上げる。そこにはもう、哀痛も、悲憤も、震怒も、なかった。優先すべきことをやるしかないのだと、決心した顔つきがあるだけ。
「それは…判らないの」
 凛然とした娘に返すには申し訳ない回答で、消え入りそうな呟きだった。それでなくても、背中の傷は急速に残りの生命を奪っていった。
「典医を呼んできます。待っていて下さい」
 ゆっくりと寝台にもたせかけ、もう一度待っていてと繰り返した。母の中の灯火が消えようとしていることを感じ取っていても、何かをせずにはいられなかった。
 戸口に向かおうと背を向けて、手首を掴まれ、くんと傾いた。母の顔を見、手首に熱を感じて視線を移し、咄嗟に振りほどこうとした。
 強く握られているわけでも、そんな力が母親の中に残っているわけでもなかったのに、びくとも動かなかった。どこにそんな強さがあったのかと、驚くくらいに。
「止めて下さい!母様っ!それでは貴女が…!」
 いくら少女が完全回復をしていないからといって、ほどけない筈はなかったのだ。なのに頑として動かない。
 一度は冷静になっていた思考が再び乱れる。頭の芯が、煮えたぎる。
 リーテの腕にはめられたバングル。母親が念を注いだそれは、シアのそれと同じ色に染まった。最期の生命と引き換えに。――二の腕の疼きが、鎮まった。
 掴む手が離れ、色が変化していることが見え、佳人がゆっくりと床へ倒れていくさまを見送った。
 受け止めようとした腕をすり抜けて、冷たい床に横たわる。二度と開かれることのない瞳。

 幼き頃からずっと求め続けたぬくもりは…失われた。


[短編掲載中]